第4話『13:12 M2Fニューデイズ横 トイレ内』

『とにかく、午後の予定は無くなったんでゆっくり出勤てきて大丈夫だからね。何なら休んでもいいし』

「わかりました。お昼ごはん買って一応顔出します」


 結局はまたも申し訳のなさが先行する形で、電話越しの一例を最後に通話を終える。

 お礼とお詫びを兼ねて、何か差し入れでも買って行こう。半端な義理堅さが脚を改札から遠ざけ、目線を構内へと巡らせる。

 すると中央改札を隔てた先に、コンビニエンスストアのそれが見せる統一感とは良い意味合いで真逆の、個性豊かな弁当の数々がショーケースに収められているのが目に入った。   

 ……駅弁か、いいかも?

 とうにランチタイムは過ぎているが、先輩は決まって昼休憩を夕方に取る。朝が弱いスロースターターである自分にとって、正午の食事はせっかく出始めた仕事のリズムを止められる悪習でしかない……とは本人の弁だった。

 その上に珍しもの好きの彼女の事だ。オフィスの周りじゃ手に入らない小洒落た弁当を献上する──そんな気の利く可愛い後輩を前にすればさっきの失策など、日々焼かせてしまっている世話ごとひっくるめてもお釣りが来くる事だろう。


「すみません、これと……これを」


 碌にスマホで調べる事もなく、売れ筋と書かれたポップを頼りに、かつ売り切れ間近な弁当を指差して伝える。

 あくまで贈答がメインだ。自分が何かを食べたいという希望があって選ぶわけではない。ならば手軽に付加価値を底上げしてくれる希少さだけを物差しにすれば間違いないし、あれこれ悩む時間のロスも最小限で済む。

 そんな判断基準をもとIC決済の軽い音と引き換えに包まれ手渡されたのは、を模した容器に詰められたすき焼き丼。そして雑に手に取ったこちらが申し訳なくなるほど大仰なお題目が蓋に書かれた、長方形の懐石然とした弁当箱だった。


「お待たせいたしました」


 時分よりふた回りは人生の年輪を重ねていそうな女性の溌溂とした声に、思わず頭を下げながら袋を受け取る。丁寧にそれぞれを包んでくれたのは有難いが、通勤の途中である手前両手が塞がってしまうのはいただけなかった。

 整頓すればトートに入るだろうか。前髪を直すついでもあってトイレに脚を向け、丁度ひとつ開いていた個室に腰を下ろして鍵を掛ける。


「うわぁ」


 袋の持ち手と一緒に握っていたクレジットの控えをしまおうとして、思わず声が漏れてしまった。

 単なる平日の昼食にしてはかなりの──さっき思い浮かべた献上という単語が、半ば冗談の域を飛び越えてしまう程度には──大奮発を決めたことになる。片方は自分で食べるのだから、これだけ払うのだったらもう少し悩めば良かった……と、今更ながらに後悔の念が浮かんできた。

 ぼさっと払う金額じゃないよ、これ。

 別に無駄遣いを一切禁じる程困窮しているわけでもなければ、口へ運ぶグルメへの妥協を悔やんでいる訳でもない。

 駅弁を買って食べるという些細な、しかし紛れもない非日常。僅かに外れたルーティンを、さしたる情動を抱けないままにさらりと消化してしまった、そんな己の感性に対する叱責だった。

 


 無感動。



 20代を折り返してから薄っすらと知覚し始めたその欠落は、時を経るごとに胃の底で重みを増している。

 一応『クリエイティブな』仕事に従事しているものの端くれとして、その悩みは今やどうにも見て見ぬ振りの出来ないほどに大きくなっていた。

 日々に不安も不満もなく、同時に感激も感動もない。ひたすらに低空飛行な感情を抱く日々……聞く人が聞けば「何を贅沢な」と吐き捨てられるだろう。自覚はあるし、屋根の下で飢えず凍えず眠れる夜への感謝も忘れたことは無いつもりだ。

 中流と上流の合間にあるような家庭に生まれ、『この歳にはありがちなこと』の範疇を一度も出ない衝突と幸福を繰り返して大きくなり、希望に沿った進路の先で就職を恙なく済ませてわたしは今に至っている──こんな幾度読んでも目が滑るような文章で語れてしまうような半生は、皮肉にも大きな躓きもない順調さをこの上なく言い表している気がした。

 そうして今身を置いている会社には繁忙期こそあるものの、やれデスマーチだの泊まり込みだのといったものとは一切縁がない。それどころか逆に溜まった有給を消化しない事を指摘されるような環境とあれば、職場の誰ひとりとっても必要以上に追い詰められている場面など見た試しがなかった。

 勿論仕事である以上一定の結果は求められるので、個人的なスランプとかはあるのかもしれない。だが誰かがそんな状況に陥れば、すぐさま上下の立場問わず一丸となって解法を模索するのが通例となっている。だから部署内の人間関係に不要な波風はまず立たない。

 親世代の言葉遣いを借りると、こんな社風を『全員野球』と呼ぶらしい。水の合わない人間はこれを時代遅れだ、暑苦しいと蔑んで離れていった。だが私にとってはさして不快なものではなく、転職の理由になり得るほどのものではなかった。

 全ては寝て起きたら忘れているような、遠慮と我慢の範囲内──今直面しているデザインの難航にしても同じ話だ。

 確かに話は通じず依頼はふわふわしていて、難物といっていい類の依頼ではある。だがオファーを受けて2週間経った今、まるっきりお手上げという諦めの心もなければ手詰まりにペンが止まっているわけでもなかった。普段より若干蛇口の締まりこそきついものの、アイデア自体は寝て起きるたび雨垂れの如くぽつりぽつりと出力されてはいる。


「……はぁ」


 膝の上でバッグの底を直しながら、天井を仰ぐ。透明度の低いプラスチックのカバーに覆われたLEDの昼白光が、その輪郭をどこまでもおぼろげにして私を見下ろしていた。

 ──単純な経験則だ。

 今までもっと困難な場面に幾度も直面している。その度ギリギリまで絞り出した自分の努力と誰かの助け船で切り抜けられてきた。

 だから今回もどうせその内に、んだろうな。

 誰の眼にも明らかな失敗さえしなければたとえそれが成功とは呼べないような結果であれ、案外角を立てずに事を回してくれる。

 年季と共に積み上げた経験値は、それだけ焦りを遠ざけてくれる。だが同時に右も左も見えていなかった時分に覚えていた、逆境ほど燃えるような反骨の心持ちも奪っていった。

 こちらへ伝えてくる完成形のイメージが曖昧であればあるだけ、往々にしてクライアントの頭の中にもまだ確たる正解が固まっていない事を意味している。

 今回も大方同じケースだろう。依頼者である年若いイベンターだかオーガナイザーの顔を思い出す。ベンチャー?スタートアップ?呼び方は知らないが、とかく年輪を重ねず急成長する会社の特徴として、結論を結ばないまま勢いで走り出す事が多い印象があった。

 こういう場合の立ち回り方も重ねるキャリアと共に教わり、あるいは自力で練り上げて来た。万人向けのアイデアをちょっとだけ捻って、その変わり目を耳障りの良いことば達で際立たせてやる。あたかもそれが依頼者の脳内に、初めから浮かべてはいたがこちらへ向ける言葉に出来なかった『独創的な正解』であるかのように誤認させてやればいい。

 教えてくれた元先輩は自嘲気味に『逆モンタージュ』なんて呼んでいたっけ。

 相手を気持ちの良い納得へと誘導するのは、デザインの良し悪しよりも口の上手さだ──業界に入るまでは考えもしなかった現実は、小さくない失望と人生の円滑さを私へと供してくれた。ここで生きていく事は思ったよりも簡単で、思ったよりもつまらない。


「あぁ、退屈なんだな」


 薄い合板パネルで外界と隔たれた四角い檻の中。

 前にして灯りを見上げたまま僅かな放心を挟んだ私の口から、短いぼやきが滑り落ちていった。

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