第18話『16:07 銚子大滝』
バスを降りる少し前から、バートリの表情は「これじゃない」といわんばかりに曇っていた。
慌ただしい乗り換えの間に買った軽食が口に合わなかったわけでも、シートの硬さが気に入らなかったわけでもないだろう。事実、甘い辛いを織り交ぜてコンビニの総菜パンを3つぺろりと平らげたし、その後ですぐに私の方へもたれ掛かってすうすうと気持ちよさそうに寝息を立てていた。
じゃあ何が気に食わなかったかといえば、恐らく目を覚まして窓の外に広がっていた景色なのだと思う。
16時を目前に低くなった西日は、遊歩道を覆うように生い茂る木々の間に身を隠し始めていた。僅かに色を帯び始めた葉を控えめに照らし、微かに肌寒く感じる微風がはらはらと薄い橙を落として揺らす。ここ数日は雨も降らなかったのだろう。歩道に沿って──というより、歩道がそこに沿って後から造られたのか──川の流れも穏やかで、首を横にだけ振って風景を仰げば、旅番組やGoogleのイメージ検索で出てくるおおよその奥入瀬がそこに広がっている。さすがに視界の中で四季が同時に展開こそされていないものの、あのスケッチブックを見て抱いた憧れを風景を重ねるにはまったく無理のない様に思えた。事実、通路側の席からバートリを跨いで眺めた私は、広がる鮮やかな色彩と人の手では作り出せない曲線たちが描く優美さに言葉を失っていたのだが……バスを降り、白糸の滝を前にしても、足を止めた彼女の表情は一向に晴れてくれない。
その理由は、すぐに分かった。
「……うるさい、ね」
周りに聞こえないように顔を近づけ、小声で呟きながら耳を両手で軽く抑える仕草を添える。バートリはこくんと首を落とし、私と同じポーズを取ってから肩をすくめた。
──やっぱりそうだ。
思い出の中の大切な景色を重ね合わせて浸るには、あんまりに人が多すぎる。
ご来光を迎える富士吉田の登山道もかくやといった具合に遊歩道には人の頭がぞろぞろと揺れ、少しでも目線を前や後ろに向けようものならどうしたって視界に色とりどりの防止やジャケットがフレームインしてくる。聞こえる者に関してはさらに悲惨で、方々から日本語が3割、それ以外が7割といった具合の話し声が絶えずやり取りされていた。聞くつもりもないのに飛び込んでくる理解の出来ない言語なんて、ラジオのノイズと大差ない。
あちこちから湧き上がる嬌声、歓声、笑い声に何故か怒号……それらが幾重にも折り重なった挙句、木々のざわめきどころか川のせせらぎまでもすっかり飲み込んでしまっていた。
ここは東北のみならず、日本有数の観光地だ。いかに平日の半端な時間とはいえ、人っ子ひとり姿が見えない自然を存分に満喫……なんて期待は始めっからしていなかったが、いくら何でも限度がある。締め切った窓を通路側から仰いでいただけ私には、こんな遊歩道の惨状が見えていなかった。バートリはきっとバスが川に沿って走り始めてすぐ、この有様を目の当たりにしてしまったのだろう。
人の頭と喧騒が届かない位置を求めてしばらく歩いたものの、やがてバートリは軽く俯いて足を止めた。吐かれた小さな溜息だけは騒々しさに紛れてくれずに、その弱々しさからは考えられないほど鋭く耳に届く。それから私に向き直った彼女が、顔の前で指を伸ばした右手の甲へ左の掌を重ねてみせた。
日本で似たようなジェスチャーに覚えはなく、それが彼女の故郷で何を意味するのかは分からなかった。だがすっかり消沈してしまった顔で歩道から目を背けているあたり、決してそこにポジティブなニュアンスが含まれていない事くらいはすぐに理解できた。
……それでも一応、目的は達成した、といえる。いかに喧騒に支配されていようと、ここが目的地であることに変わりはない。
事実だけを切り取れば、彼女はついに捲ったスケッチブックの中でいっとうに思い入れの深い景色と同じ場所に立つことができた。
だがあまりにも納得のいっていない顔で、時々未練がましく歩道を眺めては下唇を噛んでいる。頭では理解していても、心が納得を拒んでいるのは明白だった。
……改めて問うまでもない。
指先に力を入れて彼女の肩をぐっと掴み、振り向かせてからこっちも首を振る。それから乱暴にトートバッグへ手を突っ込んで、真っ白なぺージにペンを走らせた。
昨日と同じやり方──記号化した山肌へ隠れる太陽の隣に下を向く矢印を描いて、そこへ大きくバツ印をくれてやる。右の矢印に挟まれた月を描いてからまた簡素な山と太陽を描き、今度は上を向く矢印を添える。
あのスケッチブックに描かれていた『オイラセ』に太陽は無く、彩度も抑えられていた。それを再現するには丁度いい時間に着くと思っていたが……夕方前だからダメなんだ。こんな時間、人が多いに決まっている。
ならば同じく太陽がその身を隠す、バスも何も来ない明け方なら。
ペン先をノックして懐に戻してから、まるでクイズ番組でフリップを掲げる回答者のように、紙面を勢いよくバートリの前に広げてやる。
「……?」
急にきびきび動き出した私に戸惑っただけかもしれないが、それでもいじけたような顔が鳴りを潜めていく。しかし小首を傾げるその表情を見る限り、こちらの意思はあまり伝わっていないようだった。昨日はすぐに伝わったのに……一旦引っ込め、隣にベッドの絵をふたつ描き加える。
「すぐ戻るよ!観光案内所まで!」
ぐっと握り拳を添えて叫ぶと、見る見るうちにペン先を見つめていたバートリの瞳が驚きへ丸くなっていった。
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