第8話『16:10 1号車デッキ 洋式トイレ内』
そこからはもう、怒涛の一言だった。
頷きを返すことでどうにか了承の意思を伝えて、手の甲を掴まれたままふたたび改札を出る。そこまでは良かったものの、切符売り場の前ではたと足が止まってしまった。奥入瀬の景色そのものは雑誌やテレビ何度か見たことはあるのだが、肝心の場所が不案内だった。頭の中には『青森・十和田湖の近く』という事しか情報がない。
どうする……目線を滑らせ、隣にあるみどりの窓口の入口を見やる。あそこで訊ねるのが最も手っ取り早く最適解を導き出せるのは間違いない。それは分かってはいるものの、思い出すのはお腹に着きつけられた冷たく硬い感触だった。
あの一幕を経てなお、第三者に声を掛ける勇気を持てるほど肝は太くない。万一『誰かに助けを求めている』と誤解されようものなら、今度こそこの身体が無事では済まないだろう。
先ず何よりも服従、つまりは目的地に向かうという意思を見せなければ。
そう腹を括って──というより半ばやけくそのような心持で、殆ど画面の情報を負わないままタッチパネルに表示された一番近い時間の東北新幹線を押しクレジットカードを吸い込ませる。
そうして排出された乗車券と特急券には『13:42』という打刻──あと、8分。
「げえっ」
我ながら汚い声を漏らしながら、まるで弾き出されるよう足が前に出ていた。
ここは普段から慣れ親しんだ駅でもなければ、まして新幹線なぞ何年前に乗ったのかというレベルで勝手がわからないものだった。ホームを探す時間を考えれば、一刻も早く動き出さなければいけない。
突然互いの腕がぴんと張った綱のように一直線になった事に驚いたのか、手首を掴む指先の爪が食い込んできた。痛みに顔をしかめながら、それでも足を止めずに目線だけを向けると、驚きと警戒の籠った眼がこちらを捉えている。
「時間がない」
手短に伝えるものの、やはり日本語を理解している様子はない。乗車券を手渡しながら掴まれた手首に巻かれている時計の文字盤を爪で叩く事で、どうにか焦りを伝えてみる。
「……奥入瀬!行きたいんでしょ」
それでも緩まない指の力と動かない足先に、しびれを切らして声を上げる。切迫した声色か、それとも表情か、あるいは唯一正しい意味合いを共有している単語のお陰かは分からない。だが声を張り上げるなり気圧されたようにひるんだ表情に変わったその子の足は、ようやく地面から離れてこちらの意に従ってくれた。
「オイ、ラセ」
エスカレーターを早歩きで上がる途中、呟くような声が後ろから届く。一度振り向いて大きく頷き再び顔を前へと上げると、勢いにブレる視界の先でちょうどホームへ滑り込むカワセミ色の車体が映った。
※ ※ ※
……あの時は焦ってて気づかなかったけど、こーれ失敗です。
ベルトを締め直して便座へ座り直し、ポケットから取り出した乗車券を軽く挙げた目線の先へ掲げながら息を吐く。
『13:42分発 やまびこ63号 盛岡行き』
ここは青森ではなく、岩手の県庁所在地だ。いくら地理『2』のまま学校生活を終えた私でも、それくらいは流石に知っていた。
というか……このケアレスミスには、列車が動き出して5分としないうちに気付いていた。あの独特な抑揚でこちらの眠気を誘う車内アナウンスが、終点の駅名だけはやけにはっきりと発音していたからだ。
にもかかわらず今こんな事をしているのは、何度か確認するうちに字面が変わったりしてくれないか……などという諦めの悪さ故だった
そして当然そんな都合の良い奇跡など起こる筈もなく、乗車券もアナウンスも私たちがあと1時間もしない内に奥入瀬どころか青森の遥か手前で
いや、盛岡で降ろされる事自体は大した問題じゃない。
降りた先で改めて青森──パンフレットには
ならばどこに憂いがあるかというと、この間違いがあの子を余計に刺激しないかどうかの一点に尽きた。
『行き先を間違えたので、これからもう一度切符を買って違う新幹線に乗る』
これを言葉なしで、身振り手振りとイラストだけで意図まで漏らさず伝える。その難易度の高さたるや、想像するに難くない。
あの子が今こちらへの警戒を緩めていたり、私の心が事態への不安から遠ざかっているのはあくまで一時的なものだ。ひとりで辿り着けない旅路の案内人として、私はあの子の要求に従って行動している。そう思われているという大前提があるからここまで怪我のひとつも負っていないし、こうしてトイレに立つ許しも得られている。
しかしこの先、駅に降りた私の行動があの子の意に反しているものとして映ってしまった場合、その瞬間安全の担保は崩れ去る。もちろん逃げる勇気もないし、まして騙して警察へ突き出すような機転の良さも持ち合わせていない。だが平時のコミュニケーションすら満足に取れていない以上、一度誤解され激高されようものならそれを解く手段がない。せいぜい覚束ないジェスチャーに手足をばたつかせてあわあわしているうちに、お腹にナイフを突き立てられるのが関の山だろう。
となれば──切符を間違えた事をギリギリの際まで悟らせず、なるべく人目の多い所であたかも今気づいたかのようにトラブルを演出する必要がある。
「……やれんの?」
つい自問が口をついて出る。
一世一代の芝居の打ちどころが、まさかこんなところで来るとは。
芝居という言葉と連動して殆ど八つ当たりのようにクライアントの顔が過ぎり、つくづく演劇とかそのあたりの言葉がまるごと嫌いになりそうだった。
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