第19話『19:45 3F和室「白鳥」』
ほぐした身を乗せた白米を湯気と一緒に頬張ると、自然と頬が綻んで瞼が落ちた。片腕を伸ばすだけでは端まで届かない程の座卓でも、運ばれてきた時には配膳するスペースが足りるか不安になったほどの豪奢な夕食。それは動きっぱなしの一日を終えた空腹を抱えてなお、食べきれるか一抹の不安を抱えるほどのボリュームだった。
そういえばこの旅で初めて、旅らしい食事を摂ったかもしれない。
半分ほど減ってしまった小鉢の佃煮を眺めながら、今更ながらにふと気づく。
昨日の夜はハンバーガーで、今朝はギリギリまで寝ていて食べ損ねて、挙句お昼は菓子パン……これじゃ普段の、碌に台所に立てない繁忙期中の食生活とまるで大差ない。ビジホのそれとは対極にある非日常感を与えてくれる畳敷きの設えも相まって、ここへきてようやく自分の中での『旅』感が強まってきた気がする。
今私たちが逗留しているのは、場所で言えば丁度と和田の街と十和田湖の中間に位置する奥入瀬川のほとりに位置している。食事処も兼ねているこの旅館は部屋の数も少なく、建物自体も無駄な装飾や華美さを演出していない素朴な佇まいをしている。私にはそれがまさに『大人のための隠れ宿』といった風情ある外観に思えた。そんな見た目に反して、中の施設は町中から離れているという不便をいっさい感じさせない程充実している事にも驚かされた。24時間小物を変える売店やランドリーのサービスはもちろん、昼間の客を吐き出し終えた食事処が夜にはバーに変わるという。
ここに留まる限りは外への意識を一切感じさせはしないといった姿勢、旅館の案内に描かれていた『俗世の些事と切り離された空間で、ひとときの完全なる安らぎを』という謳い文句は伊達ではないという事だ。
その妥協の無さは私たちの止まる客室にも表れていた。過不足のない広さの中に漂う真新しい畳の香りが何とも心地良く、伸びる柱の燻した茶色と壁の薄い抹茶色の配色が見目好く積み重ねた歴史を物語っている。そんなクラシカルな意匠と裏腹に決して部屋の老朽は感じさせず、備え付けのトイレや家電の類は全て最新式だ。もちろん清掃も手入れも隅々まで行き届いている。
角部屋だからか窓は二方向に配されていて、分厚い壁をくり抜いたような形でひとつは両手いっぱいに広げたくらいの直径をした丸窓がはめ込まれており、薄く雲のかかる月と夜空を収めていた。座卓に腰を下ろしたまま望めるその眺めは、それ自体が風景を彫刻したみたいな調度品のように映っている。もうひとつは広縁……旅館の窓辺にある低いテーブルと椅子の設えられた、あると何故か嬉しくなるあのスペースになっているのだから、もはや粗を探す方が難しいといえた。
──文句の付け所もない百点満点の宿、とはこういうものを指すのだろう。
大人になってしばらく経ったとはいえ、まだ『宿泊そのものを楽しみとする旅』というものに憧れが追い付く歳でもない。パンフやネットの記事を通してそれが旅行の在り方のひとつとして確立しているのは知っているが、私にとって宿はあくまで現地における行動の拠点に過ぎないものだった。
旅は赴いた先での経験にこそ価値があるのだから、休むだけの宿に必要以上の予算を割いたりこだわりを持つ必要を感じない……そう思っていたのだが、認識が甘かったようだ。まだまだ
ここは明らかに、訪れたことそのものが得難い思い出になる類の旅館だ。実際に足を踏み入れなければ、その意味合いを肌で感じることは無かっただろう。つまり自分にとって、余程の事がない限り足を向ける考えすら浮かばなかった場所──そう確信できるだけのランクとそれに見合うだけの風体、そしてお値段を誇っていた。
そのよほどの出来事がこんな形で不意に訪れるのだから、わからないものだ。
不意に、といえばもうひとつ。
突発的に決まった──いやまあ、始まりから今まで全部が突発といえばそうなんだけど──延泊に答えてくれる旅館が奇跡的に1件だけ見つかって、その上これほどのクオリティの歓待を受けられた幸運にも感謝すべきだろう……これもまた、巡り合わせのうちなのかもしれない。
とにかくこの分だと、食後に待ち受けている温泉への期待も膨らんでいく。財布の中身は思った以上に痩せてしまったが、秋深まりつつある東北の森の中で野宿という憂き目に比べれば、ギリギリのギリで安いものと、いえた、と思う。
ここから昨日引き返した奥入瀬の渓流までは徒歩で2時間弱、旅館の主人もここより渓流に近い宿はないと胸を張っていた。なだらかな坂が続くけど、決して歩けなくはない距離。それなら日が昇る前に歩き出せば、きっとあの絵が持つイメージに近い無人の『オイラセ』が私達を出迎えてくれるだろう。
「……いやー、いいとこ見つかってよかった」
本当に、ボーナスを貯め込んどいて良かった。
自分を説得する度に込み上げてくるものを紛らわせるため、わざとらしく呟いてみせる。声の震えが隠しきれていなかったのか、バートリが一瞬だけ食べる手を止めてこちらを見た。
いかにも純和風といった趣の懐石が運ばれてきた時には、彼女が食べられるものはあるだろうかと不安がよぎった。しかし意外にも……というべきか、前菜の小鉢から刺身、果てはまるまると腹を膨らませた焼き魚や天ぷらに至るまで、一切の淀みもなく食べ進めてくれている。六方に剥かれた芋を拾い上げたり小骨をより分ける箸遣いも見事で、その手付きに母親の行き届いたしつけの面影を感じる事さえできた。そのおかげでこちらも気兼ねなく食べ進められたのはありがたい。
……恐らく、今日がふたりで過ごす最後の夜となるから。
そこへきて一切の不満が出ない部屋を用意できたのは、やっぱり僥倖といって差し支えない。そう思い直すと今度こそやせ我慢でなく自然と笑顔を浮かべることが出来た。後悔、反省、思い直し、そして納得と、茶碗を空にするまで傍から見れば半端に百面相を浮かべていた不審者そのものだったと思う。そんな私を咀嚼しながら眺めていたバートリだったが、やがて幾分か沈んだような表情を浮かべて箸を置いた。
「あれ、もうお腹いっぱい?」
まだメインといえる紙鍋のは音と泡を立て始めたばかりで、食事を終えるには早い。
思わず言葉で訊ねてしまう私の目をちらりと仰いたバートリは、それからきゅっと下唇を噛んでいた。そんな様子に何かの抜き差しならないものを覚えた私も、自然と箸から手を放す。
過ぎったのは決して悪い予感の類ではない。だがこれから、何か戻れない一線を跨ぐような胸騒ぎがあった。日本酒に覚えたほのかな頬の熱も引き波のように消え、リュックへと手を伸ばすバートリの仕草が妙にスローに映っていた。
『8時になりました。全国のニュースをお伝えいたします……』
胸を埋めていくざわめきと、対照的にしんと静まり返った部屋の中。
点けっぱなしにしていたテレビの音が、段々と大きくなるような錯覚を覚えていく。
「これ……!」
やがて彼女の指先で控えめに押されて座卓を滑ってきたのは、およそ1日半ぶりにその姿を見る私のスマホだった。
『──続きましてきのう朝、東京・台東区で起きた傷害事件の続報です』
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