第13話『11:53 TC車クロスシート』
そのうち夜の星空へ飛び出して行きそうなその名前とは裏腹に、ホームへ滑り込んできたのは一昔前の首都圏でもよく見たような車体だった。恐らく前世はビルとビルの間を毎日せせこましく縫ってきたのだろう。そこで運せてきた乗客同様に、どこか疲れ果てたような顔つきをしている……そんな先入観から辛気臭く映るそれが近づいてくるにつれ、なんというか期待を裏切られた感は否めなかった。
それでも車体にやや浮きがちなマスコットキャラを配して、申し訳程度に車内の左半分だけ据え付けられたボックスシートへ腰掛ければ、だんだんとそれなりに観光列車然として見えてくるのだから不思議なものだ。あとは車窓を延々と流れていく収穫が終わったばかりの水田と山々の緑を眺めていればすっかり旅行気分が戻ってくる。人間っていうのはつくづく、気分というフィルターを通して映る世界しか評価することのできない生き物だ。
……『On the railroad』だったか。こういう気分の時にぴったりな、アコギの弾き語り。随分と前に解散してしまったバンドのナンバーだが、確かスマホに入れていた──そこまで思い出してポケットに指を入れて、ようやく没収されてきた事を思い出す。窓に頬杖をついたまま目線だけで、今も私のスマホを握っているであろう対面の顔をちらりと伺ってみる。
今日なら、もとい今なら。
奥入瀬はもう目と鼻の先にまで迫っている。切り出し方を変えてみれば、あるいは交渉の余地くらいは返してくれるかもしれない。だだ動き出してからずっと飽きもせず外を眺めているキラキラした目を前にして、わざわざ声を掛けるのも気が引けて止めた。
要するに2日目を迎えて、私のこころはそれほどまでに警戒を緩めていたのだった。
形としては脅されて始まった奇妙な旅行だった。だが今や通信機器が使えないというちょっとした不便を除けば、ミステリーツアーに参加しているのと大差ない心持ちでいる。むしろ何て言うんだっけ……デジタルデトックス?にもなって、振って湧いた休暇にはむしろ良いかも知れないとすら思えていた。
あのクライアントから催促のひとつくらいあるかもしれないが、そこは先輩が上手くやってくれるだろう。おまえなんか精々ビルとビルの間でこいつの後輩にでも揺られていればいいんだ。
勝手な期待で些細な懸念をさっさと横へ除け、差し込む陽光でいくぶん温まったペットボトルのお茶をひと口飲み下す。夏の終わりより秋の始まりを予感させる柔らかな日差しと雲のない穏やかな空は、東京で見上るそれよりもずっと深い青色をしていた。
出がけの案内所で訊いた──対応してくれたのは昨日の窓口とは違う、親身を絵に描いたようなおばちゃんだった──話では、途中で路線の名前は変わるものの八戸までは直通。そこからバスへ乗り換えて、16時前には奥入瀬の玄関口へと着く予定になっている。
そしてそこから先の旅程も私ではなく、やっぱり彼女の気分に委ねられていた。目的としてた奥入瀬の景色を前にして、そこで何をするつもりなのか。ここまでのアレコレで一緒に行動するには過不足ない程度にコミュニケーションのコツは掴んでいる。だがやはり言葉でのやり取りがまともに出来ないと立ち入った事情まで教えてもらったり、まして言外に察するのには無理があった。
そんな不透明さを前にして抱くのは、同じくらいの大きさをしている楽観と不安。
私の事に限って言えば、辿り着いた先でもそうそう悪い事は起こらないだろう。行動を共にしてそろそろ丸1日、そこまでの積み重ねを経たこの予想はもはや確信に近かった。新幹線の時とは違って今やぴったり隣に座る事もなく、リュックの奥底に眠るナイフを取り出す素振りすら窺えない。そんな彼女の態度こそが、楽観思考になれるこの上ない根拠だった。
だが逆に、彼女自身の視点に立って考えれると、途端にその行く先へと途端に影が差す──そこにどうあっても良い予感など覚えられなかった。相反する心持ちが矛盾なく同居するのは、それが理由だ。
今やそこに懐かしさすら覚える、突き付けられた切っ先の鈍い照り返し。だがそれが見間違いの類でない事を、昨日のホテルで思い知らされた。
見られても問題ないと思っていたのか、単にそこまで気が回らなかったのかはわからない。だが潤いを取り戻した髪にドライヤーを当てられて満足げな顔を浮かべる彼女が脱衣所に脱ぎ捨てていたのは、褪せた赤錆色の斑点が飛び散ったキャミソールだったという事実。それが頭の中でどうしても繋がってくれなかった。
躊躇いもなく後ろに立たせ、まるで子犬のように無防備なまま髪の手入れまで任せきりにしてくれたものの、スマホだけは頑なに返してくれない。それに加えて備え付けのテレビをつけようとすれば、その度先手を打つようにリモコンを手に取って私から遠ざけた。その狙いは明らかで、絶えず更新される情報の海から私を少しでも遠ざけようとしていた。
つまりは、触れられては困ると判断した情報が目に入る可能性があるということだ。それも大して深く検索せずとも出て来てしまうような、ショッキングな何かが。
極めつけは目の冴えて眠れない深夜に隣のベッドから漏れ聞こえて来た、何かへ必死に抵抗するようにうなされている声とつづく啜り泣き、そして消え入りそうな「マモン」という呟きだった。
気付けばわりとがっつり見つめてしまっていた彼女の横顔から目を離し、ちょっとくたびれた色合いに見える天井を見上げる。
繋がりそうで繋がろうとしない点は、それでも勝手に頭の中へ朧げな想像を描いていく。
のっぴきならない事情の中、『オイラセ』へ向かう為その手を血に染めたのか。
あるいはその手を血に染めたからこそ『オイラセ』へ向かう事にしたのか。
どちらにせよその行動原理は決して希望とか、そういった明るい展望に根差してはいないだろう。だからこそ障害に加えて赤の他人への脅迫と拉致という罪まで重ねて望んだ景色を前に、この子が一体どんな選択をするのか……あるいは、そこを自身の終着とすら捉えているのかも知れない。
不幸に不幸を塗り重ねたような結末が、頭の中でどんどん輪郭線をはっきりさせていく。その度に今私たちが奥入瀬へ近づいているという事実がどうしようもなく不安を煽ってきていた。
それをストックホルムと呼ぶかリマと呼ぶかは知らない。
だがどちらにせよ、彼女が辛い目に遭うのは見たくない。
それが共に一晩を経てなお過去や経緯を知らない私の、身勝手で正直な思いだった。
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