第7話『13:25 M2Fニューデイズ横』
どうして、この子からこんな匂いが……?
疑問が頭をかすめるが、それを口にする事は相変わらず切羽詰まっている状況が許さなかった。
互いの皮下脂肪に隔たれた心臓の音が、耳の奥で重なって聞こえる。緊張はお互い様なのか、足音がこちらに近づく度に拍動のテンポが私のものに追い付いてきていた。
「えっ、ちょっ──」
いよいよ制服のふたりが浮かべる険しい面持ちまで見えるほどに距離が縮まった瞬間、突如として頬と鼻先がフードの中へと押し込まれる。その奥で何年かぶりに覚えた他人の肌と触れ合う感触に、思わず声を上げてしまった。
それまで私の肩越しに壁に着いていた右の手がいきなり私の首へ回され、そのまままるで抱きすくめられるようにその肩口と鎖骨の間へ顔を収められた。同時により強く嗅ぎ取ってしまったあの臭いに、改めてぐらりと頭の中を揺らされる。
刃先の当たる腹下だけを器用に避けて、身体同士が限界まで引っ付き合わされる。
一回り小さな私の身体はすっかり近づく制服の視界から隠れてしまった。
お願い。気付いて。
これ以上のない密着によって声も出せない以上、もう祈るしかなかった。制服ふたりの動向を伺えるのは聴覚だけで、それも早鐘を打つふたつ分の心音による妨害が絶えず差し挟まれる。耳を欹てるのも必死だった。
「おい、あれ」
「ああ」
一拍の間を置いて何かを煙たがるような声色と共に、足音が確かに私たちのすぐ前で止まった。この売店とトイレの壁との間に、私達よりも気を引く様な存在などない──こちらに気付いてくれた!
これで助かる。仕事へ行ける──
「チッ!」
「見るな、行くぞ」
そんな早合点を切り捨てるように、妙にハッキリと舌打ちの音が耳朶を直撃した。苛立ちのせいか明らかに間隔を狭めた靴音があっさりと遠ざかって行く。
「フゥ」
──嘘でしょ。
それきり一度も立ち止まることなく、足音はホームへ続く階段の喧騒へと飲まれていった。
まさか、公共の空間で人目もはばからずいちゃ付いているマイノリティなカップルにでも見間違えられたって事……?
きっと漂流者が目の前で舟を逃せば、こんな気分になるんだろう。だがそれよりも心を挫いたのは、こちらが吐き出すべきだった深い安堵の溜息が、目の前の口から吐き出された瞬間だった。
難を逃れたのはこの子の方で、こちらの状況は依然として変わらない。何を要求されているかも分からないまま、いつか痺れを切らしたナイフがこの身体に深々と突き立てられるんだ。それはきっと、文字通り二度と味わえない苦痛なのだろう。
あんなことぼやかなければ良かった。
確かに刺激を求めてはいたが、そういう意味合いじゃないのに──そんな理不尽な後悔に襲われていると、急にそれまで後頭部に覚えていた押し付けられるような圧迫が薄れてきた。それからまるでひびの入った氷が割れるように、じわりじわりと互いの間に再び隙間が生まれ始める。
「え、なんで──」
首の後ろに巻き付いていた腕が下ろされ、それまで鎖骨のくぼみに収まっていた鼻先が圧迫から逃れた。最後に腹下からずっと押し当てられていた切っ先の感覚が消え、とたんに限界を迎えたようにがくりと膝が折れる。
先に地面へぶつかったトートの中身が散らばる音が、妙に遠くで聞こえた。それは気のせいじゃなくて、前のめりに倒れ込もうとする途中の身体が受け止められたからだった。こちらの脇の下へ腕を通す形で、再び互いに抱きあうような体勢に戻っている。どうにか足腰を踏ん張らせて見上げると、上からこちらを覗き込んでいる子の視線とぶつかった。気付いたら空になっていた右の手と同様に、先ほどまでの険しさもそこから放たれる敵愾心のようなものも随分と鳴りを潜めた表情でこちらを伺っている。
「サバ?」
「いや、鯖の弁当じゃないけど……」
私の顔と床の間を往復していたその眼が、弁当の掛け紙でも捉えたのだろうか?突如として魚の名を上げ気味の語尾で呟かれ、思わず通じる筈のない日本語を返してしまう。そんな私にしばらくの間を置いて返ってきたのは、ハの字に曲げた眉と傾げられた首だった。今度こそ身体が密着から解放され、随分久しぶりに己の足を地面へ立てる。
思えばそこでなりふり構わず走り出せば良かった。だが私よりも先に背中を丸め、散らばった荷物を拾い出したその背中になんとなく足を縫われてしまい踏み出すことは叶わなかった。
代わりに──喫緊の恐怖からひとまず解放された反動からなのか、頭の片隅で再び好奇心がむっくりと起き上がっていた。
わざと遠目に飛んでいったモバイルバッテリーを拾いながらさりげなく視線を寄越すと、開いたままのメモパッドをじっと眺めている横顔が目に入った。やがて一瞬、だが確かにその頬が笑みに緩む。
それまで警戒や怒りによって表情全体に落ちていた影が、差し込んだ光に溶けたようだった。
──やっぱり、画になる。
誰かの視線を欠片も意識していない、ただ紙面に視線を落としているだけの所作。それだけでも強烈に、見るものの意識を惹く。その上頬を流れ落ちるサイドの髪束がその表情を絶妙に隠し、見るものの想像力を掻き立たせていた。私がいくら鏡の前で決め顔を作ったところで、そこに働く引力には足元にも及ばないだろう。そこに嫉妬も追い付けない、ある種の諦観すら覚えてしまう自分がいた。
そんな数秒の注視の後、丁寧な手付きでメモが閉じられる。それから財布、パスケース、食べかけのタブレット、身だしなみの道具一式、そしてペンケースと散らばったその中身……と順に拾い上げていくその手先が、クリアファイルから乱雑に散ったパンフレットの1枚を拾い上げた際にもう一度動きを止めた。
やはりじっと何かに見入っていたようだ。しかし段々と驚きに見開かれていく瞳は、メモを眺めていた時の慈しみに細まったそれとは180度意味合いが異なるように映った。
ようやくのことで紙から剥がれた視線がこちらの視線と交錯し、同時にやおら慌てだした手付きでそれまで拾い上げた荷物を次々にトートへ放り込んでいく。こちらが手伝う隙もないまま最後にスマホと何らかの紙を拾い上げ、立ち上がるや否やぶっきらぼうに腕を伸ばしてこちらの胸元へバッグを突っ返してきた。
「あ、ありがと」
急なテンポアップに気圧されつつも持ち手に腕を通しながら、逆の手にしっかりつかまれたままのスマホも受け取るべく手を伸ばす。しかし私の指先が触れるよりも早く一歩を退かれ、その首はただ横に振られるのみだった。
返すつもりはない、ということだろうか。
印籠のように掲げた私のスマホ越しに見える表情は先程と違って、怒りに任せた勢いは感じられなかった。ただ真一文字に結んだ口とじっとこちらを見据える眼光からは、なにか堅い意思のようなものが伺える。
それもあって、単に金目のものを奪う事が目的とは思えなかった。それなら財布も一緒に取られてしかるべきだ。そういえば結局、この子が何を要求してきたのか理解っていない──
「オイラセ」
「へ?」
不意に投げられたその一言に疑問が吹き飛ばされ、喉が勝手に間抜けな声を上げる。知らない国の言葉と決めて掛かった脳みそが、意味を噛み砕けずにただ困惑だけを胸へ運んできた。
「オイラセ!」
苛立ちが混じりにもう一度繰り返され、引っ込められたスマホがパーカーのポケットへと吸い込まれていく。それと入れ替えれるように逆の手で突き付けられたパンフレットを見て、やっとその言葉が頭の中で像を結んだ。
「奥入瀬……行きたいの?」
その表紙を彩るのは渓流の立てる水気に薄く煙る、深い新緑の遊歩道の景色。その上にポップな字体で描かれた地名を声に出すと、目の前の細い顎がこくりと落ちた。
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