第25話『5:52 国道103号』

 もしも魂が絵の中に閉じ込められれば、きっとこんな気持ちを抱くのかもしれない。

 薄霧に包まれた山道の真ん中。動くものは見えず、聞こえるのは微かに聞こえる水の流れと、それを掻き消すほどずっと大きなお互いの鼓動と息遣いだけ。

 そんな現実とかけ離れた空間の中央に、私たちの影が重なっている。時間の感覚は無限に引き延ばされたように、あるいは限界まで圧縮されたように尺度を失っていた。

 だからどれほど時間が経ったのか、なんて見当もつかない。

 確かなのは、その時間が永遠に続かなかった事だけ。

 とにかくその果てに私の肩へ顎を乗せていたバートリがうなづいた。その動きに覚える僅かな重さの移動を合図に、私達はどちらともなく身を離す。


「ん」


 惜しむような気持と一緒に伸ばした指先で、腫れた目尻をそっと拭ってやる。一瞬びくっと震えたバートリが、すぐに離れようとする私の手を外側からそっと握った。

 それから再びゆっくりと進み出した足並みが、徐々にペースを取り戻していく。


『母が亡くなった時、日本の祖父も祖母も、既にいませんでした』


 足取りはもう、停まる前の速度にまで追いついていた。それを合図としたように、震えの収まったバートリの声をアプリが翻訳してくれる。 


「え、じゃあ、その……葬儀とかは、一体誰が?」

『それからの事を全部やってくれたのは、叔父でした』


 今度は、こちらが驚く番となった。

 それは紛れもなく、推量からは繋がってくれない事実だった。バートリの追い込まれた状況を考えて、顔も知らない彼女の叔父を頭っから尻の先まで人でなしだと決めつけていた。

 しかしどうにも、それはこちらの勘違いだった、のか……?

 訝しむ私の声に察するものがあったのか、バートリはこちらに目線を投げながら何かを噛みしめるような顔つきで首を横へと振る。


『それまで会ったことは無かったけど、優しい人だと思って。私は孤独になってしまったと思っていたので、本当に嬉し


 ──過去形、ね。

 言葉は分からなくとも、吐き捨てるような声の調子というのは理解わかる。

 顔と声と、最後に意味合い。なんかもう、それだけで全てを察した気になってしまう私がいた。

 そしてやはりというか……その早合点はあながち外れてもいなかったようで、「ああやっぱり」という諦めにも無念にも似たからっ風が胸の内に吹く。そんな心持ちに呼応するように、バートリが初めて苛立たし気に後ろ髪を掻いて続けた。


『その後で、ひとりになった私を引き取ると申し出てくれました。彼の本当の事が解ったのは、彼のアパートに初めて泊まった夜の事でした。そこで──』 

「そこでバートリは、ずっと酷い目に遭ってきたんだよね」


 先んじて話の続きを巻き取った私の声に、バートリは目を丸くしてこちらへ首を向けてきた。今までのバートリの言動からすれば、この推量が間違っている可能性なんて疑う余地すらない。

 いくら日本とフランスという距離的な隔たりがあろうと本当に下心のない、仲の良いきょうだいであるならば、愛娘の物心がつくまで面通しすらしないなんてことは有り得ないだろう。

 彼女の母親と叔父、お互いの仲は良好といえるものではなかった。

 良く見積もっても、そうとうに疎遠であった事が伺える。

 そんな姉が死んだ段になって前に出て来た目的はその財産か、あるいはバートリ自身──いずれにしても、最ッ低の変態であることに変わりはない。

 そんな奴が住まいと食事の代わりに、バートリへ何を要求してきたか。

 私にはわかっているよ。

 だからわざわざ自分の口で、事細かに言わなくてもいいんだよ。

 強い断定の言葉尻には、そんな思いを込めていた。 

 我ながら少々乱暴に思えるやりかただが、同じ轍を踏まないためには他に上手いやり方が浮かばなかった。


『はい』


 アプリは沈黙を認識しない。その一言を発するまできつく結んでいた口の中に、バートリのどんな思いが交錯していたか。きっとテクノロジーがどこまで進歩しても、そこまでを完全に表現する事は出来ない気がする。


「うん、じゃあそんなクソ野郎の話はここでおしまい!」


 下品なスラングをアプリがどんな風に翻訳したのか、少しばかり気にはなった。だがひとまず意味合いは伝わってくれたようで、私より一歩だけ先に下り坂を終えていたバートリの脚がピタッと止まった。


「エ……」

「そんなどうでもいい事よりも、ほら」


 呼びかけと一緒に横へ並び建って足を止め、肩にポンと手を置いてやる。

 一拍置いて逆再生したオジギソウのようにバートリの丸まった背がゆっくりと伸び、少しだけ潤んだ瞳がこちらを向いた。再び歩き出してからは、ずっと俯き加減でいたからのだろう。彼女はまだ、ことに気付いていない。

 置いた手先に少しだけ力を込めて、まだ意図が分かっていないような不思議そうな顔と一緒に方向転換。遊歩道を少しだけ逸れて歩き出したところで、彼女の息を呑む音が聞こえた。


「覚えてたんだ。端っこに滝が描いてあったの。縦に大きく流れる感じだったから、昨日行ったところとは──」


 ……って、聞こえてないか。

 私の声が届かないのは、20メートルの高さから落ちてくる水音のせいじゃない。

 わなわなと震え出す肩先から目を移せば、バートリの細い顎先がさっきとは打って変わって水平より上を向いている。

 季節の移ろいこそ再現できないものの、その瀑布を中心にして視界をパノラマに巡らせれば──彼女の母が手掛けたあの絵の景色が広がる。

 

 お腹にナイフを突きつけ、そして突き付けられてからおよそ40時間の旅路の果て。

 私たちはついに、辿り着いたのだ。 

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