第21話『21:50 2F廊下』

 長く湯に浸かっていたおかげか、露天風呂を出て浴衣を羽織り直すころには身体を巡っていた酔いも随分と覚めてきていた。

 歩く度に踵をくっついては離れるスリッパを鳴らしながら、不均一な高さの階段をゆっくりと登っていく。部屋へ戻る途中の廊下で目に留まった、ひとつだけ開けられた窓。そこから吹き込んできた夜風は、9月とは思えない程きりっと冷えていた。


「あー……」


 それが火照った身体には声を出してしまうほど心地よく、つい足を止めて外を望む。そこから望める光というものは夜空に散らばる星と、その代表たる顔をして煌々と光る月だけだった。

 輪郭を滲ませるような淡い光で微かに浮かび上がる稜線の下に、他の灯りというものはほとんどといっていい程存在していない。それがまた天体の明るさをより強調していた。

 普段自宅のマンションや電車の窓から眺める夜景とは、全く趣を異とするものに映る。人の手が入っていない夜の景色は見ているうちに吸い込まれてしまうような、不安とも落ち着きともつかない不可思議な色を胸へ塗り広げていった。

 外を眺めたまま、とん、と頭を壁にもたれる。

 ──昨日と違って、バートリはお風呂についてこなかった。

 髪の毛も自分で乾かせるから先に入ってくれと促され、私は今こうして2日ぶりにひとりで過ごしている。言語の壁が壊れた事を最後の後押しとして、ここまでの信用を得られた……といえば聞こえはいいが、実際には気楽さよりも物足りなさが勝るだけの時間。

 その中にいるからこそ、いっそう強く感じられた。これが知らない場所にいるというという気持ちなんだろう。ここまであったものの、私自身としてはそれも含めて行楽気分で捉えられている。だがバートリの胸の中はもっと濃く、昏いグラデーションに沈んでいる筈だ。

 生まれた国元を離れ、ただ薄く血が繋がっているというだけの共通項しかない他人と暮らす。おまけにそれが自分に対しての理解も、まして良い感情のひとつすらも持っていない、ただ母親と同じ血を引いているだけの男。

 そんな中で覚える孤独と苦痛、そして寂しさはどれだけ心を蝕むのか。比較的普通の、それが世界規模で見れば充分に恵まれていると気付きすらしなかった半生を歩んできた私にとって、そこはとても想像が及ばない領域だった。

 その苦難の中で、ついに起きてしまった切っ掛けによって無理矢理に変えてしまった現状。そこから始まった彼女の旅路も明日で終わり……いや、区切りを迎える。

 あの月が山の向こうへと沈んで、入れ替わりの太陽が顔を出す前に。

 日々を耐えるため唯一のとしていた過去の幸せ、その象徴となる母親の描いた無人の奥入瀬。

 その景色をついに目のあたりにした後で、一体バートリはどうするつもりなのだろう。

 沢山の偶然の果てでに彼女の隣に居る者として、私はそれを見届けたい──というよりも、見届けなければ許されない気がした。


「っく!」


 窓の縁を握る手に力が籠り、それが下腹へと伝わってしまったせいか。情けない声で我慢していたしゃっくりが漏れ出てしまう。覚えた恥ずかしさから慌てて窓を離れると、今度は踏み出した足がふらついてたたらを踏んでしまった。

 ……これじゃまるで、酔っ払いそのものじゃないか。

 いくら勢いを付けたかったからといって、一気飲みはやりすぎたかな。

 けれどそうしてバートリの虚を突かなければ、明日一緒に宿を出る事すら叶わなかったかもしれない。

 だからあの咄嗟の動きは正解だった。多分、おそらく、きっと。

 酔いの回った自分の醜態を振り返れば、旅先で覚えた寂寥も彼女を思う憂いもすっかり鳴りを潜めてしまった。

 何かを振り払うように首を左右させ、ふんと鼻を鳴らして歩き出す。そんなどうにも締まらない心地を覚えつつ、上階へ向かう階段の手すりに指を掛けた。






 ※     ※     ※





  

 バートリがスマホのマイク穴から口を離すたびに、一拍遅れてそれまでの足取りと意図がはっきりしていく。けれどその日本語に直された機械音声を耳にすればするほど、胸の中にはもやもやとした何かが澱のように積もっていく感覚を覚えていった。

 まるで互いの間を隔てるすりガラスがその透明度をどんどん落としていくみたいに、バートリが語れば語る程その心が却って見えづらくなったように感じる。


『明日はひとりで行きます。これ以上迷惑は──』

「ああ、もういいっての!」


 伴うように募っていく不安とよく似た落ち着かない心地を、乱暴に飲み下す緑茶で押さえるのも限界があった。気付けばとうとう冷蔵庫に手を伸ばし、勢いよく缶ビールを引っこ抜いてプルタブを持ち上げる私がいた。

 突然のアクションに呆気に取られるばかりのバートリの目の前で、腰に手を当てて一気に飲み干す。

 初めての350缶イッキ、時間にしてわずか数秒。天井を向いた顎を戻す勢いと共に叩きつけられた空き缶が、甲高い声を上げた。

 

「こんなもんっ!」


 ──スマホが勝手にしゃべってるのと変わらないじゃない!

 苦味の余韻に遅れて喉の奥から込み上がってくる熱に浮かされるまま、座卓を往復していたスマホをぱっと取り上げて部屋の隅に放り投げてやった。精製した気分と一緒に身を乗り出して、バートリの額と鼻先がぶっつかるくらいに顔を近づけて怒鳴る。


「私も!あなたと!行くの!一緒に!」


 昨日まで事あるごとに刃物をぎらつかせてきた相手への対応とは、我ながら思えない。

 けれど、これが彼女の本心であって欲しくない。 


「エ、ア……」

「いいね?!」


 驚きに目を丸くしていたバートリの細い顎が、一拍遅れてこくこくと2度上下に揺れる。

 ほら見ろ、あんなもん無い方がよっぽど伝わるものがあるし、今この場においてはそれが一番なんだ。 

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