第9話『17:25 広域観光センター』
「本日中は難しい……というか、ちょっと無理ですね」
「え」
期待に満ちた眼差しを背中に受けている分、その宣告は一層重みを以て腹の底を打った。
虚を突かれて間抜けな声を上げたきり、口は半開きのまま固まってしまう。そんな私の表情を見て意味が伝わっていないと感じたのかもしれない。そもそも観光案内のエリア外の情報を調べさせられた窓口のオジサンの顔は、いよいよ面倒くささを隠さなくなっていた。
「先ほども申し上げた通り、奥入瀬渓流へは八戸駅から出ているバスで向かうんです。けど本日の運行はもう終わっていますね」
「あの、他には何か……」
「あとはタクシー、ですかね?値段の面であまりお勧めは出来ませんけど」
──ていうかそれくらいスマホで調べろよ、入ってんだろ?ポケットにでも。
これだから、とばかりに皮肉の混じった説明の終わりについてきた聞こえよがしな溜息は、薄笑いの表情と相まってそんな空耳を脳へ運んできていた。
「……そうですか。ありがとうございました」
入ってたらアンタみたいなのに訊ねるもんですか。こっちの事情も知らないで。
心の中で思いっきり舌を出し、わざと音を立てるように椅子を引いて立ち上がる。幾分軽くなったトートを肩に掛けつつ振り返ると、そこには顔中の皺を眉間に集めて半眼を向けている栗毛の子の顔があった。
10分弱のやり取りの末に得られた芳しくない成果は、首を振るでもなく伝わっていたようだった。私が窓口と交わしていたやり取りを眺めているうちに、ことば以外から既に何かを感じ取っていたのかもしれない。
『今日中に奥入瀬へは辿り着けない』
その現実をどの時点で悟られたのかはわからないが、今もこちらへ激高したり掴みかかったりしてくる素振りは見えなかった。彼女がすぐさま凶行へ走る程短期の持ち主ではなかった事、それが現状唯一にして最大の幸運といえた。
「参っ、たね。どうも……」
案内所の座面と半々に分け合った背中の冷や汗が引いていく感覚を覚えながら、 理解されるわけないと分かっていつつ嘆いてみる。そんな私を見る表情は、また一段と渋みを増していた。
こちらの腕を引きながら弾む足取りで夕暮れのホームに降り立ち、あたりを見回して輝かせていた眼差しからは想像もつかない。だがこちらがいくら続く言葉を出しあぐねても怒鳴り声を上げたり、まして暴力に訴えたりする様子は見られなかった。
しかし──
「……大丈夫?」
こちらの顔付きで伝わったか、あるいは理解が出来ないという意味なのか。彼女は無言で首を振る。
そのただただ沈痛一色を浮かべる面持ちに首を垂れるその姿を見ていると、無理やり連れてこられているというのに申し訳なさを抱かずにはいられなかった。
それと同時に伝わる思い入れとその深さ。やはり彼女の中で奥入瀬に行くというのは単なる物見遊山ではないのだろう。その思いを察して、なおさらに構内から出るのが気分的にどうしても憚られてひとまず改札まで戻る。だが結局はそこで足を止め、券売機の列から外れて端に引っ込まざるを得なかった。
……やっぱり、今日の所はここで足止めだ。
もう一度新幹線の切符を買えば八戸までは行けるだろうが、どの道明日まで足止めを食うのならば──勝手なイメージで申し訳ないが──より栄えている場所で留まる方が賢い選択だろう。
そうと決まれば、探すべきものが交通手段から宿泊施設に変わった事を伝えてあげなければ。といっても大方事情は察しているだろうし、動き出せばこちらの狙いも伝わるだろう。余計なひと手間かも知れない。
「えーっと、宿、ホテル。探す……は、サーチ?」
それでも、だ。
こちらのアクションから納得を引き出すことが、彼女に対して果たすべき義理だと思わずにはいられなかった。
「ゥン……?」
──やっぱり英単語はダメか。
変わらない顔色のまま傾げる小首に連動して、胸元でカーブを描く毛先が躍る。思わず両腕を組んで考え込んだ末、偶然目に入った構内案内板のピクトグラムから閃きを賜る。
一度指先を揃えて伸ばした掌を掲げて制しつつ、再びペンとメモ帳を引っ張り出す。新幹線の中で描いたトイレの隣には、まだページ半分以上の余白が残っていた。
腰を据えて描けるようなテーブルもないので、立ったまま左手で握り込んだだけの紙面にペンを走らせていく。当然線を引くたびに紙面が揺れて線がブレブレになるが、今大切なのは出来の良さではない。最低限伝わればいいうえで、何より描く順番を見せる事だ。
トートの中に入ったままのパンフレットに時折目を落としつつ『大雑把な東北地方の図形』その脇に『同じ色をしたトイレのピクトグラムふたつ』、そこから『秋田から十和田湖へ伸ばす矢印』を伸ばし『その途中にバツ印』を勢いよくつける。最後に隣へ『10時を指すデジタル時計』描き、そこにもバツ印を跨がせた。アナログ時計より手間取るデザインを選んだのは、確実に夜を表現したかったからだ。
──ここからオイラセへ私たちが向かうには、時間が遅すぎて今日は無理だよ。
さて、伝わるか……。
ダメ押しに宿泊を表わすベッドのイラストを添えようかと思いついたところで、不意に見下ろしていた白地へ細い人差し指が映り込む。根にささくれの目立つ爪の先端に視線を取られ、その指先はゆっくりと彼女の目元へと運ばれていった。
「あっかんベー……って、何が?」
訊ね返してみるも、彼女は目から指を離して小さく肩をすくめてみせるだけだった。
少なくとも了解とか気にするなとか、プラスの感情を向けられてはいない事は分かった。しかし電車が無いのはあくまで不可抗力であって、私のせいではない。たとえ飛び乗ったあの新幹線が八戸行きだったとしても、足止めを食う場所が変わるだけだっただろう。
「うーん……」
といはいえこれ以上突っ込んだ説明を、イラストだけで表現できる自信はない。それに間を空けて再び描けば順番を意識した意味が無くなって、むしろ彼女の解釈を捻じ曲げてしまう可能性もあった。
ひとまずノックしてペン先を引っ込め唸る私を、下げた眉根の下で細まった目が見つめてくる。そこに怒りだとか、荒々しい色は見受けられなかった。
目的地に近づいたからか、それとも東京から離れたせいだろうか。ここへ降りてからというもの、彼女の纏う雰囲気は幾分か軟化の傾向を示していた。今も怒声や暴力に訴えるような様子は一切なく、私と同じく何かを悩んでいるような表情を浮かべている。
状況を打破するアイデアが一向に浮かばないまま、十数秒くらい顔を突き合わせていただろうか。
「──ホテル?」
不意に跳ね上がった顎先のあとで、何かを思い出したように語尾を上げた彼女の声が聞こえた。同時に再び、その細い人差し指がぴんと立てられる。だが今度はその先端が目元ではなく、私の肩越しに何かを指していた。
……後ろ?
振り向いた先にあったのはルートインの看板だった。彼女の指先はそこにある間接照明に照らされたベッドの写真を示している。ダメ押しとばかりに彼女は揃えた両手の指先を真っ直ぐ伸ばし、重ねた手のひらを傾げた頬に添えて目を閉じる。それが眠り、つまり明日になることを表わしていると分かった途端、ずっと探していたパズルのピースがかちりとハマったような快感が脳裏を巡っていた。
「うん、そう!」
頷きが万国共通の意味を持っていて良かった。
こちらの声が弾み、顔色も変わった事で通じたと判断したのだろう。彼女の顔にもまた、ぱっと光が灯る。それを目の当たりにした途端、まるでつぼみが
……ともあれ、意図が伝わったなら重畳。次は予約だ。
平日の夕方なのでいきなりフロントへ赴いても良いかも知れない。だがそこは彼女が睡眠を示したジェスチャーの可愛げに、無意識下で触発されたせいかもしれない。今度はイラストなしでやってやろうと湧いてくる謎の気概に任せたまま、小指と親指だけを立てて耳元へ運んでいく。
電話を表現するといえば、これだ。あとはトートを提げた左手の手のひらを上に向け、彼女へと差し出す。
『電話を 下さい』
何かが通じ合ったような気分は、それだけでお互いのハードルを下げてくれた気がする。それは彼女も同様だと思いたい。
これでスマホも戻ってくればそれ以上の結果はないのだが──
「あ、あれ、ダメ?」
しかし結論から言えば、全くと言っていいほど伝わらなかった。
手先と私の顔を見比べる彼女の顔には単なる否定というより、むしろ懸命に理解しようとしてそれでも及ばないような無念さが浮かんでいる。
伝わらなかったのは生まれ育った国というより、単に世代が違うせいだ。
生まれた時から携帯、下手したらスマホも当たり前にある世代には、本体と分離している受話器という概念自体がまず存在しない。
それが分かったのは、それからしばらく気まずい沈黙を挟んだ後だった。
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