第20話『20:06 3F和室「白鳥」』
ようやく手許に戻ってきたスマホへの関心もそこそこに、思わずテレビの方を向いてしまう。そんな私とは対照的に、バートリはただ静かに座卓の一点を見つめていた。
アナウンサーが言葉を区切るたびに様子を伺っても、その薄く開いたままの眼も俯き加減の顎先の角度も、全く変わることは無かった。
そこから数分間続いた答え合わせ。それはほぼ、私の想像が正しかったことを裏付けるだけの時間に過ぎなかった。
『同居していた親類縁者とみられる外国籍の少女が行方不明』
『家からは日常的に言い争う声や物音が響いていた』
『刺された男性は重症であるものの、命に別状はなし』
──刺された男は一命を取り留めた
その最後の情報にだけ、バートリの片眉がぴくりと反応する。そこから少しずつひしゃげていく表情に、私はなんと声を掛けて良いかわからなかった。
今、この子の胸に去来しているのは殺めずに済んだという安心なのか、それとも。
何も知らない私がそこに結論なんて出せる筈もなく、テレビはコメンテーターが半ば想像だけで好き勝手に語るフェイズへと移っていった。
「ごめんね」
一応、礼儀として一言声を掛けてから動く。
そのあんまりな言い草と無責任さへ込み上がる苛立ちに任せて、気付けば乱暴にリモコンを掴んでテレビに照準を合わせる私がいた。
……何が、『どこの国の子供にもあるこころの闇』だ。
あの決死の形相も生々しい臭いも、握り痕が付いたスケッチブックも知らないくせに。
音も無く映像が消え、部屋に再び静けさが戻る。紙鍋を温める携帯燃料の火も、いつの間にか消えていた。
「どうして、今になって?」
お腹の底にじくりとした痛みを抱えたまま、手に取ったスマホの画面を向けて口火を切る。
ストレートに事件の事を訊ねる気にもならなかった。私の役目は間違っても追い詰める事じゃないし、だからといっていたずらに刃傷沙汰を擁護するのも、何か違う気がしたからだ。
なんなら複雑なことばは通じないという、基本的な事までも一瞬忘れるくらいには脳のキャパシティが圧迫されている。
その中でもなるべく硬い表情は浮かべずに、口調もなるべく明るく──バートリをこれ以上孤独の淵に立たせないため、それだけは死守する。多方面に気を張るあまり、スマホを握る指に力が入ってしまったのかも知れない。サイドのスイッチが長押しされてぽこん、と間抜けな音を立てた。
「……pouvais te faire confiance, toi, et personne d'autre.」
『Alors merci beaucoup. Ça me touche!』
「え、え?何……?」
まさか、それが長い沈黙を破るきっかけになるとは思っていなかった。
それを合図としたように俯きがちにぽそぽそと切り出したバートリの声。それに拾った掌の中のスマホが勝手に反応して、無機質な抑揚のついた声で返事をしていた。気持ちの籠り方こそ対照的だが、聞こえてくる音の調子やその区切りからそれぞれの言葉が同じ国のものであることがはっきりと分かった。
──そうだ、どうしてこんな簡単な事に気付けなかったんだろう。
パチンと頬を張られたようなショックと間を置いて、私とバートリの顔はそれぞれ別種の驚きに跳ねあがる。
海の向こうのクライアントと折衝する時にも使っているじゃないか。不意に生まれの国の言葉が耳に入った彼女より一瞬先に硬直から解けた指先で、翻訳のアプリを開いてマイクを口元へと寄せる。
『J'aurais dû l'utiliser plus tôt.』
バートリは翻訳音声を流すスマホではなく、私に視線を合わせ直してくれた。それをしっかり確認してから翻訳方向を切り替えたスマホを座卓の中央、私と彼女の丁度真ん中になるようにしてそっと置く。
『ごめんなさい、私のスマートフォンは今、通信が出来ない状態なんです』
すでに携帯電話が駆逐された後に生まれた世代の彼女は、迷いなく私よりもよほど理解と順応が早かった。座卓に戻って来たスマホの画面から、すでに翻訳方向が戻されている事が解る。
『N'hésite pas à l'utiliser.』
こうして全く同じ声色ながら、妙によそよそしい調子のことばで始まった答え合わせ。それはまるで、電子機器を間に挟んだ伝言ゲームみたいな様相を呈していた。機械翻訳の網の目が、普通に話す際無意識に込めている細かいニュアンスをどこまで拾ってくれているのかはわからない。
それでもジェスチャーだけで無理を通すよりはよほど明瞭なはずなのだが……どうにもより大きなもどかしさを覚えてしまう不思議が、そこにはあった。
『C'était un dîner délicieux.』
物試しのように、一度雑談を振る。このやり取りの仕方にに慣れるためというより、覚えた違和感の正体を探る目的の方が大きかった。いきなり脇道に逸れた話題に、バートリは一瞬きょとんとした目を浮かべる。しかし似たような思いを彼女も抱いているのか、その表情はすぐに小さな微笑みへと変わって手と唇が動いてくれた。
『はい。母が好きだった天ぷらを食べることが出来て、とても嬉しいです』
スマホは今や生活を送る上での必需品であり、更に仕事の道具としての側面も大きい。なので半年前に買い替えた時にも型落ちやらエントリーモデルやらは避け、そこそこに値の張るモデルを買った記憶がある。それでも音声を認識し、更に互いの言語へ変換してスピーカーから鳴らすというシークエンスには多少の待ち時間を必要とした。その焦らすような独特な間に慣れるまで、わたしたちは下らない話題を往復させた。
バスの中でお互い口数が減ったのは、グネグネの山道を走っているうちにすっかり車酔いしていたから。
フランスのマックにはバゲットという、日本にないメニューがある。
絵を描くとき、紙面に目一杯顔を近づける仕草がお母さんに似ている。
あの老夫婦の鞄についていた白黒のマスコットはリサとガスパール、フランス産まれ。
ここに来るまでで一番驚いた事は、到着にも発車にも1分のズレすら起こさない電車の正確さ。
初めて目が合った時私はバートリを男の子だと思っていたが、彼女は彼女で私が高校生くらいの子供だと思っていた──なんて勘違いには、ふたりして頬を膨らませてしまった。
……相変わらずお互いの事が解ってすっきりするよりも、拭いきれない違和感におぼえるモヤモヤの方が大きい。それでもあれこれと話題を探し続けてスマホをキャッチボールしていたのは、きっとお互い無意識に確信を突く瞬間を先延ばしにしたかったんからなんだと思う。
『さっきのニュースが言っていた通り、私は昨日の朝おじを刺して逃げて来ました』
だがそんな雑談をどれだけ続けたところで、事態は前へ進んでくれない。
先に腹を括ったのはバートリのほうだった。きっと、いつまでも逃げられないという思いが私より強く抱いていたのだろう。
スマホが生むウェイトの後で、それより何倍も時間を置いてから……やっとのことで開いたその口元と肩先が角張って震えている。スマホを持っていない方の手は、机の下でこぶしを強く握っているのかもしれない。
改めて聞き慣れた言語に直されると、受け止めるには流石に重い現実──そう思っていたのだが、どうしてか心がそこまで波立つ事もないまま小さな頷きを返す自分がいた。
「……何か、理由があったんだよね?」
出来る限りゆっくりとした手付きで、そっと彼女の前に置かれたスマホを取って口もとへ寄せる。ついで口の端から差し向けたのは、答えの分かりきってる問いかけだった。
バートリは顎を引いたまま、時折その目だけを上目に遣って私の顔を伺っている。その真ん中では蒼い瞳が絶えず揺れ、心細さを隠すこともなく部屋の中を彷徨っていた。
とてもじゃないけど、理由もなく人の腹に穴を開けるような子の目つきじゃない。
手元に寄せた時と同じく、音のひとつも立てないよう丁寧にスマホをバートリの前に戻す。家事にも仕事にも追われることのない旅先の宿は、いつもより3割増しで時間がゆっくり流れていく。奥歯で何かを噛みしめるようにきつく結ばれたその口が再び開くまで、私は何時間でも待つつもりだった。
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