第2話『15:57 1号車デッキ・洋式トイレ内』

「待って、大丈夫だから」


 伝わる筈の無い日本語と共に、意識を制するように掌をを顔の前へ立ててやる。

 ゆっくりと息を吸って吐いてみせ──もう、あらゆる意味で急な呼吸すら許されないと思った──緩慢この上ない動きでトートからメモ帳とペンを取り出す。その一連のアクションの内どれが功を奏したかは分からない。だがテーブルにメモを広げるまでの間、ひとまず肋骨の間をナイフが通り抜ける事は無かった。

 小刻みに震える手でボールペンをノックし、こちらの手元と顔を行ったり来たりする視線に急かされる思いの中、どうにかペン先を走らせていく。筆を置くまではものの数十秒だったが、心の摩耗具合がその体感を数十倍に引き延ばしていた。それまでに決壊を迎えてしまわなかった事だけが、この上ない不幸中の幸いだった。


「頼むよ、もう無理だって!」


 A6の紙面一杯に広がるのは、限界にまで簡略化された洋式トイレのイラスト。顔の前に突き付けてやったそれに、穴が開くんじゃないかと思うくらい激しく人差し指の先を何度も押しあててやる。それはもはや目の前の子に対する懇願というより、いもしない神にでも祈るような心地に近かった。


「……ム」


 しかしそこに滲んでいた必死さのおかげか、向けられていた目が大きく丸まった。そこには少なくとも敵愾心がいや増したような様子はない。ようやく何かに気付いたという驚き。反射というか表情の変わりようというのは、たとえ海を跨いだところでそこまで齟齬は生じないのかも……という発見はもうどうでもいい。それは後々大いに活かすことにするから今はとにかく早くしてくれ。


「ン」


 付け加えた願いもクリアに通じてくれたようで、脇腹が軽く鋭い圧迫から解放される。果たして私の胸下を覆っていたジャケットは除かれ、恐らくナイフを包まれて座席の下へと追いやられた。そこへ微かに見え始めた希望を前にして、気持ちと膀胱が一気に急き立てられる。だがここで慌てた動きを見せて刺激すれば元の木阿弥だ。

 出方を伺って見上げる目に、先に立ち上がった子の小さな頷きが映った。

 それまでナイフを握っていた右の手が、私の腕を取って立ち上がらせる。そのまま歩き出したということは、トイレまで一緒についていく気だろう。狙いとしては逃亡や通報を防ぐためだろう。だがそこに乱暴さは感じられず、それよりもむしろ急速な動きでこちらの下半身に掛かる負担を気に掛けてくれているような慎重さが伺えた。


「あ、ありがと……」


 開いていたトイレのドアを通り抜け、解放された腕を引きつつ礼を述べる。これまでのやり取りを鑑みるに、こんな単純な日本語も伝わるかどうかは大いに疑わしい。だが扉が閉じる前に見えたその子の顔には不理解や疑問といった濁りは窺えず、ただ幾分険の取れた表情のまま、ふたたびこちらへ小さく頷きを返してくれていた。


「ふー……」

 

 トイレの鍵が掛かり、私とその子の間に明らかな分断が生まれる。その隔たりは思っていたよりも小さな安堵と、それよりずっと大きな疑問をもたらしてきた。

 

 ──やっぱり、悪い子ではなさそうなんだけどな。

 

 新しい新幹線は、もはやトイレの時すら揺れを気にする必要が無くなっていた。

 余裕の生まれた思考の片隅で感心を覚えつつじっくりと腰を下ろし、やがて訪れた数時間ぶりの解放感に包まれながらしばらくの間天井を見上げる。

 あと1時間ほどで、列車は盛岡へと到着する。

 だが乗り込む前、あの子が指し示していた目的地は更に先だった。つまりは新幹線を降りたところで自由になれるわけでもなく、そこから更に先へ進むルートを考える必要がある。

 17時──北の秋ともなれば空に昏みも掛かる頃合い。そこから人の多い所へと向かうのならば、全く問題にならないような時間だろう。しかし私達が向かうのは、観光地といっても人の手をなるべく入れないように配慮されているような場所だった。

 交通の利便は人の多さと生活の根差し具合に比例する。そのどちらも望めないようなところへ、果たして今日中に辿り着けるかどうか……改めて切符を買うにしろ諦めて宿を取るにしろ、今まで以上の困難が待ち受けているのは明白だった。

 こうなるとつくづく、スマホを取り上げられているのが痛い。

 普段便利文明に浸かっている他人をどこか斜に見ながら生きている自覚はあった。だがいざ手元から無くなった今、自分こそ普段からどれだけ依存していたかを思い知らされている。

 その場で見られる経路案内もないし、ホテルの予約もできない……何より、してくれるものが無い。

 あの子がこの数分で見せた、表情の目まぐるしさを思い出す。腕を掴まれた当初よりも恐怖や脅威は鳴りを潜めているものの、この先こちらの身体に被害が及ぶ可能性がゼロになったわけではない。

 実際にさっきは危なかった。あと一手でもひらめきが遅ければ、己の身体が血の海に横たわっていても全く不思議ではなかった。

 『悪人ではない事』と『悪事を働く事に躊躇いが無い』事は必ずしもノットイコールではない。さっきは見えなかったが、改札で突き付けられた刀身のがそれを証明していた。

 ……芸は身を助く、とは良く言ったものだ。

 カーディガンの浅いポケットから覗く、ペンの挟まったリングメモ。開いたままのページにはさっき描き殴った──改めて見ると我ながらよく伝わったなと感心する程、雑な洋式便座のイラストが見えていた。

 他に目立った取り柄もなければ、人との交流も得意とは言えない。決して自虐ではなく、あくまで二十何年と客観的に分析した自己評価だ。そんな自分がどうにか会社に務められ、社会人として特段不自由のない日々を謳歌できているのは偏にこれのお陰だと日々感謝は抱いていたが……まさか、こんな即物的に命を助けてまでくれるとは。


 ──あ、そうだ。会社で思い出した。

 スマホ無いから会社へ有給も申請できないや。

 これで今季の皆勤ボーナスはおじゃんか。立ち上がりベルトを締めながらふと思いついた、ある意味で最も大きな弊害。

 いや、そこは先に通報だろうという自己指摘セルフツッコミが浮かんだのは、それから一拍後のことだった。

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