第16話『12:43 TC車クロスシート』

 本来絵には──いや、創造される全てものには明確な優劣など存在しないはずだ。全ては主観によって生み出され、また主観によってしか評価されないのだから。

 少なくとも今までそう信じてキャンバスやペンタブに向かい合ってきた。

 誰々よりも某々が、といった単純な話だけではない。

 人に限らず写実とロマン、素描と彩色画……たとえ対極をなす主義手法の間を見比べても、プロダクト生み出されたものを比較してどちらが優れているかを審美するなんてナンセンスだ。

 少なくとも、今日まではそう思っていた。

 だがその評価基準を『ひとりが持つ世界観の広さと訴求性』へと軸足を置いた時、私のトップティアは瞬く間にあっさりと塗り替えられてしまった。

 『この絵柄は好きなんだけど、この作風はどうしても合わない』

 所謂のクリエイターを多く持つならば、誰しも一度は抱いたことのある感覚だと思う。しかし彼女の母親が生み出すものに限ってはその方向性の無秩序さに反して、それが全くといっていいほど存在しなかった。

 見れば見るほど、絵柄もモチーフもすべてがバラバラ。なのに頭の奥ではそれらが、言葉にしえない共通項で強固に結ばれていく。

 ミルクパズルが勝手にハマるような表す事の出来ない妙な心地良さと共に、そんな確信が心の奥底で存在を主張していた。


「オイラセ!」


 これまでの色々を全て放り投げてしまったような笑顔と共に、彼女が声を上げる。そうして捲られた新たなページには、少し離れて緩やかな川の流れを臨む森の中の遊歩道が描かれていた。


「やっぱり──」


 こみ上げた気持ちをそのままに呟き、息を飲み込む。

 思わぬ形、そして思わぬタイミングで答え合わせの時間が巡ってきたようだ。

 母の手掛けたこの1枚、ひいてはそこに宿るなにがしかの思い入れが彼女を突き動かしている。だがそんな小さな満足は、すぐにその一枚絵が持つ圧倒的な表現に置き去りにされてしまった。

 どれだけ網膜に焼き付けたところで、賞賛にふさわしい言葉の欠片すらも浮かんでこない。

 キャンバスを横断する川の流れと、それを彩り覆う木々たちを臨む散歩道。

 目線を作品の左から右へと移していくだけで啓蟄けいちつから入梅を経て夏至から紅葉、そして大寒へと季節が移りゆく。

 目だけではなく耳までもその世界に誘われ、小鳥の囀りにしとしと降る長雨が続き、止むと入れ替えに森の中を包む蝉時雨に囲まれ、だんだんと音を静まり密やかな落葉のさざめきに変わり、最後は降り積もる雪に全ての音が吸い込まれたひたすらな静寂へ──物理的に鼓膜が震えなくても、ここまで鮮明に頭の中で音が響く事があるのか。

 もしも奥入瀬に足を踏み入れた事がないままこれを目の当たりにして、その上描いた本人がすぐ隣で『これは実際にある景色をモチーフにしているんだよ』なんて教えてくれたなら……それだけで現地へ赴く立派な原動力になる。

 そんな確信を抱かせるには充分だった。


「ヤバ、これ」


 もはや語彙力も殺しつくされた私を見て、母の手掛けた作品たちの魅力が伝わっているという手ごたえを覚えたのだろう。そうして更に得意げになったせいで、彼女の指が勢いを余らせたのかもしれない。


「これ……」


 捲られた次のページを見た途端、私はこれまでと全く違った意味合いで言葉を失ってしまい。

 そこに描かれていたのは幻想の欠片もない、どこを見ても現実と地続きなマンションの一室だった。対面式のキッチンを中央に、右の窓から柔らかな陽光が差し込むダイニングを斜め上から見下ろす形で、3人の家族が大きなサラダボウルが中央に置かれた長方形のテーブルを取り囲むようにして座っている。やや見慣れないインテリアと食器のデザインを除けば、それはごくありふれた日常をひとコマを切り取ったイラストに見えた。

 テーブルの左側にはふたりの男女が腰掛けていて、その対面で微笑みを投げかける少女の横顔があった。その顔の造作や陽光に艶めく栗色の髪、広げる手の表情ひとつに至るまで……線の少ないタッチでも明確に伝わる程に描き慣れしている全てが、絵の中の少女と今捲った絵を覗き込んで硬直している彼女をイコールで結んでいた。

 だがそれまでの絵と異なりじっと見入ることが出来ず、私は紙面から顔を上げてしまう。世界に引き込まれる前に、見てはいけないものを見てしまったという後悔に似た先端の鋭い感情が心へ突き刺さったからだった。


「ア……」


 重く垂れこめた沈黙の後で妙に大きく耳へ届いたその声は、レールの継ぎ目を踏む音に混じってすぐに遥か後ろへと流れていった。

 目を落としたまま感情の色を失った彼女の呟きが、覚えた直感を裏付けてしまう。


 絵は左の上端から右肩を下げていく形で乱暴に破られていて、そのほぼ半分が失われていた。


 彼女の向かいに座る男女やテーブルの形、そもそもの人数に対して断定が出来なかったのは、まさにそのせいだった。未だ全身が無事に残っているのは右側に座っている彼女だけで、はす向かいに座る男性は首から下が、向かい合っている女性に至っては指を編む手首から先が全て歪に走る破線によって裁たれている。指の細さと掌の薄さから辛うじて性別に見当がついた──それだけでも幸運とすら思えてくる程の痛々しさだった。

 ひしゃげたリングの折れ目と直で繋がるようなその破れ方は、まさそのページが開かれたままの状態で無理な力が加えられたことを物語っている。少女が腰掛ける椅子の脚辺り、つまり紙の右下端に繰り返し強く握りしめたような跡があるのも、この絵や彼女自身に起きた……そして、その先に繋がる今の状況と関係があるのだろうか。

 

「ハルカ?っていうの?君の名前」


 気掛かりでたまらない。

 だけど結局、破れた絵の理由は訊けなかった。

 訊いてはいけない気がした。


 代わりにスケッチブックの表紙に走っているローマ字を指差して、声に出してみる。

 かたん、かたん、かたん。

 流れる沈黙が3つぶんレールの継ぎ目を数えた後で、彼女は俯いたまま首を振る。


「マモン」


 それから絞り出すような震える声で、再び聞き覚えのある答えを口にしてくれた。

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