第17話『12:50 TC車クロスシート』

 手櫛で髪を漉くふりをしながら、窓を向いて顔色を隠す。2両編成の電車は駅に近づいているようで、流れる景色が緩やかに勢いを落としていた。

 ……つまりこのスケッチブックは元々母親のもので、それを彼女が受け継いで使っているという事だろうか。

 装丁の痛々しい状態と垂れる前髪の間から覗く彼女の顔。その沈痛な面持ちも相まって、頭の中で会った事もない女性の昏い未来が像を結んでしまう。そんな中にあって唯一といっていい救いは、『お母さんマモン』と呟く声に怒りや憎しみが覗いていない事だった。

 横目の端に見る今も、見せ終わったスケッチブックを大切そうに抱えている。昨日見たシャツの染みは母親から飛び散ったものではなさそうだ。それも楽観的な見立てと言われればそれまでだし、少なからず『こうであればいい』という願望が差し挟まっている事は否定できない。

 あまりに救いようのない景色から目を背けたくなるのが、人間というものだ。


 ──遺品。

 

 だが、どれほど希望的観測を交えたとしても。

 このクシャクシャのスケッチブックを指し示す言葉として、これ以上に適切な表現が思い浮かばなかった。

 毎日顔を合わせられるほど身近に触れられるものなら、その人の香りが残るものを後生大事に抱きかかえたり、まして折に触れてこんな風に恋しく思ったりはしない。

 それは経験則だった。今までホームシックに掛かった人を見るたび、せいぜい『子供気分が抜けてないのかな』なんて考えを抱くだけで、その気持ちをとんと理解できないでいた。だが就職してひとり人暮らしを始めてから半年も経たない内に、ぐしゃぐしゃに萎れた心を引きずりながら親の顔を見に戻った。

 当たり前の尊さは、隔たれて初めて気付くものだ。

 判明した母親の名前と、その美しく日本人離れした顔立ち。そのふたつの要素で彼女出自を推し量るなら、別の国……恐らく欧州あたりの白人男性とのハーフに生まれ、ひとりこの国で寮住まいしている学生という線が妥当だろうか。

 だがそのバックグラウンドが正しいとすると、どうしても今の状況に結び付けるのには逆に無理が生じてしまう気がした。

 母を大切に思う心があり、海を離れた土地へ留学できるほどに経済的余裕もあって、さらに一皮向けばこの素直な顔つき──本ッ当に不謹慎で自分でも嫌になる発想だが、そんな過程では大ぶりのナイフと下着に血の痕を付けるような事態に。どれほど突発的に見える事態だろうと、人と人との間に起こる事には必ず予兆が存在する。

 凶行には凶行に至る不幸という、前触れがあるはずなのだ。


「うっ」


 そこまで考えを巡らせると、鼻の奥からひとつの記憶が立ち昇った。彼女から隠すように窓へと向けた顔の半分が、ひとりでに歪む。

 努めて忘れようとしていたが、発端として思い当たる節がたったひとつだけあった。

 新幹線に乗る前──もう随分と前の出来事に思える──さっきだった彼女にその刃を押し当てられながら密着した際に鼻を突いた、あのひどく生々しい匂いだ。彼女が駅に訪れる直前、決して望まない形でその匂いを身体に付着させられるような事態が起きたのならば……上着ではなくキャミソールに残っていた血痕の主も含めて、無理やりに思い浮かべた『幸せな出自』よりも、よほど整然とした形でここまでの状況に説明がついてしまう。

 虐待の、それも最も尊厳を傷つけられるそれに耐えてきた、被害者。


『次は、金田一温泉、金田一温泉、降り口は右側です。ドアボタンを押して……』


 想像と共にこみ上げてくる吐き気に、思わず天井を仰ぐ。

 同時に聞こえてきたのは、どことなく勇壮なBGMに続いた女性の溌溂なアナウンス。私達を包み込む場の空気と巡らせた考えには全くそぐわないものだったが、それが却って助けになってくれた。


「……なぁんだ」


 お陰で必要以上に気持ちが影へ沈み込んでいくのをすんでのところで引っ張り上げられ、軽口が滑らかに出てくれた。それがまた弾みになって、そっぽを向けていた首も彼女の方へと向き直ってくれる。

 そうして再び合わせた目線には、どこかホッとした様な表情が映り込んでいた。

 ……これでいい。詮索するのは私の仕事じゃない。

 それに電車はあと30分もしない内に八戸へと着く。

 『きんだいち』ではなく『きんいち』──辞書や漫画で見た事のある苗字と同じつづりでいて、一文字読みが違う。その珍しさに惹かれたせいか、改札で見た時刻表の数字が焼き付いていた。

 突っ込んで真相を探るには時間が足りない。

 ついでに知恵も覚悟もだ。

 それに喉からいくつも上がってきていた言葉はいずれもで、どの道伝わりはしないだろう。  


「同じ名前かと思ったんだけどなあ」


 だったらもっと明るくなれて、もっと単純シンプルに、もっと知りたい答えを求める方が有意義だ。

 蘇った匂いを追い出すように鼻から軽く息を吐きつつ、そこに半分の笑いを交える。それから人差し指で自分を刺した後、手首を返して爪の先をスケッチブックへと伸ばした。

 閉じた後も相変わらず大事そうに、胸の前で抱き締めるように抱えている。表紙に書かれた名前のフォントが妙に大きいせいで、そのせいでまるで見当違いの名札を提げているみたいに映っていた。


 ……私が知りたいのはお母さんの名前じゃなくて、君自身をどう呼べばいいかなんだけどね。

 直線と曲線が妙にハッキリと区別されたブロック体で記された名前をそっとなぞったところで、思わず肩をすくめてしまった。浅学が災いして『what your name?』が言い換えられない。言葉なしにはこれだって十分複雑で、伝わる訳もないか──


「……ハルカ?」


 そう、決め付けていたのだが。

 自分に投げかけられる視線には、明らかに何か意図が含まれている──そんな程度には勘が働いてくれたのかもしれない。スケッチブックにしがみつく左手をゆっくりと離して、私を指差しながらおずおずと尋ねてくる声。

 驚きも手伝って、見開かれていく目を載せた顎が激しく上下する。


「ハルカ」


 まるで心に小さな蝋燭が灯ったように、名を呼ばれる度にふわっと温かい心地が胸を満たした。

 名前を呼んでもらえる。ただそれだけのことがこれだけ沁みるのはいつぶりのことだろう。

 噛みしめる滋味と同時に覚える、顔に残ったこわばりが解けてゆく脱力感。それがどれだけ面白な表情を作っていたのかはわからないが、お気に召した様子で彼女は何度も母親と同じ私の名を呼ぶ。その度に繰り返し頷く私の顔につられて、その顔もまたくしゃりとした笑顔を深めていった。


「──Béatrice」

「えっ」


 一方はひたすらに『ハルカ』を連呼し、もう一方はひたすらに頷いてその度に笑い合う。

 そんな傍から見れば謎極まりないやりとり延々と続いていた中、不意にその口から別の単語が発せられた。思わず目を見開き、張子の虎と化していた首も動きを止めてしまう。随分久しぶりに定まった視界の真ん中で、薄黒い筋がいくつか走るボロボロの爪の先を自分へと向ける彼女がいた。 


「ばーとり……?」


 それが、君の名前?

 続く言葉は、やっぱり適切に翻訳されてくれない。

 それでも彼女の、バートリの顔にはとびきりの笑みが弾け、今度はその顔が頷きに激しく上下する番になった。


「バートリ」

「ウィ」


 旅路にはふたりしかいないのだから、たとえ知らないままでも困りはしなかっただろう。極論ただ声を上げるだけで互いの関心を引く事は出来るし、不自由な交流においてはそれでも充分に思える。だがそれでも、やっぱり名前を知って呼び合うというのは特別な事で、築いていく関係というものに絶対必要なマイルストーンだ。

 繰り返しその名を呼ぶたびに、少しずつ無くなっていくぎこちなさ。それに呼応するようにじわりと胸の内側へ広がっていく温かさが、確信を深めてくれる。


 彼女バートリの内側も、そうだといいな。


 それまで発した事のない名前にようやく互いの口が慣れてきたころ、電車は少しずつ減速を始める。

 人がまばらに立つホームが見えてきて、私達はそこでようやく車内へ戻って来た。

 同時にいつまでも続けて痛くなっていた言葉遊びも、そこで終わりを迎える。時間だけを見れば旅程はまだ半分といったところだが、この駅を降りればあとは1本のバスに揺られるだけだ。いよいよ目と鼻の先に迫って来た奥入瀬へ、心はそわつき始めていた。


「行こっか」


 リュックとバッグのストラップに腕を通しながら、視線を投げ掛けつつ席を立つ。そんな私に続いて腰を上げる直前、バートリがこちらを見上げてくる。

 そこに浮かんでいたのはこれまでに向けられたどんな表情よりも瑞々しい、ようやく年相応に見える微笑みだった。

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