第23話『23:03 3F和室「白鳥」』


 まどろみの中で、夢を見ていた。

 ずっとずっと昔、まだ上背が親の腿にも届かない子供の頃。手を引かれて連れていかれた地元のショッピングモール。賑わう人の波や鮮やかな飾りつけに目移りしているうちに、いつの間にか消えていた手のぬくもり。慌てて顔を上げても、そこに安心を与えてくれるふたつの微笑みはない。

 それに気付いた途端、いままであんなに暖かく楽しそうに映っていた景色が一気に色を無くした。四方から聞こえてくる音はまるで夜の森で訊くさざめきの様に心へ不安を波立たせ、目に飛び込んでくるすべての音と光が毒虫の背を見るようなおぞましさを帯びている。


 おとうさん、おかあさん、どこにいるの。


 繰り返し、段々と大きく、喉に裂けるような痛みが走る程叫ぶ。

 けれど呼びかけに答えるものは誰もない。頭の上を行き交う人いきれは誰ひとり立ち止まることなく私を押し流して、どんどん知らない景色へと連れて行く。滲み始めた視界にやがて見えてきたエスカレーター。人を吐き出しては吸い込んむ無限の階段。

 あれに乗ってはだめだ。高さまで変えては。

 もはや周りなど気にする余裕はなかった。飲み込まれた濁流の中でもがくように、遮二無二叫んでは両手を振り回して力に逆らう。

 そうして暴れる指の先が、やがて不意に懐かしいあたたかさに包まれた。ハッとして見上げると、そこには何度も何度も見た──そして、その度に心の底から安心を与えてくれた──ふたつの微笑みがそこにあった。

 

 もう大丈夫。はぐれちゃダメだよ。


 痛い程握りしめていた拳の先がふっと解けて、痺れの残る掌で顔をぐしぐしと拭う。 もう大丈夫。大丈夫なんだ。

 まだ恐ろしさが尾を引く心をぐっと押し隠していっぱいに笑うと、目の端で踏ん張っていた涙の粒がひとつ零れた。屈めてくれた膝の分だけ近づいた顔がそれを認めて、空いた手に握られていたハンカチがゆっくりと近づいてくる──






 ※     ※     ※






 そうして塞がった瞼を再び開くと、私は広縁の椅子に座っていた。

 手の中には3分がた残ってぬるまったビールが握られている。宵の口よりずいぶんと潜まった虫の音を乗せて吹き込む夜風が顔に当たって、乾いていない目尻につんとした冷たさを覚えた。

 どうやら、いつの間にか寝落ちていたらしい。血行の良くなった体に追いアルコールを流し込んだせいだろう。いったい何時間くらい舟を漕いでいたのか。広縁に時計はないしスマホも座卓の上だから知る術はない。

 剥がすように背もたれから身を起こすと、編み込まれたラタンが控えめな軋みを立てた。少しずつはっきりしてくる意識が、それまで彷徨っていた夢の内容を反芻し始める。

 あー……なんか心に残っている安心感は、そのせいか。

 不思議なものだ。30分か1時間か、私はただ椅子に座ってうとうとしていただけ。それだけなのに気分はほっと温かく、懐かしい思いにほぐれている。この椅子にはクッションもリクライニングもないのに、湯上りに見つけたマッサージチェアに座った時よりよほど肩の力が抜けていた。

 たとえその過程がどれだけ怖いものであっても、最後にこんな心地で目覚めてくれるのであれば、それは良い夢なんだろう。どんなに背が伸びて生意気盛りになろうとも、自立するまでの子供にとって親の与えてくれる『もう大丈夫』は特効薬なのだ。

 ……もしも見ていた夢に、いつまでもふたりが現れて暮れなかったら。そう思うと背中にぞわりとしたものが走る。

 けれど、それがバートリの今であり、永遠に覆らない現実なのだ。

 あんな子供じみた夢を見た理由が分かって、私はやおらに立ち上がり広縁と畳敷きを仕切るふすまをそっと引く。だが布団の上にも座卓の横にも、バートリの姿はなかった。


「っ!」


 蹴っ飛ばされたように、していた身体と意識のギアが3段階くらい上がる。だがそれを爆発させて名前を叫んでしまう前に、勢いよく巡らせた顔に振り回される視界が細い浴衣姿を捉えてくれた。

 ああ、よかった。もう会えないんじゃないかと思った。総毛立った全身が緩和を取り戻していく。静寂を壊さないようにゆっくりと、踵から布団を踏んで歩み寄る。心にはそんな余裕も生まれていた。


「戻って──」


 1歩半後ろにまで近づいて掛けようとしたその声が、ひとりでに喉奥へ引っ込んでいく。

 バートリは丸窓の淵に腰掛けて、その真ん中にすっぽり収まる月を見上げていた。

 左の脚は裾を流すまま床へと遊ばせ、右の膝だけを軽く折って縁へと置いている。その曲げられた膝に肘を着いて、その先端で上向けに返す掌の上へ、細い顎を乗せていた。

 そうして夜空を見上げる横顔にどんな感情が込められているのか、私にはわからなかった。それは無色透明であるよりも、全ての色を混ぜてしまった絵の具を見た時に抱く感情に近い。そうとだけしか言葉にできない自分がいる。

 そんな感想と裏腹に控えめに差し込むその光に照らされた両の目は、薄い瞼に半分覆われてその深い蒼がいっそうに透き通って映っていた。雑に結ばれて耳から頬へと垂れ落ち、頬杖を突く指の間から開いた浴衣の胸元へと流れ落ちていく髪たちもまた、その向こう側が見えるほど宵の光を透過している。陽の光の下では深まる秋に映える栗色の毛流れも、月の輝きを受けてまるで白金で編まれたごく薄い布地のような表情へと変わっている。

 色相の変化としては有り得ない。

 だが決して、見間違えではない。

 言葉や理屈で説明できないものを奇跡と呼ぶのなら、わたしは生きているうちにあと何度巡り合えるだろう。そう思うと、声どころか息遣いすらも押し殺されていく。

 いや、押し殺さなければいけないとすら感じていた。

 バートリと窓と月の光だけが形成する、たしかな奇跡。なにかそれが、話しかけた途端に終わってしまう気がして。

 丸窓の大きさも、収まる満月の位置も。

 そこに腰掛ける姿勢も、見上げる顔の角度も。

 差し込む光の加減や照らされて流れ落ちる髪の量ですら、まるで何かによって整えられているように──


 気付けば私は、声を掛ける代わりにペンを握っていた。

 目の前に映るあまりに完璧な世界。それを壊すまいとローテーブルへ置いていたメモ帳を音も立てず手に取って、いつまで在ってくれるか分からないその世界を一心不乱に描き留めていく。

 視界に広がるその全てをありのまま描き映すには、私の腕はあまりにも足りてない。

 だが、それでいい。

 目に映るままと、手で描き出せるもの。その間に生じる『差』こそが、後に見返した時に確かな意味を生み出すのだから。

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