第10話『17:55 東口・滝の広場前』

 普段自分が、どれだけ文明の利器に頼って行動しているか。

 突然終わりのない彷徨ほうこうを強いられた運動不足の腿へ張りを覚えていくほどに、それをひしひしと痛感していた。

 まとも地図も見られない壊滅的な方向音痴にとって、スマホの音声案内もなしに初見の大きな駅を進む事がどれだけの無理難題かと叫びたい。誰へ向かってかは分からないけど。

 ……ともかく私はいったいあと何度、この待合室前に戻ってくれば気が済むのだろう。

 ガラスの向こうで3つベンチを占領して我が物顔で寝っ転がっているおじさんも、この世の終わりのような顔をして虚ろに腰掛けているスーツのお兄さんも、隅っこにひとり座っているおばあちゃんも、そのトランクにぶら下がっている可愛らしい犬だかウサギだかのマスコットもとっくに見飽きたというのに。

 ホームに降りた時はまだ明るかった空も、今ではすっかり宵の色へ沈んでいた。ホテルの名前を指差して頷き合い、意気揚々と歩き出してもう20分以上が経つ。その間休みなく歩き回っていたせいで、とっくに弁当を消化し終えた胃の中が新たな催促を鳴らし続けている。

 普段からスニーカーで通勤していて良かった。歩みを落とさないように気を付けつつ、さりげなく頬に伝う汗を拭う。外に出るなり吹かれた夕風に肌が震えたのももはや遠く、今となってはその冷たさが恋しかった。

 ハンカチじゃ足りない。本来ここまで汗っかきでもないのだが、今に限っては事情が違った。浅く上がる息に額へ浮かんでいるものとは別に、迷えば迷うほど後ろから圧し掛かって来る無言の重圧で背筋にもじとりと湿り気が広がっていく。

 すぐ後ろを付いてくる顔からは段々と明るさが消え、入れ替わるように戸惑い疲労の色が濃さを増していった。それを見る度に重くなっていく気分が、彼女の方を向く間隔をどんどん広めていく。ぴったりくっついていた足音も、気付けば数人分は遠く離れた気がする。

 そうして募る焦りと裏腹に、どれだけ歩こうとも見えるのは新幹線の乗り場とバスのロータリーとあとは軒を連ねる店くらいなもので、ホテルに通じるらしき『東西自由通路』とやらが一体どこにあるのか一向に検討が付かなかった。

 それが『さんさこみち』とかいう別の名前で呼ばれている事を、身体の限界に恥を忍んで訊ねた私にタクシー乗り場で休憩していた運転手が教えてくれた時には、既に18時を回ろうとしていた。

 ……その文字ならエスカレーター登った先で散々見ていたじゃないか。

 伸びる長い直線を一瞥するなり、名前も違うし間違っていたら戻るのが面倒だしいいかと避けた過去の自分を張り倒してやりたい。

 ともあれこれで、ようやくゴールが見えた。立ち止まって続く足音を待つが、そこで初めて後ろの気配がいつの間にか消えている事に気付く。


 ──この隙に逃げる。

 という選択肢は、はじめから頭を掠めもしなかった。


 ただはぐれたという不安の心地だけで振り返ると、10メートルほど離れた所に見慣れたカモフラ柄をしたパーカーの後ろ姿をすぐに見つけることが出来た。


「あぁ、良かった……」


 安堵に独り言ちながら歩み寄ると、そこで初めて彼女が誰かと話をしている事に気付く。啄木の石碑を挟むような形で、そこにもたれるように寄り掛かっていた旅行客らしき男性に声を掛けていたようだった。

 さらに数歩近づき、皺が深く刻まれている顔立ちが日本人のものではないと解る。夜の冷たさを抱く風に乗って聞こえて来た会話も、当たり前だが聞き慣れた言語ではない。しかし受け答えするふたりの様子から、お互いに齟齬なく通じ合っている事は明白だった。

 人によっては袖を通すのも躊躇いそうな明るい色使いの出で立ちに、携えているのは1週間の滞在も問題なさそうなほど大きなスーツケース。疲れとも焦燥ともつかない表情で彼女を見上げるその横顔は、一筋と追った鼻の高さが一際目立っている。生まれが同じ国なのだろうか。よく見て見ればどことなく顔のパーツに通じるものがあるような、ないような……


「イェ」


 近づく私に気付いた彼女が、初めて睨まれた時に上げたものとくらべてまるきり角の取れた呼びかけを投げてくる。その後に二言三言長いことばが続き、隣にいる初老の男性もそれに同意するように頷いた。

 その合間合間でふたりが確認し合うように目を合わせるが、そのやりとりの輪郭すら掴めない。自分が疎外されているような気がしてちょっと悔しかった。

 ともあれこのおじいちゃんが何か問題を抱えており、同郷──かどうかはわからないが、言葉の通じる彼女が偶然に声を掛けたという事までは理解できた。荷物を取られたようには見えないし、財布も腰元のポケットからその端を覗かせている。時々スマホを取り出しては溜息を吐いているが、その画面にはちゃんと地図が表示されているあたり迷子というわけでもなさそうだ。

 だとしたら何が問題なんだ……?

 腕を組む私と、助けが来たにも関わらず事態が好転しないと悟り俯く老人。だらりと下がるその左手薬指に光る指輪を見つけるのとほとんど同時に、それまで私達を見比べながらもどかしそうに奥歯を噛んでいた彼女の目が開かれた。


「ん?ちょっと待ってね」


 とんとんと私の肩を叩いた彼女が、見えないペンを握った左手の先を、開いた右手のひらへと走らせた。貸してくれ、ということだろう。トートからメモ帳とボールペンを取り出して渡すと、ページを繰った彼女はさっき私が描いたピクトグラムと同じような人型をふたつ並べて描いた。


「……へぇ」


 思わず感嘆の息が漏れる。描き慣れている手付きだとひと目でわかった。

 ペン先のスピードは走り書きといって差し支えないものだったが、不安定な土台をものともしないようにその線は安定している。その上ふたつの人型がそれぞれ年を取った男女であると解るように顔へは皺を描き込み、髪の長さと体形にそれぞれはっきり区別をつけていた。

 引っ込めたペン先をトントン、と男性の人型にあてた彼女は、その後で視線だけを老人へと向ける。それから一度私の顔へと目線を戻して、ふたつの人型の間へ1本まっすぐな線を引いてみせた。

 隔てる線、境界、つまり──


「奥さんとはぐれた、って事ね」


 返してもらったペンでそれぞれの人型の上に?のマーク、それと首を左右に振っているように見える効果線を書き加えてやると、明るさを取り戻した彼女の顔が上下に忙しなく動いた。

 改めておじいさんを見やると、疲れ切った様子にも関わらず律儀に目を合わせて弱々しく微笑んでくれた。それから膝についていた手を此方に伸ばしてきたのだが、その拍子に身体のバランスを崩しトランクごと前につんのめった。突然のことで私の反応は遅れてしまったが、大きくふらつく体に素早くパーカーの子の手が伸び、抱き留めるような形で支える。

 それからまた短いやり取りが目の前で交わされ、彼女はおじいさんの身体を支えたまま近くに見えていたベンチへと歩き出した。一拍遅れて私も取り残されたスーツケースの取っ手を握る。ふたりについていこうと歩き出したところで、引き上げ式の取っ手の根元にちょこんと座っているマスコットと目が合った。

 この何ともいえない間の抜けた表情をした、犬ともウサギともつかない黒いキャラクター。

 待てよ?ついさっき、似たようなものをどこかで──


「あっ」


 動き出した足を止めて数秒、パチンと脳裏に弾けた記憶の火花に素っ頓狂な声を上げる。

 目を丸くしてこちらを見るふたりに、私はぐっと立てた親指を向けた。

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