エピローグ②『19:25 M2Fニューデイズ横』

 ……今考えると、あの態度でよく犯人隠匿を疑われなかったものだと思う。

 途中からストックホルムやらリマやら聞き慣れない単語が横行していた気もするし、初めに私をケアしてくれた女性の警官がうんざりした私を見かねて上司に何か迫っているのも見た。

 そのどれがきっかけになったかは分からない。とにかく保護から1週間もしない内に東京へ戻された私は、失踪からきっちり10日間を空けて職場へと復帰した。

 見る度に我ながらうんざりする写真写りの悪さをはじめ、被害者の情報がニュースで晒されることは無かった。だが流石に近しい立場の人たちには警察からある程度話がいっていたらしい。そっとオフィスの様子を伺っている私に気付いた時の皆の顔と、そして何より何の前触れもなく一週間分の穴を開けた自分の仕事を必死にカバーしている先輩。その疲れ切った背中を見た時、ようやく自分が大きな事件に巻き込まれていたんだという実感を覚えた。

 突然私が居なくなっても、世間は知らん顔で回り続ける。

 けれどいなくなったことによって起こる波紋というのは、確かに広がって周りを揺らす。

 方々に頭を下げ、好奇心旺盛な連中のに答え、半日を費やしてようやく自分のデスクに落ち着いて──そこで初めて日常へと戻ったという実感と、いつも通りでいられる事の有難さ──麻痺しきった自分が、その平穏な日常を『退屈』と括ってしまっていた事に気付いた。


 もし、あのままバートリと意思の疎通ができなかったら?

 もし、バートリの傷をいたずらに刺激するような事を口にしていたら?

 ……もし、お腹にナイフを押し付けてきたのがバートリじゃなかったら?


 もしかしたら自分は二度と、この何でもない日々に戻れはしなかったかもしれない。 

 そう思えば思うほど時間差で襲い来る、芯から冷えるような心地。夜毎に襲い来るその震えから目を逸らすように、溜まりに溜まった仕事へ呪詛を吐き散らかしながらひたすらに打ち込んだ。

 そうして納期前に空けた10日という大穴を急ピッチで塞ぎきり──いつの間にか夜毎寝しなに思う『もしも』に怯えて飛び起きる事もなくなった頃、どうにか年を開ける前には演劇のポスターを納品できる運びとなった。

 今日はそのゲネプロに招待され、更に終わり際のナンパを断って戻ってきたところだ。


「じゃあ、話してたあの駅弁奢ってよ。懐の深ぁーい私はそれでチャラにしたげる」

「……先輩風びゅーびゅーじゃないですか、ねぇ」


 トラブルにも負けない納期遵守の立役者にそうまで言われて、なお断るのも却って面子を潰してしまう気がした。頷きを返してから先輩にひとくち遅れて水を飲み干し、間に置かれていたふたつのボトルをさっと手に取って立ち上がる。


「丁度この上の改札に売り場あるんで、今から行きましょう。持って帰って早めの夕飯ってことで」

「いいわね、それ」


 割り振りはもう決めていた。先輩には味を知っていてお勧めできる曲げわっぱのすき焼き丼で、私はあの時隣へ手渡した東北復興弁当にする。売り切れていなければ良いけれど。

 あの時バートリが食べていたのは、果たしてどんな味がするんだろう。新幹線の中でそれはもうおいしそうに、そしてどこか懐かしむように食べていた味。頬張った途端に初めてほころばせてくれたあの顔は、今でも脳裏に焼き付いている。

 その味を知れたなら……3か月たってもニュースはおろか警察との話でも一向に知れない彼女の行方も、もしかしたら分かってしまうんじゃないか。


「……?どしたの?」

「いいえ、なんでも」


 我ながらバカげた発想に隠れてひとつ笑いを払って、私の脚は先輩の背を追ってエスカレーターへと踏み出した。






 ※     ※     ※






「ごめんね、本当!」

「いいんですよ。直帰する踏ん切りがつきましたし」


 別れの挨拶を済ませて改札を抜けても、幾度となくこちらを振り返り頭を下げる先輩を笑いながら見送る。

 結局、会社に戻ってふたりで駅弁ディナー……とはならなかった。

 会計を済ませたところで先輩のスマホが鳴り、次のクライアントの急な呼び出しを受けた彼女はそのまま打ち合わせに向かう事となってしまった。どうも私のフォローに回ったしわ寄せが、今になって方々に押し寄せてきているご様子。

 来週からはこちらが助け船を出す立場になりそうだ。大してしてこっちはやや過大に気遣いを受けた事もあって、スケジュールに余裕が残っている。夕飯を共にするという予定が消えた今、わざわざひとりで会社に戻る理由もなかった。

 そして明日は休みを入れている……とくればこのまま帰ってたまには家でゆっくり、お酒でもひっかけつつ駅弁を摘まむのも悪くないだろう。

 そう決め込んで適当なコンビニを求めつつ改札を歩く私に、見覚えのあるデザインのポスターが目に入った。


 ……おお、ここにも張り出されてるんだな、私の仕事。


 思わず立ち止まり、顔を上げて柱へと正対する。

 左から右へと流れる河に合わせて、新緑から紅葉へとグラデーションを見せる森の木々。その樹上で足を投げ出して、栗毛の処女が横座りに腰を掛けてその細い顎を僅か天へと向けている。その目線を追うように見上げれば、明け方の霧空が瞬く星を散りばめた夜のへと変わっていき、キャプションの真下に泰然と輝くのは、その身を細くした下弦の月。


 ──場所も季節も違えた遠い空の下。唯一同じ存在として望める月を見上げて、故郷を思う。


 クライアントが提示してきた『望郷と憧憬』というテーマ。それに対して私なりに捻り出した答えは、それまでの難癖が嘘のようにあっさりとOKを頂けた。

 まぁ、正直に言えばデザインの説明はそれっぽい言葉を並べただけだ。種を明かせばそれは旅の最後にチラシの裏へと描いたラフを基に、残った思い出とバートリに対する解釈を膨らませただけの、いわば自己満足に近いものだった。

 今までに提出したものと違う点があるとすれば、資料や客観的な情報を基に描いただけのデザインと違い、ここには圧倒的なが込められていることだ。奥入瀬の川の流れも森を覆う朝の霧の冷たさも、そして月を見上げるバートリの気持ちを思った事も、全ては自分が経験し、観測し、噛み砕いたもの。そこに帯びる形のない説得力が、クライアントの首を縦に振らせる決定打となったのかもしれない。

 けれどこの画に込められた本当の意味は、私だけにしか解らない。


 きっと、それでいい。

 本当はどうにかして旅館の丸窓に配されていた意匠も取り入れたかったのだが、権利関係をクリアにするために東京へ戻っていくら検索したところで、どういうわけか私達を泊めてくれた宿がヒットすることは無かった。そこに覚えた狐につままれたような心地と謎は今を以ってなお解けないけれど、あの有り得ない尽くしだった旅のオチとしては、このままあやふやにしておく方が良い気もしている。

 緊張と恐怖から始まって、最後は没頭に別れの瞬間ときを見逃すなんて──本当に、あれだけ感情と周りの人間をジェットコースターのように振り回す2日間は、きっと今後一生訪れないだろう。というか、訪れて欲しくはない。

 ……けど決して『あんなことが起こらなければ良かった』なんて思う事もなかった。

 どれだけ周囲に負担と迷惑を掛けたと自覚したところで、私にとってあの2日半は『尊敬できる年下の同志と出会い、共に過ごした楽しい時間』に過ぎなかった。きっといつまで経っても色あせる事のない、尊い記憶となって心に残る。そんな確信があった。

 しぱしぱと2度瞼を瞬いて涙の気配を追い払い、改めて絵の中の少女を見上げる。

 この絵に込めたのは一生に一度あるかないかの出来事、そこにありきたりな名を付けるならば奇跡。それを形に残し、忘れないという決意だった。

 バートリは今頃、どうしているだろう。

 警察から逃げ続けている?違う気がする。

 そもそもあの子は逃げていた訳じゃない。その目的はただ、あのスケッチブックに描かれていた奥入瀬をひと目見る事だけだった。

 それならついにあの風景を見られたことで心残りを無くし、母親の後を追った……私の願望込みになるけれど、それも違う気がする。

 だって、あの子は強い。

 取る手段の是非はあっても、自分を取り巻く一見どうしようもない状況を打ち砕くだけの心根を持っている。その事は握っていたナイフのぎらつきと、血の痕が物語っていた。ならば今はまだ、捕まっていないだけ。

 そして、あの子は真っ直ぐだ。

 逃げ続けももしないのならば必然、どこかで自分のしてしまったに落とし前を付けるだろう。

 再会が待っているとしたらきっとその後、全てが終わり、許されてからだ。

 果たしてそれが一体何か月、何年先の事になるのかはわからない。

 だけどその日が来るまでは、描き続けていよう。

 私とあの子を繋いでいたのは、いつだって紙とペン先なのだから。 


「……またね、バートリ」


 挨拶はすぐに家路を急ぐ雑踏に消え入り、私もそこへ混じるべく踵を返す。






 ──ぴーん、ぽーん。

 遠くで、改札の開く音が鳴っていた。


(『オイラセ~壁を隔てて『ああ退屈だ』と嘆く~』了)

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短編『オイラセ』~壁を隔てて「ああ退屈だ」と嘆く~ 三ケ日 桐生 @kiryumikkabi

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