第22話『22:15 3F和室「白鳥」』

「戻ったよ……っと」


 音の立たないふすまを引くと、端に寄せられた座卓と綺麗に敷かれたふた組の布団が目に入る。しかしそのどこにもバートリの姿はなかった。

 風呂に向かったのだろうか。私は階段で登ってきたのだが、もしかしたら彼女はエレベーターを使っていて、そのタイミングで顔を見ないまますれ違ってしまったのかもしれない。

 戻って、来るよね……?

 一瞬だけ不安がよぎったが、端に置かれたままのリュックと丸められた着替えを見て落ち着きが戻る。この寒い中、わざわざ浴衣のまま外に出ていく事もないだろう。一応確認のために窓を開けて下を見やるが、入り口に灯る明かりの照らす数メートル以外は全くの暗闇。もう一度夜風に撫でられた頬からはすっかり熱が引いて、アルコールでふわふわとしていた意識もすっかり元に戻っている。


「……あ」


 部屋の中に目を戻すと、丸められたバートリの着替えからナイフのシースが覗いている事に気が付いた。荷物の位置そのものに動かされた痕跡はないので、布団を敷いてくれた誰かに見咎められたということもないと思うが……

 しかし、何度見てもという感覚が拭えない。窓を閉じて広縁の椅子に乗せていた手を離し、彼女の着替えの上からナイフを持ち上げてみる。

 想像していたよりも、その重さは天井に返した手へとずしりと圧し掛かった。果物を剝いたりデッサン用の鉛筆を削ったりするものとはわけが違う。そっと抜いてみれば、明らかに別のいのちを害する為の刃渡りが顔を出す。

 平和な国で何の不幸にも見舞われないまま育った私にとって、それは全く縁などなかった、そしてこれからもないであろう手触りと重さだった。


 あの子は、これを振るわなきゃいけない目に遭ったんだ。


 8時のニュースは被害者の顔を報道していなかった。

 だから想像の上で靄の掛かった誰か、創造で練り上げる下卑た面構えの男性の顔を思い浮かべて舌を打つ事しかできない。やる方のない憤懣を必死に抑えながらナイフを元通り包み直し、空いた手で冷蔵庫に手を伸ばす。2本目のビールを引き抜いてから中腰を伸ばして広縁に戻った。

 横長のスペースに並行する形で設えられたラタンの椅子を軽く引いて、どかりと腰を下ろす。1対の椅子に挟まれた透明ガラスのローテーブルには、私のメモ帳が開かれたまま放置されていた。

 ここに通された時、あまりに立派な部屋の作りに感激してしばらくスケッチを取ってたんだっけか……一緒にペンを走らせていたバートリは自分スケッチブックをきちんとしまっていたのに、我ながらだらしのない。

 とにかくそれを濡らさないよう端に寄せてから、中央に缶ビールを置いた。離しざまの指先でプルタブを乱暴に引き上げると、ガスの抜ける音が部屋中にひときわ大きく響き渡る。それが思いのほか強く耳に刺さるように響いて、思わず目を強く結び顔をしかめてしまった。

 取るに足らないこんな音すらも、ひとりだとにんだ。

 絶えず見守ってくれる誰かと助け合える環境に囲まれて日々を送っていた自分にとって、それは久しく覚える感覚──孤独が形を成した一瞬だった。

 もう一度、今度は自分の顔が通るか通らないかくらいにだけ窓を開け直す。控えめに聞こえてきた虫の音に安心を覚えてから、小さく首を振って夜に溶け入るような溜息をひとつ夜の風へ混ぜ込む。

 ひと心地ついて体重を預けた藤の背もたれがぎしりと鳴いて、それから今度は味わうようにゆっくりと傾けてビールを喉奥へ流し込んだ。キンキンに冷えた炭酸が胃に落ちていく感覚が、身体の内側に残った僅かな熱を冷ましていく。首だけを傾けて見上げる夜空には東京の何十倍にも散らばる星が瞬いて、稜線のすぐ上には淡い光の帯が伸びていた。

 あぁ、あれ、天の川だ。夏じゃなくても見えるんだ。

 静寂と酩酊がいたずらに時間の感覚を引き延ばしていく。どれだけぼーっと眺めていたところでそれを咎めるものはいない。このビールも部屋も、鈴虫の鳴き声もあの夜空も星も天の川も、今はその全部が自分だけのものだ。

 

 ──私は充分に、幸せなんだな。

 

 思わぬ旅路の先で覚える贅沢な時間の過ごし方に、しみじみと噛みしめただけのはずだったそんな感慨。だがそんな思いの裏側にある正体にすぐ気付いてしまって、自分のおぞましさに血の気が引く音が聞こえた。

 幸せに浸る一瞬前、わたしはバートリの背中を思い浮かべていたからだ。

 私よりずっと大きいはずなのに時々ひどく小さく、触れたらくしゃりと折れそうなほど弱々しく映る上背。

 

 彼女の置かれている状況に比べたら、私はなんて幸せなのか、と。


 白髪こそ増えたが父も母もなお息災で、誰かを刺したいと思った事も刺したいと思うほど酷い目に遭った記憶もない。日々の小さなトラブルに顔を歪ませることはあっても、週末のラーメンと美術館巡りがあれば月曜日まで引きずることもない。

 そうして繰り返す日々に感謝どころか疑問すら抱かず、今日と大して変わらない明日が来ることを当たり前のものとして受け止めていた。

 普通、平坦、退屈、ごくありふれた生き方。

 それが、どれだけ幸せな事か、だって?

 自嘲していた。

 自分がしあわせかどうかなんて、本来は誰かと比較してはかるものなどではない。それは自分を含めた全方位に対してとても失礼で、卑賎なおこないだ。

 何処かで読んだそんな文句も、頭では『偉い人の言葉』として理解していたはずだ。にも拘らず愚かな私はバートリと比べてやっと気づくだけでは飽き足らず、彼女のこれからを勝手に頭の中へ描いてそこへ憐れみの感情すらも添えていた。

 ……最低じゃないか。いくら酔いのせいにするにも限度がある。

 誰に監視られている訳でもないのに、背名kがまるで上から吊られたようにしゃんと伸びて姿勢を正していた。一拍置いてからその見えない糸がぷつりと切られ背もたれへ崩れ落ち、腹の底に覚えるじくりとした痛みで天井を向く顔に手を当てる。

 バートリはまだ戻ってこない。時間としては結構な長風呂に思える。

 けど、今はそこに感謝している自分がいた。

 とてもじゃないけど、今彼女の顔をまっすぐ見られる気がしない。

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