第26話『6:25 雲井の滝』

 浅い滝壺から舞う飛沫が水煙となって、私達の立つ岩の縁にまで漂ってきた。歩き通しの足を止めた事で浮かんだ僅かな汗と混じって、赤くなった頬から静かに熱を奪っていく。

 誇るのは横の広さではなく、縦の高さ。大きく3段に分かれた岩の崖に掛けられた白いカーテンがたなびいているような優美さ……それが遠目から滝を見つけた時、最初に抱いた感想だった。だがこうして遊歩道を外れギリギリまで近づいてみるほどに高く聳える位置、1秒間あたりの想像もつかない落下、それが目の前で弾ける運動……流れが見せつけてくるそのエネルギーたちにただただ圧倒されるわたしがいた。

 その余波の様にあたりを包む水気を僅かな緊張と一緒に吸い込めば、喉を伝って肺の奥まで落ちる冷気によって、呼吸のたびに身体の中の何かが研ぎ澄まされていくような心地をもたらしてきた。

 ここまで時折耳に届いていた風の音や鳥のさえずり、気の早い紅葉の始まりを纏う葉のさざめき──そのすべてが緩やかな平地を往くせせらぎとは異なる、荒々しい水落の音に飲み込まれ、聴覚を単一に支配していく。 

 近づけば音の衝撃で身体が痺れを覚えるほどなのに、耳に痛くならないのはどういう理由だろう。

 あるいは……人の作り出すものでは決して辿り着け得ないその威容スケールを機軸にしたとき『耳が覚える不快さ』なんて存在感が小さすぎて、知覚できなくなってしまうからかもしれない。


「半ッ端、ないね……」


 形容する言葉すら浮かばない絶景を前に、どれくらいの時間呆けていたか。委縮すら覚えていたされていた脳がどうにかそんな語彙力ゼロの感想を絞り出し、同意を求めた目線がようやく滝から離れてバートリの方を向く。

 しかしそんな私の呟きは、叩きつける水音と比べてあまりに小さかった。バートリはこちらに何ら反応を見せないまま、ただ打ち付ける滝の流れを食い入るように見つめていた。

 マックでメニューを見た時も、バス停で時刻表を睨んでいた時も──彼女はその身長のせいか、立ち止まって何かを注目する時は姿勢が前かがみ気味で、いわゆる猫背になっている事が多かった。だが今やその後ろ姿は定規を差し込まれたように真っ直ぐに伸び、眼前に広がる光景と正対している。半歩下がって滝前に収める姿勢は、まるで見えない何かに敬意を払っているようにも見えた。

 その肩先が微かに震えているのも、撥ねる水飛沫が見せる錯覚などではないのだろう。当たり前だ。昨日もらった観光パンフを捲って初めて奥入瀬に滝がある事を知ったような私とは、思い入れの量もあり方も比較にならない。

 非日常だらけとはいっても、私にとってはたった1泊2日のだった。だがバートリにとっての始まりはきっと私と出会うよりももっともっと前──母を失い、突然叩き落された理不尽な日々にその面影を求めてスケッチブックを開いた日から、ずっと続いていた巡礼の旅路だったのかもしれない。

 だから、さっきの声は届かなくって正解。彼女はきっと今、時間も次元も飛び越えて、あの日の母親と交信している。

 脇にだらりと下がっていた両手が、軽く握り込まれて目元へ上がっていくのが見えた。私はもう一歩だけ後ろに下がって、視線を自分のトートへと逃がして中へ手を突っ込む。

 やがてその背がゆっくりと動き、バートリが振り向いた。真っ赤に腫れたその目を向けられ、私が何をすべきか一瞬だけ迷った。長い長い足取りの果てに訪れた愁嘆場。ねぎらいの言葉も慰めの抱擁も、今のシーンにはきっと映えるものだろう。そんな選択も多分間違いではない。けれど、それよりももっと、私達には相応しい答えがある。

 太陽はまだ完全に顔を出した訳じゃないし、最初の観光バスが来るまでだってきっとまだまだ時間はある。

 これほどまでに心動かされるものの独占を、私達は許されているんだ。だったそれを前にしてやれることなんて、ひとつしか思い浮かばない。

 だから泣いていた事にも、こちらへ駆け寄る為に踏み出そうとしている足にも気づかないふりをして──敢えて歯を見せるような笑い方で、ペンとメモ帳を掲げて突き出す。


 描こう、バートリ。


 ──なんて今更、言葉にする必要はなかった。

 生み出すタッチは異なっても、描くことに魅せられたものとしてのサガは共有している。岩場を降りようとする脚を引っ込めたバートリは、これまでで一番大きく首を縦に落とした。その勢いで目の端から水滴のひとしずくが弾け、まるで終わりなんて感じさせない水舞の最中へと混じって消える。

 顔を挙げた彼女がリュックから折り目のついたスケッチブックを取り出し、ペンを握った。それを見届けてからこっちも視線を外し、顎の先20センチで構えたメモ帳にペン先を置く。

 あの立ち位置ではきっと、バートリは滝を構図の中心に添えるつもりだろう。あれだけ敬愛している母親と一緒……なんて短絡な選択肢を取らないあたりが、なんともあの子らしい。

 ならば私は、そのどちらとも異なるものを──なんて考えを巡らせた視界の輪郭が、不意にぐにゃりと歪んで鼻の奥がツンと痛んだ。

 慌てて川の流れから顔を逸らし、顔を開いたページで覆う。それからちらりと目の端で盗み見たバートリは、こちらなど一切気にしていない様子で一心不乱にペンを走らせていた。

 ……良かった。気付かれてないみたい。

 『構図を探していた』なんて誰に向けた言い訳なのか、自分でもわからない。これだけの絶景を目の前にして実のところ、眼前には未だに振り向いたバートリが見せた表情がプロジェクターに起こる焼き付きみたいに残っている。

 わたしはおとなだ。

 わたしよりずっと辛い境遇の渦中にいるバートリの前で、涙を見せるわけにはいかない。

 たとえ零れた涙が、その当人の表情に溢れたものだとしても。

 半分閉じた瞼の上を手の甲が乱暴に往復しても、こちらに振り返ったバートリの残像はまだ消えてくれない。それはまるで夕暮れの空を見上げたような、笑顔と泣き顔の狭間だった。ここへ立つまでに失った物と得てしまったものの全てがい交ぜになって、あの表情を作り出している。

 自分を苛んだものとはいえ、人を傷つけてしまったという罪悪感。

 それと引き換えにここまで辿り着いたという達成感。

 同時に今日まで手足を動かしてきた、目的が消えた喪失感。

 何よりそれと入れ替わりに満ちていく「おかあさんはもういない」という実感。 

 彼女の胸を今満たしているもの。それに思い当たる『感』は沢山あって、そのどれもが多分間違ってはいない。けれどそのどれも、バートリの心情を正しく表し切れてはいないという確信だけはあった。

 そもそもこうして慮る彼女の心の中自体、この小さな脳みそが生きてきた中で学んだ言葉で必死に形容しているだけた。胸の内に広がる本当の色を表現できているなんて自惚れ、とても覚えられない。 

 バートリの倍近く生きているというのに、そんな無知な自分が情けない。

 この先、日が昇りきったあと……彼女を待つこれからを思っても、きっと何もしてやれない。そんな無力な自分がまた、情けない。

 ……だったら、その思いごと。

 肺を膨らませきるつもりで大きく息を吸い込み、滝の冷たさと込められた力を思い切り吸い込む。それからゆっくり時間を掛けて息を吐き出すとようやくの事で波立つ胸が収まって、バートリの焼き付きもずいぶんと薄くなってくれた。

 何日かぶりに仕事人としての、絵描きとしての自分が戻って来た。

 ただ風景を残すなら、写真で良い。

 絵の持つ力。どんな思いでこの景色の前に立っていたか。頭をぐるぐると巡っている、ことばに出来ないものの全部を今、この筆に乗っけてやる。

 そんな気概で当たるにしては、それまで必要十分の用を足していたB6の紙面があまりに狭く見えてきた。

 大きく首を振ってからトートにメモ帳を放り込んで、代わりにのチラシを取り出す。上野の旅行代理店で貰った奥入瀬の裏白チラシは、この慌ただしい何十時間かですっかり折り目だらけになっていた。

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