第5話『13:15 M2Fニューデイズ横』
『アパートの焼け跡から親子の遺体。無理心中か』
『男性自宅で刺され重態、同居人行方不明。千束』
『止まらぬ物価高。飲食店倒産過去最多』
生活の合間にスマホへ目をやれば、無数に流れてくるこんなヘッドラインの数々──目にするたびに自分は恵まれていると、つくづく思う。
家族間や交友関係のトラブルはないし、身を置く業界もまだ斜陽の気配に怯えるそぶりは見えない。少しずつ鎌首をもたげつつあるAIの脅威にだって、負けてやるつもりは毛頭ない。そうして抱く気骨は結果へそれなり以上の評価をもたらしてくれて、結果月末ごとに通帳の数字を見て不安に駆られることもない。むしろ長い休みと特別賞与にかこつけて、予算に糸目を付けない旅行の計画を立てる程度には生活に余裕があった。
10年か20年か、ひとまず仰げる限りの未来に悩みや不安は無縁。だがその代償のように、心の弾力が年々失われている気がするのもまた事実だった。
昨日と、先週と、去年と変わらず訪れる朝を、慣れた手つきと貼りつけた表情でいなしてはただ後ろへと押し流していくだけの日々──勿論、そこに笑顔や涙が全く存在しないというわけではない。けれどまるで病に侵されていく心電図のように、少しずつ起伏の高低差が縮まっている実感が年々いや増している。そのせいだろうか、最近は特に手癖だけで仕事を終えてしまう事が増えた気がする。
最後に居ても立っても居られないほど胸が躍ったのは、あるいは震えたのはいつだろう。
動かさない関節や筋肉が凝り固まっていくように、定年で仕事を辞めた途端に認知症が始まるように……人間の身体は年を経るごとに、使っていない部位から衰えていくと聞く。
それは興味関心といったアンテナも同じなんじゃないか。
内容の入ってこないニュースアプリを閉じると、ホーム画面に並ぶアイコンの隙間から鮮やかな赤い着物を纏って肩越しに振り向く視線がこちらを見て一瞬微笑み、やがて消えた。中学の頃に親に連れられて足を運んだ美術館で目にした、私がペンを握るきっかけになった一枚。
紆余曲折の末、油彩画家はなれなかった。だが今でも己の原点としていつでも振り返るように、こうしてスマホへと閉じ込めている。
だが果たして今の私が再びモネを目の当たりにしたところで、あの日と同じようにただ立ち尽くすことが出来るものだろうか。
いつか完全に突き動かされなくなった心の作るものが、果たして誰かを突き動かせるのか──
「……映画でも行こうかな、帰り」
考える程に内側にもくもくと広がっていく黒雲を払うように、わざとらしい独り言を浮かべてトートを開く。比較的しっかりした造りの弁当箱たちを底支えにして、パンフレットは雑に折りたたんで開口部を蓋するように被せておくことにした。肩に提げ直したところで重心の偏りが気になる事もなく、ちいさな頷きをひとつ残して立ち上がる。
『ヘンな話、先の先は見過ぎない』なんてリリックもあったっけ。
遥か山向こうの嵐に怯えて足を止めても仕方がない。ひとまず今完全に筆が止まるような事態はまだ起きていない事を良しとして、この悩みと真剣に向き合うのは今度にしよう。それより今自分が気にすべきは、果たして先輩がまげわっぱと懐石どちらの意匠を気に入ってくれるかだろう。本来の用を成さなかった便座と一緒に、いつものように憂いごとへと蓋を下ろす。
しかしそうしてみたところで、無意識下にある焦りが鳴りを潜めたわけではなかったのだろう。何か変わった事を望む見えない気持ちが、トイレを出たところで目に入ったひとりの立ち姿へと関心を寄せさせた。
──うわ、画になるなぁ。
壁に寄り掛かっているその姿を完全に視界へ入れた後、最初に浮かんだ感想だった。
成人のごく平均的な身長の私と比べ、ゆうに10㎝は大きそうな上背。それをオーバーめに包み込むカモフラのパーカーとサルエルに見紛う程股上の浅いパンツの不似合いさも、何故か不思議とこちらの気を惹きつけるプラスの要素に映っていた。
目深に被ったフードから覗く高い鼻先とサイドから僅かに垂れる自然な風合いをした栗毛の髪。それは瞳の色を見ずとも日本以外の生まれであることを主張している。それでいて旅行鞄の類をいっさい傍らに置いていない事が、内包する物語を更に加速させていた。
街歩きくらいにはどうにか用を足せそうなサイズのリュックを肩に掛け、売店の横の壁へ浅く持たれて天井を見やっている。属性や事情が全く見えない出で立ちは、いかなる素性の推測すらも寄せ付けなかった。こうなれば細い顎先が天を向く角度も両手を突っ込むポケットの膨らみも、ニューデイズとトイレの間にある何の変哲もないただの壁すらも何か深い意味合いがあるように思えてしまう。
……いいね。キャプション入れるなら、目線の延長線上に縦書きで。
気付けば私は空いた両手で枠を作って、その姿を囲い込んでいた。揃えた4本の指と垂直に立てた親指、両手で同じ形を作って上下表裏逆にして縦長の長方形を象り、キャンバスへ転写するイメージを練り上げていく。
画家を志していた頃からの癖だ。勿論スマホのカメラに収めてしまうのが一番でっとり早いのだが、流石に躊躇いなく盗撮に走る程芸術に正気を焼かれてはいない。しかしこれならシャッター音も鳴らない上に証拠も残らない。進路を画家からデザイナーに変えたところで、頭へ置きっぱなしのキャンバスへ画角を考えてしまう衝動だけは抜けきらなかった。
「おぉ……」
きっとさっきのトイレで、カミーユと視線を合わせてしまったのも良くなかったのだろう。我ながら傍から聴いていれば喜色悪い事この上ない感嘆を口の端から漏らしながら、フードの影に隠れたその尊顔をどうにか拝めないものかと、対岸の壁まで距離を取りつつ指を構えたままじりじり角度を変えていく。
「え、う゛ぅ!」
決まった画角に懐のペンへと手を伸ばしたところで突然向けられたのは、警戒いっぱいの恫喝とも怪獣の奇声ともとれるような甲高い声だった。
……しまった。周りに人がいないからってじろじろ見過ぎたか。
少しずつ左へとにじる爪先でようやく捉えたやや垂れ目の瞳も手伝って、ようやくその性別がはっきりした──なんて言っている場合じゃない。
いくら痕跡が残らないとはいえ、張本人に気付かれれば話は別だ。
さあっと血の引く様な寒気と入れ替わるように、一瞬にして憂いから険しい形へと変わった顔つきが粗い足取りと共に近づいてくる。
向けられた明らかに日本語ではないその発音で、私に何を伝えたかったのかは見当もつかない。しかし少なくとも好意を向けられている訳ではないという事は、声の荒げ方と怒らせて迫りくるその両肩が雄弁に物語っていた。
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