第14話『12:05 TC車クロスシート』
車輪がレールの継ぎ目を踏む、等間隔のリズム。
それが段々と近づいてくるような感覚を覚えて、窓に肘を着いていた手の甲と私の頬が離れた。
「……んぁ?」
当然私と車輪の距離が変わるはずがない。それは単にいつの間にか落ちていた意識が、引き上げられるにつれて覚えた錯覚に過ぎなかった。
結構深く思い考え事をしていたはずなのだが……このカタン、カタンというリズムはどうしてこうも人の眠気を誘うのだろう。どうやらまどろみの間に、結構な時間を居眠りして過ごしていたらしい。地方都市らしい高さを押さえられた街並みを縫っていたはずの窓の外は、いまやすっかり気の早い色づきを迎えつつある山景に様変わりしていた。
──ああ、あれが多分、ガイドのおばちゃんが言っていた岩手山かな。
窓へ近づけた首と目線の角度を少しばかり上のほうへ傾げてみると思っていたより低めの山体と、そこから柔らかめのプリンを逆さにして皿へ開けたような台形を形作る裾野が伸びている。いかに北の地といえどさすがに雪化粧には早いようで、ある一定の高さを境に緑の彩りを脱いで地肌のような茶色が見えていた。
確か、標高何メートル化で高い木が映えなくなる奴。多分それなんだろうが、なんて言ったか……名前を探っているうちに、だんだんその姿が黒蜜をかけた抹茶プリンに見えてきた。朝食を控えめに済ませたお腹が寂しさを口元に運んでくる。
八戸に着くのは13時半、出来ればバスへ乗り換える前に何かを腹に入れたい……が、そこまで時間の余裕があるかは未知数だった。電車に乗る前に買っておくのが正解だったか。そもそも「これも旅情だよね」なんてノリで第三セクターを使わず、普通に新幹線で八戸へ出ていれば、ゆったり昼食くらい摂れたのではないか──頭の中で反省と改善と後悔が同じ形をしていて、考えが纏まらない。
そんな寝起きのぼやけた頭に見切りをつけて、窓へ貼り付けていた額を剥がす。そうして視線を列車の中へと戻し、そこで初めて対面に座っていた彼女がこちらに意識を割いていない事を知った。
「え、上手っ……」
覚えた驚きの勢いで、思わず喉から小声が飛び出ていた。
意識を落とす前、対面に座っていた彼女は私同様に景色を眺めいていたはずだ。それが目を覚ましてみると、その手にはいつの間にか粗く削られた鉛筆とスケッチブックが握られていた。私が持っているものよりふたまわりほど大きなスケッチブックは下半分がスプリングごとひどくひしゃげていて、アイコニックな黄色と黒の表紙には痛々しい折り目が幾筋も残っていた。
不注意で落としたとかいうレベルではなく、相当に無理矢理な力を加えない限りああはならないだろう。だが今に限ってはその理由に想像の枝葉を伸ばすより、開かれたその不均一な画用紙の上を踊るように走る鉛筆の先端に意識を奪われていた。
ただひたすらに、黙々と。
私の挙げた声にも注ぐ視線にも全く気付かないまま、彼女は一切の迷いを見せることなく線を引いていく。かと思えば何の前触れもなくピタリと手を止め、目線を窓の外へと向けてじっと眺めてはしばらく目を閉じる。そしてやはり何の前触れもなく目を開いて、再び握った鉛筆を勢いよく動かし出す。
時折目の前に垂れる栗色の毛先を指先で払うのはアクセントとして──描き、眺め、瞑る。その3拍子は恐らく描くモデルが静止してないために生じたルーティーンだろう。私も生き物や波の流れを描くときに、無意識のうちに似たような繰り返しをするから分かる。時々手を止めて山の姿を確認するのは、目に映ったそれを正確に描き移すためではない。
実際の所描き出そうとしているのは、真っ白の紙へ鉛筆の先を落とす一瞬前に観た山の姿がベースだ。
目にした
予想通りそのループが数を重ねる度、みるみるうちに紙の上には見事な岩手山の雄姿が浮かび上がってきた。
強めの陰影で立体感を強調した山体の力強さは、まるで紙面に走る痛々しい皺の跡まで己の意匠へと落とし込んでいるようにすら感じる。それを狙っているにしても、あるいは無意識のものにしても──出来上がっていくその絵には、決して研鑽だけでは到達し得ないセンスの片鱗が確かに彩を放っていた。
際立って優れた絵画は、たとえそれが白黒で成したものであっても頭の中が勝手に色を付けていくという。私は今や窓の外を眺めなくても、秋の予感に色づき始める岩手山が頭の中で像を結んでいた。
……きゅ、と唇の皮を食む。
目の前で形を成していく、思わず小さな嫉妬すら覚える程の出来栄え。それは美大に入った年の秋に参加した風景画展で、後の主席と作品を並べられた時に覚えた挫折を呼び起こしていた。下手をしたら私の半分程度しか歳を重ねていないこの子が、いくら手を伸ばしても指先で触れる事すら出来なかった扉の向こうに立っている。
イラストや抽象的なデザイン路線に逃げた──などとは今でも決して思っていない。それは業界に対しても同業者に対しても、何よりそこへ生き筋を定めた自分自身にも失礼な発想だからだ。
だが一方で目に映るものに対しあくまで写実をベースに、そこへ己の色を纏わせて他の手段や人間には決して表現し得ない唯一無二を創り上げる──わたしにはそんな、画家として素養が絶対的に足りない。
その現実を受け入れたからこそ、今の生き方へ舵を切ったのもまた事実……
「わあっ!」
過去へと遊離していた思考が、こちらを下から覗き上げる淡青の済んだ瞳に引き戻される。
気付けば彼女は鉛筆とスケッチブックを脇へ置き、不思議そうな表情を私の鼻先いっぱいへと近づけていた。反射的に上げてしまった大声に彼女も驚いた様子で、ぱんと弾けるようにお互いの顔が離れる。
「あ、ああ。ごめんね。なんでもないんだ」
顔の前で両手を振りながらいつの間にか僅かに熱を帯びていた目を拭い、笑顔を貼り付けて答えた。取り繕いの言葉が通じない分、余計に本心が伝わってしまったのかもしれない。
彼女の顔が訝しみ半分、心配半分といった形へ曇っていくのが分かった。
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