第15話『12:20 TC車クロスシート』
自分ではとっくに踏ん切りをつけていた……つもりだったんだけどな。
ともあれ彼女のせいではないし、何より今どうこうしても栓の無いことで困らせたいわけでもない。さてどうやって誤魔化すべきかと視線を脇に反らした途端、つっぱりを覚え始めた眦へと優しく触れる何かの感触を覚えた。
「ケ・スキリ・ア?」
誰かに目元を拭ってもらうなんて、子供の頃親にしてもらって以来かもしれない。その指先と続いた声色に覚えた温かさが身体へじわりと広がっていって、凝り固まったしこりをゆっくりと押し流していく気がした。
伝わってきたのは紛れもなく、この子の優しさ。言葉が通じなくても、確かに気遣う気持ちが自分を救い上げてくれた。
「大丈夫だよ。ありがとう」
未だ頬を覆う掌をほとんど無意識に握って、今度は取り繕いではない笑いが自然と漏れる。
こちらの言葉以外のものが、はたして十全に伝わってくれたのだろう。彼女の顔から険が取れ、少し朱の掛かった笑いを残してゆっくりと手が離れていった。
残ったのは2人して見合いながらの、なんとも気の抜けた笑い顔だけ。そこに覚える充実や達成感は、掛けてもらったイディオムに聞き覚えがあることなんてすっかり押し流してしまっていた。
「……絵、上手なんだ」
いい加減至近距離でのにらめっこに気恥ずかしさが勝って来て、ぱっと顔を離して話題を変える自分がいた。彼女の隣の席へ開いたまま置かれた岩手山を指差してぐっと親指を立ててやると、一層ぱっと明るくなった顔にいそいそとページをめくる音が続いた。
日本の厳島神社に始まり、パリのモン・サン・ミッシェル、イタリアのトレヴィの泉……テレビ番組で芸人がフリップを掲げるように勢いよく見せてくれるそれらの絵は、いずれも鉛筆1本で描かれているとは思えない程、どれもが圧倒的な筆致で仕上げられていた。その上で所々意図的に崩された曲線が幻想的というか幽玄というか、どこかこの世のものと半歩ズレたような印象を抱かせるのだから、正しい賞賛の言葉も浮かんでこない。トレヴィの泉の脇へついでのように描き加えられていた真実の口だけはその……なんというか本物のそれより更に輪をかけて個性的な表情に仕上げられていたが。
──けれどやっぱり、『唯一無二』だ。
この歳でここまでの境地に至っていると思うと、嫉妬を抱いていた一瞬前の自分に恥ずかしさすら覚えていた。いつの間にか首を伸ばして食い入るように見つめる私を見て、得意満面の顔でさらに数枚捲っていく。
千本鳥居に道頓堀のグリコ、確かコルコバードにあったキリストの像と、完成目前のサグラダファミリア。描く対象と表情のちょっとした偏りに気付くのと、次に捲られた紙に広がる絵に驚きを覚えたのはほとんど同時だった。
そこに描かれていたものもまた、ここまで見せてくれたものと同じ風景画だった。しかしひと目見ただけで、
今までの絵はあくまで写実をベースとして、所々が現実に映るものと離れた仕上がりを見せていた。だがこの絵は……そのバランスが全く逆だ。新緑と紅葉が交互に混じり合う葉の合間から、昼とも夜ともつかない暗く淡い色使いをベースに描かれた空が覗き、キッチュにデフォルメされた星々が刺々しい光を放っている。無理やり既知の言葉に収めれば、扁平に潰されたカラフルなトカゲのような生き物が這う岩場の間を、薄く澄んだ青い川が走っている。その流れを目で追うにつれて水の色は透明さだけを保ったままエメラルドに変わり、そこへ沿うような形でここだけ急に地へ足のついたようなリアルな色使いで描かれた土と砂利とが小道を成していた。
それはまるで現実の風景を絵本のテイストに落とし込んだような──いや、むしろ描き手が絵本の世界に立ったうえでその風景をスケッチし、そこへ改めて現実というフィルターを通すことで描き上げたような、そんな圧倒的な世界観を訴えてくる『イラスト』だった。
「マモン」
固まった私を見て、捲ったページに目を落とす彼女。そうして1拍開いた間の後でぽつりと零したのは、昨日聞こえた寝言と同じ単語だった。アクセントにちょっとした癖を覚えるものの、英語に近い発音。恐らく意味も同じようなものだろう。
「お母さん?」
問いかけにすぐさま返ってきたのはやはり、はっきりと同意を示す頷きだった。
なるほど、筆を握る才覚そのものは母親譲りということだろう。だがひとくちに『描く』と言っても、親子でその方向性が大きく異なるという事もすぐに理解できた。
それからのページを捲る彼女の顔はは、もしかしたら自分の絵を見せてくれた時よりも誇らしさを讃えていた気がする。写実的な風景だけをひたむきに描いていた彼女とは違って、お母さんの絵は実にバリエーションに富んでいた。
次に目へ飛び込んできたのは、全体を覆う淡い色使いと敢えてぼやかせた輪郭線で描かれた草原の風景。薄桃色の風に揺れる草木もそこに息づく虫も動物も、その全ての境が溶け合うように曖昧になっていて、見ているうちに自分もそんな幻想の一部に引き込まれてしまうような緊張すら抱いてしまう。
かと思えば次の絵は目一杯にズームアップしたたった1本のタンポポの花弁と、そこで蝶の羽を背中で休ませる超小型のトカゲみたいな生物が蜜を吸う様子を触覚の1本に至るまで精緻に描かれたもので、まるで本当に現実世界へ息づいているような錯覚をもたらしてきた。
星の光がすべて宝石の輝きに置き換えられた夜空と、その間を飛ぶ純白の烏。
人々でごった返す渋谷のスクランブル、そのど真ん中で羽を伸ばす虎の顔をしたスーツの紳士。そんな絵の最中、突然何の変哲もない正方形のテーブルの一角でこれまた安っぽいストローの刺さった紙カップを片手に微笑む女性がこちらを覗いてくるのだからたまらない。
「あれ、ここ……」
頭を掠めたふとした気付きに、先を急かす心持ちが一旦停止する。更に顔を近づけたこちらの意を汲み取ったのか、彼女もまたページを繰る指を止めてくれた。
その絵はあくまでカップとそれを握る女性にのみフォーカスしていて、座る椅子やら背景やらは色使いも輪郭も意図的にはっきりとさせないタッチで仕上げられている。だがよくよく目を凝らしてみると、後ろに映る仕切りやらの配置や間取りにはどことなく見覚えがあった。その引っ掛かりを覚えたまま改めて見やると、握るカップの原色2色使いされたビビッドな色合いにも説明がつく。
……もしかして、昨日この子があのマックであの席に座った理由は、この絵にあるんじゃないだろうか。
そう思うとシェイクを献上した時に見せてくれた屈託のない笑顔と、描かれている女性の微笑みが延長線上にあるように見えてくる。
まさか、時間軸さえも自在に操っているとでもいうのだろうか。
その振れ幅は脳にとってさながらサウナの交互浴めいて、現実と虚構の間を反復横跳びさせられているうちに妙な陶酔感すら覚えてしまう。
そうして全てが曖昧になっていく中でたったひとつだけ、明確に抱く欲求だけが頭の中で鮮烈に煌めく。
──もっと、この人の捉える世界が見てみたい。
目の前で指がページの端へと掛かるたびに、『次はどんな世界が目の前に広がるのだろう』という期待が際限なく胸の内を満たしていった。
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