第24話『5:15 国道103号』

『私が今見ている山道や眺めは、日本に来る前に暮らしていたところとよく似ています』

「へ、ぇ……山、育ち、なんだ」

『はい。それに私の父は、よく私をキャンプへ連れて行ってくれました』


 太陽が顔を出していない薄暗闇の中、朝霧に霞む森道にふたつ分の足音だけが響いていた。朝は時季外れに寒いから、と旅館の人が厚意で貸してくれたマウンテンジャケットが無ければ、バートリはともかく私は震えて動けなくなっていたかもしれない。

 昨日見た滝まではおおよそ2時間弱。絶えない川のせせらぎだけをBGMにうねる道を行き、バスでは感じる事の無かったアップダウンに息を切らせる。私のペースが落ちる度、前を歩くバートリが立ち止まって振り返ってくれた。その度に5分だけスマホを取り出し休憩兼の時間を差し挟んで再び歩き出す。


「私はずっと街中で育ったからなあ……おばあちゃんの家が海沿いだったけど」

『私は海も好きです。私の母のアトリエがニースにありました』

「仕事場?」

『はい。私はよく通って、お昼に母が作る日本の魚料理を食べていました』

「お母さん、料理も得意だったの?」

『はい。ですから昨日、私は煮付けが食べられて嬉しかったです』


 ふた組の足音のピッチがずれる度、そんな取り留めのないやり取りをもう何度も繰り返していた。

 これを『会話』ではなく『説明』としたのは何故かって?私がこのやりとりに相応しい呼び方だと思ったから。

 以上。

 ……もう少し乱暴さを省いていうなら、昨日の晩御飯の時と同じ事を感じたからだ。

 いついつまでフランスにいたかとか、日本に来るまでどんな暮らしをしていたかとか──そんな経緯いきさつとか事実とかを知ることは出来る。けれどそこに付随するバートリ自身の思いとか感慨なんてものは、スマホの画面を見るだけではいまいち伝わってこない。どれだけスピーカーがクリアな音声で発音を教えてくれても、感情を頭で噛み砕くのは籠りきって輪郭すらはっきりとしない声よりも不明瞭だ。

 第一翻訳アプリが、お互いの意思をどれだけ正しく反映しているかなんてわからない。


『私が日本に来たのは2年前で、母は急に死んでしまいました』


 何の前触れもなく唐突に明かされたこんな重たい事実すらも、機械の声はどこまでも平坦な調子で耳へ放り込んでくるのだからたまったもんじゃない。

 頭から全てのことばが吹き飛び、思わずひと息ついたばかりの脚を再び止めてしまう。そんな私に一拍遅れて振り返ったバートリの顔を見れば、まだその悲しみを飲み込み切れていない事がはっきりと汲み取れた。


『また休憩しましょうか?』

「……大丈夫」


 変わらない調子で続けられた、何度目かのバートリの気遣い。

 それに対してぐっと顎を挙げて、必死に笑顔を張り付けて返すわたし。

 アプリはほとんどのタイムラグを置かずにそれを『tranquille』と言い換えてくれる。けれどそのひとことが押し隠したいっぱいのやせ我慢だったり意地だったり、そもそも疲れが原因じゃない事だったりを、どれだけ表現しているかなんてわからない。いやあんまり明白に伝えられても、それはそれで困るんだけど。

 ともあれ平静を装うには、もう少し時間が欲しい。

 バートリが打ち明けてくれたのは踏み込んで訊ねて欲しいからなのか、それともそれを一緒に悲しんでほしいのか。それすらもまだ分からない。

 一度アプリを切り替えて地図を立ち上げ、それから辺りを見回し道筋を確認するふりをして時間を稼ぐ。確認も何も、宿を出た後すぐに1度曲がればあとはひたすらに1本道なのだから、逸れようがないのだけれど。

 それでも、バートリは度々脚と口とを止めて私を律儀に待っていてくれた。


「……その、バートリはお母さんが亡くなったから、日本へ来たの?」


 アプリを戻して再び歩き出す。

 出る時には辛うじて木々の輪郭が望めるだけだった辺りも、気付けば随分と明るくなっていた。陽こそ顔を出していないものの、今では稜線と空の輪郭がはっきりと判別できる。だが薄く煙る道の前からも後ろからも、人や車が来る気配は今まで一度も感じていない。いくら道が通っていようと人の営みが遠ければ遠い分、目覚めもまた遅いのだろう。

 さっき間を持たせる為だけに見た等高線で、この先しばらく大きなアップダウンがない事もわかっていた。ならばと脇に引かれた歩者用の白線を大胆にはみ出す形で、私はバートリと並んで歩く事にする。

 代わりにペースを少し落として、左手に握ったスマホをバートリと挟んでやり取りする形。これならいちいち歩みを止めずにやり取りする事が出来る。


『違います。私が日本に来た理由は、父の会社が急にからです』

「悪くなった?」


 バートリは一度こちらから視線を外し、困ったように眉根を寄せて中空を見上げた。

 こちらとしては『悪くなった』の一言だけで会社の経営が傾いた、あるいは潰れた事までは理解できている。だが彼女は自分の頭が上手い表現が見つけられなかったせいで、全くニュアンスが伝わらなかったと思ってしまっているらしい。


「お仕事が無くなっちゃったの?」

『はい。私の父は社長ではなくなり、仕事もなくなりました。父の弟が社長になりました』

「え、あっ、社長令嬢……?」


 予想の斜め上を行く補足に、声が上ずる。

 加えて甘噛み気味に発されたお陰か、アプリはその余計な一言は翻訳しないでくれた。助かった。

 しかしどうやら、思っていた以上にバートリはやんごとなき身分だったらしい。あれだけのイラストを手掛ける母を持っている上、更に父親まで一国一城の主だったとは……下衆の勘繰りだがお家騒動まで起きているあたり、その会社とやらも十把一絡げの零細企業という規模でもなさそうだ。


『私の父は、弟と4人の役員に騙されました』


 ほら、やっぱり。

 とはいっても自宅とは別に自分の仕事場を構えられるほどの才覚と、バートリのとなる程のビジュアルの良さ。母の持つものを思えば、そこそこ名の通った企業の社長くらいでようやく旦那側も釣り合いが取れるのかもしれない……そう考え直せば自然と合点がいった。


『私の父は、沢山お金を借りました。だから私の父は母と離婚し、私と日本へ帰ることになりました』


 少し思考が本道を逸れてギアを落としたからなのか、私はそこでようやくバートリの翻訳が必要以上に丁寧であることに気付く。 

 ああ、そうか。バートリはアプリが翻訳しやすいようにわざと教科書みたいな喋り方をしてくれているんだ。

 それは多分私への気遣い──というより、自分の事を少しでも誤解なく伝えて欲しいと思っているからだろう。

 父親が『お金を借りた』という事と、彼が会社を追い落とされたこと。そのふたつが紐づいているのであれば、指すところとしては立場を剥奪される際に何らかの賠償責任までひっ被されたという意味合いだろう。

 家族は財産だけでなく債務も共有してしまう。父親は家族へ累が及ぶことを避けるために泣く泣く籍を抜く事を切り出し、ふたりは日本へ戻った……よくある話、といえばそうなのかもしれない。見た事あるのは映画やドラマの中でだけだけど。

 ともあれ、父親を語るバートリの顔に嫌悪は欠片も見えなかった。そして彼女の優しさが父親譲りのものだとすれば、離婚の裏側が独りよがりな理由に基づくものでないことくらい馬鹿でも分かる。


「私は母と一緒に日本へ来ました。その、後、2週間」

 

 しかし、そんなバートリの声が急に詰まる。

 愚かな私はそこでようやく、自分がどれほど残酷な事をしてしまっているか気付いた。

 私に分かりやすく伝えるために、記憶を深堀りする。それはきっと治りかけのかさぶたを無理やり剥がすような、ひどい痛みの伴う行いだ。


『車、当たる……』

「ごめん、もういいよ。ごめんね」


 私の無神経さが、塞がりきってもいない傷口に削り刃を立ててしまった──

 変換した音声が途切れるとともにスマホをポケットにねじ込み、バートリの腰に手を当てて引き寄せる。身長の差があるせいで、むしろ私が抱き着いたような体勢になっていた。

 頭の片隅から、傷つけた張本人がやる事かよと自責の叫びが響く。

 だけどバートリはそんな自分に体重を預けてくれた。川の音よりも大きく、彼女の息遣いと心音が聞こえてくる。


 ああ、この子はどこまでも誰かに優しい。

 どうしてこんな子が、ここまで苦しまなければいけないんだ。

 屈むように身を預けてくるバートリに見えない角度で、険しく歪んだ己の顔が明けきらない空を睨みつけていた。

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