第6話『13:18 M2Fニューデイズ横』

 無意識にじりじりと交代していた背中が、ついに壁の冷たい感触を覚えた。

 カーディガンの内ポケットへ押し込んだメモパッドとペンが、反射的に勢いづいた身振りでこすれ合ってカチャカチャと音を立てる。


「あ、や……違うんです」


 ひとまず、何か弁明を──

 自分が他人に対して無遠慮で不審な行いを働いたのは誤解でもなんでもない。というのに頭の中はその一念でいっぱいになった。

 空いている左の掌を胸の前で振って、しどろもどろに取り繕ってみる。しかし自分でも何を否定しているか分からない震え声では、迫りくる邁進を止める事など出来ようもなかった。


「えっと、その……」


 瞬く間にお互いの間に人ひとり通せないほどまで、互いの距離が距離は縮まっていく。それまでずっと向けられていた半眼を僅かに見上げなければいけなくなった。

 ……原因は自分にあるとはいえ、他人に敵意を以て絡まれるなんて何年ぶりだろう。生まれてこの方、終ぞ成長するの事の無かった蚤の心臓。それがバクバクと音を立て、口の中が急速に渇きを訴えてくる。

 迂闊さの代償として怒鳴られるだけならまだマシだ。

 痛いのは嫌だが、一発良いのを貰うくらいは吞み込む気でいる。

 だが通報だけは避けなければならない。この歳で警察沙汰を起こして失職なんて目に遭えば、奇跡的に迎合できた社会に再び復帰できる可能性は限りなく低くなる。

 何か、何か弁解を──


「あ、のっ?!」


 何の算段もないまま開きかけた口はしかし、強かに背中を打ってしまったことで続きを封じられてしまう。私の身体と平行に突き出された下腕で押し込まれるように壁へと衝突し、時間差で背中から伝わった衝撃に息が詰まる。

 痛みや恐怖よりも驚きでじわりと涙が滲んで視界がぼやける。一瞬だけ踵が浮き、声にならなかった息が音も無く肺の奥から絞り出された。


「〇×△×!×△〇×──!」


 余計に荒ぶった声色に比例して速さを増した口の回転は、もはや頭の中で文字にすらなってくれなかった。耳に届く音に近い50音ひらがなへ脳が変換するよりも速く、次の音が矢継ぎ早に襲ってくるからだ。

 単に見ていたことを責められているのか、あるいは返礼に何かを要求されているのかすらもわからない。大声を上げるだけの勇気は出ないまま、走らせる目線と形相だけで限界まで怒らせているその肩越しに助けを求める。しかし時間のせいか通り過ぎる人影はまばらで、更にそのどれもがこちらを一瞥するなりあからさまに歩を速めて過ぎ去っていくばかりだった。

 ああくそ、無関心事なかれ主義万歳ってか。

 そうして必死に目を動かしている内にも聞こえてくるその声に、脳がある程度の周期性を認めたことで、相手が何かを繰り返し主張されている事はかろうじて理解できた。だがいかんせんどんなアクションを起こしていいかすらも見当がつかない以上、このループが終端へ向かう気配はない。

 

 ……フードの隙間からデコルテに落ちる綺麗な栗毛に、晴天下の浅い湖みたいな淡い目の色。

 鼻筋は通ってピンと高く、でも顔つきそのものにはどことなく見慣れた感がある。

 どこかとのハーフなのかな?


 自身に起きたことながら、人間の適応というのは恐ろしい。

 初めは混乱と恐怖一色に染まっていた頭の中も、あまりに状況が変化を見せない事で段々と麻痺していき、いつしか文字通り目と鼻の先に迫った端正な顔立ちを分析し始める程リソースに余裕が生まれていた。

 加えて語気は相変わらずであるものの、話の通じなさに拳を振り上げたりといったアクションを全く見せてこない事も、落ち着きを取り戻すのに一役買ってくれている。

 ──これは、だ。

 下手を打たない限り、危害を加えられることは無さそう。

 そんな高を括って次の一手をゆっくり考えようと思った矢先、それまで絶え間なく向けられていた謎の言語が不意に途切れる。

 それと同時に、かつかつと床を打つひと際高い靴底の音が近づいてきた。辺りを見回しているのか、まばらに重なりながらゆっくりと距離を詰めてくるその音に私よりも早くフードが揺れて、それまで私を射抜いていた眼光が初めて外れる。

 ……制服!

 駅の警備員さんか、あるいは鉄道警察か。それと一拍遅れて音の元へ向けた目に映る、構内をきょろきょろ見回している2人組。

 この状況を抜けるならば、ここしかない。舞い上がった心は急激に冷めていく目の前の表情をしまった。

 意を決して大きく息を吸い込むと同時に、膨らんだ腹先へひたりと何か尖ったものが触れる。


「……ひっ」


 思わず飲み込む息が、喉の浅い所で笛に似た音を立てた。

 みぞおちの辺りに押しあてられていたのは、刃物の先端だった。指止めのついた仰々しいグリップと肉厚の刀身が、少なくとも調理用に鍛造つくられたものではない事を雄弁に物語っている。しかしそれ以上にこちらの恐れを呼び起こしたのは、その切っ先の色だった。明らかに錆とは異なるくすんだ茶色が刃渡りの中ほどまで広がり、天井の光を鈍く反射していた。

 何かに浸したようなその痕跡の正体は握り手の先にある身体、前の開いたパーカーから覗くシャツに点々と広がる同じ色の水玉模様を目にした事で確信に変わる。

 それは以前慣れない自炊で盛大に指先を切った時、袖口に飛び散った汚れと同じ──時間が経って乾いた血の色。

 はったりじゃない。

 この子はもう、一度線を踏み越えている。 

 そう確信した途端、喉の渇きと引き換えのようにじわりと目の端に熱さを覚える。それまでの楽観的な思考が、瞬時に遠い彼方へと吹き飛んでいった。

 とにかく今は、毛の先ほども刺激してはならない。まして無理やり大声で助けを叫ぼうものならその瞬間に、刃先が身体へと沈み込むだろう。

 動くな、と己に強いる必要はなかった。もはや鼻先が触れ合うほどにまで近づいたその表情は微動だにせず、目元に宿す力だけでこちらの全てを制していたからだ。

 ふたりは、まだ気付かないのか。

 早く近くへ来てくれ、こちらに気付いてくれと念を送る頭が、皮肉にも体感の時間を何倍にも引き延ばしていく。

 何もできないせいだろうか。硬直する身体と引き換えのように、五感がひとりでに研ぎ澄まされていった。強く噛みしめていた下唇に覚える血の味を皮切りに、聴覚と触覚は自分だけでなく相手の心臓も早鐘を打っていると教えて来る。瞬きを忘れていた目はこちらを覆うように広がる栗色の髪が、何かの汚れによってところどころ固まっている事を気付かせた。

 そして何よりもわたしの意識を引いたのは、首元あたりから漂っていたオードトワレの奥に別の残り香を認めたことだった。

 普段であればまず、そんなものを嗅ぎ取れるはずがない。だが気のせいや勘違いという言葉で済ませないのは、まるで雑に糊を塗られたように頬へ貼り付く痛んだ毛先を見たせいかもしれない。


 香り、なんていい呼び方はとても出来ない、第三者が鼻にすれば思わず顔が歪む様な異臭──悪臭と呼んで差し支えないそれは、性別からして明らかにこの子のものではない、誰かが遺したの匂いだった。

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