第27話『時刻不明 銚子大滝』

 構図を決めてから一度だけ、既に一段上の岩場でペンを走らせているバートリへと歩み寄った。

 滝の前に立つ彼女の集中ぶりは、その背中越しでも伝わってくる。輪郭線がはっきりと見えるようなその佇まいはは寒さへの身じろぎどころか、息遣いで生じる肩の上下すら抑える程の領域にまで達していた。

 それほどまでの没入の邪魔すると分かってなお、私の足取りは彼女を中心に衛星の軌道を描き、そのどこまでもまっすぐで透明なまなざしの中へと入り込む。


「?」


 目線が合うと同時に、バートリは僅かに小首を傾げた。わたしに見せた反応としてはそれだけで、邪魔されたことに気色ばむわけでも、かといって筆を止めてそれ以上の関心を払うわけでもなかった。


「……ううん、なんでもない。ごめんね」


 スマホはもう、アプリを落としてポケットの底で眠っている。この言葉と顔の前で揃えて立てた指は、私が今抱えている気持ちをどれだけ伝えてくれるのだろう。

 何秒かだけ滝の音だけが大きくなって、それからバートリはゆっくりと目を細めてくれた。相変わらず、ペンの先は目にも止まらないような速度で動いたまま──さっきの疑問の答えにはならないけれど、向けてくれた柔らかな微笑みは私の目にする彼女の最も新しい表情、その更新として十二分に満足のいくものだった。

 やっぱり、バートリの細面には笑顔の方がよく映える。できることならば、これからもずっとその表情が絶えない日々にものだ。


「さて、と」


 なんとなく、もう一度顔を見ておくべきだと思った。

 それだけの根拠なき衝動で、何かに打ち込む者への禁じ手を打ってしまった、そんな自分と今度こそ決別すべく、わざと声に出して紙とペンを構え直す。

 敢えて、バートリの背中は構図へ入れなかった。ふたつ以上のモチーフに向き合って、そのどちらにも誠実な結果を生み出せるほど器用な自覚はない。

 ぐるりと仰ぎ見て水の流れと緑、そして空とのバランスが最も取れたところで首を止める。そして一度だけシャッターを切るように瞼を下ろし、あとはひたすらにそれ以外の全てを心の中から追い出していく。自分と目の前に広がる景色描きたいもの、その境界をどれだけ取り去れるか──それは観察の極意として教えられた主客合一の概念を、私の小さな脳みそで噛み砕いた解釈だった。

 純粋な集中。

 バートリが恐らく誰の教えも請わずして辿り着いているその境地へと、私は師事と経験でどうにか追って入ろうとする。その最中で同じ景色を前に私とバートリが手掛けるもの、そこにどんな違うが生まれるのか全く気に留めなかったといえば噓になる。事実初めのうちはいちいち手を鈍らせては、チラチラと上の岩場へ目をやったりもしていた。けれどそれも次第に頻度を落とし、その度に動き出したペン先が徐々にそのペースを上げ、格子に入ったチラシの折り目をひとつずつ侵略していった。

 立ち止まった事でより身を削る寒さも、腹の底へ響く瀑布の叫びも、顔に当たる飛沫の冷たさも──そしてバートリのことを思う憂いも、そのすべてが遠ざかってゆく。

 お金の絡む仕事でも、癖を露わにする趣味でもなく手を動かす。それはもしかしたら二度と見る事の敵わない景色を前にして生じたどこまでも透明な衝動であり、同時に否応なく突き動かされる使命感に似た何かに急き立てられていた。

 途中で一息入れてに腰を下ろす、どころかペンを握った手を一度たりとも下げようとも思わない。自分とそれ以外の境界が薄まる程に、手を止めようとする全てから遠ざかって行く。ついには時間の感覚までも引き延ばされ、あるいは圧縮され、描き始めてから一体どれだけの時間が経ったかも不透明になっていた。

 そうして何もかもがあべこべに、あやふやになった意識の世界の中で、ただ延々と手を動かす。



 ──Salut、ハルカ。



 その中に会ってたったの一度だけ、ペン先のボールが紙を擦る音よりもはっきりと聞こえた声があった。


「あー、うん」


 だが集中の途切れを厭うあまり私はその声に……まるで休憩にコーヒーを買いに行く同僚を見送る時のように、手を止めないまま目も合わさずに軽い生返事だけを返していた。

 それが取り返しのつかない過ちだと気付いたのは、薄雲越しにすっかり高くなった陽の元、後ろから複数の足音が近づいてくることに気付いた時だった。


「いたぞ!」


 貫くようなその声にはっと我へと返り、あらかた描き込みを終えた紙から顔を上げて岩場を見上げる。

 

「……バートリ?」


 呼びかけても返事はない。そこにあるべき人影がないのだから、当たり前の話だった。

 いつここを去ったのかすらもわからない。代わりにそこへ置かれていたのは几帳面に畳まれた、旅館の人が貸してくれたマウンテンジャケットだった。彼女が存在た唯一の痕跡であるそれを拾い上げると、微かにラクトンのほの甘い香りが鼻をくすぐる。

 不思議と悲しくはならなかった。それどころかさよならの言葉を流してしまった自分を責める気持ちも、いまひとつ湧いてこない。

 それもまた、線引きが甘いからだろう。面と向かってはっきりとしたお別れが出来なかったのは、私たちにとって不運だったのか幸運だったのか。

 自他の境界を引き直した頭がその答えを導き出す前に、濃い藍色の制服に身を包んだ集団がわたしを取り囲み、肩口の無線に気忙しい声を飛ばす。



「本部本部!7時45分、銚子大滝にて人質を保護!外傷なし!」

「マル被の姿は確認できず!」

  

 ああ、今は8時前なんだ。もうそんなに経ってたんだ。

 それで……何も知らない人たちにとって私は人質で、あの子は被疑者だったのか。

 そんなつもりは、最後までなかったんだけどなー……


 私より頭ひとつぶん背の高い警官に促されて振り返った先、木々の折り重なりを抜けた先に僅か覗くパトカーの頭。

 そこでくるくる回る赤色灯を眺めながら、ただぼんやりとそんな事を考えていた。

 

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