短編『オイラセ』~壁を隔てて「ああ退屈だ」と嘆く~

三ケ日 桐生

第1話『15:45 2号車・2E席』

 『杜の都を出た』というアナウンスを受けて、ふと窓に目を向けた。


 輪郭を曲げて後ろに流れゆくのは、人の手で造られた直線と自然が織り成す曲線が描く街並みのすがた。しばらく眺めてやっと、景色に占めるそのバランスがいつの間にか逆転している事に気付いた。

 ずいぶん遠くへ来てしまったものだ。

 目線を上げて彼方へ向ければ秋色に萌え──ではなく、燃え始めた山々が広がっている。ほんの2時間前までは紅葉なんてものとは無縁な都市の中心に立っていたことを思うと、柄にもなく技術の進歩なんてものに感心……を通り越して、どこかうすら寒いような思いを馳せてしまう自分がいた。

 十数年ぶりに乗る新幹線はその真新しい車体の性能をいかんなく発揮し、高速移動の代償である騒音やレールの継ぎ目を跨ぐ振動を殆ど意識させるもことない。ただ駅からの走り出しと駅へと滑り込むときの、のっぺりと身体へ掛かる重力。それだけを以て今まで身体が猛スピードで移動していた事を伝えてくる。これがまた余計に、自分が時速云百キロで移動していたという事実の不可思議さいや増していた。

 『便利さ』という尺度は自分の状況における急激な変化を、どれだけ意識させずその感覚をに縛り付けられるかを指すものなのかもしれない。だとすると感情の揺らぎそのものを表わす感動とか、そういった情動の類とは対極をなすものだ。そう思うと己の商売柄、あまり歓迎できるものではなかった。

 とはいっても──気を取り直して黄から紅へ変えていく斜面と、そこへ未練のように転々と残る緑を望む。東京で見上げるそれとは深みの違う空の蒼もまた、気の早い夕方にその身を薄暮へと無段階的に染めていた。

 天地が織り成すグラデーションとコントラスト。

 うん、大丈夫大丈夫。

 眺めるだけでも、まだまだ心は躍る……半ば言い聞かせるような感想を胸に広げる。だがものの5分もしない内に己の『感動曲線』は見事なフラットライナーの様相を呈し、無味乾燥な飽きがすっかり心を占めていった。

 そうして覚えるのは、遠くない未来に訪れるであろう商売あがったりの予感。軽い溜息で見ないふりして、四角い窓から目を外す。それまで自分の座席と結んでいた視線をずらしたことで目に入ったのは、すっかり食べ終えて空になった弁当箱と飲みかけのお茶が鎮座する折りたたみテーブルが。そして自分と窓の間にあるもうもうひとつの席を陣取る主の頭だった。

 何度目にしても身丈に合わないという印象しか抱けない、アイボリー無地のパーカー。そのフードをすっぽりと被り込んだ後頭部はその位置も角度も、東京を出た時と全くといっていい程に変化が無い。

 蓋に書いてある文字に異常な関心を示した弁当を平らげるまでの僅かな時間を除いて、飽きもせず外を眺めていたようだった。

 ならばこの子は今、私よりもよっぽど深い感動の最中に居るのだろう。そこへ重ねる年齢と一緒に失ってきた何かがあるような気がして、少しばかりの羨ましさを覚える──と同時に、退屈を退けた意識は余計なモノまで蘇らせていた。


 ……うん、そろそろ限界かも。


 もぞもぞと身をよじり、意を決して辺りを見回す。間を保たせるためとはいえ、余計にお茶を飲み過ぎたか。平日の午後、各駅停車の新幹線はニュースで取り上げられる時期のそれと正反対と言っていいくらいの空き具合で、自由席であるにもかかわらずこの車両に至っては殆ど貸し切り状態だった。この分であればデッキに設えられているトイレにも順番待ちなぞ存在しないだろう。加えて席は通路側、本来であれば立ち上がるのに何の遠慮も必要ないのだが……


「ねぇ、ちょっと」


 普段通りに話しかけたとしても、それで誰かに聞かれるはずはない。

 分かってはいつつもつい潜めてしまった呼びかけに、一瞬遅れてフードのシルエットが動いた。ずっとこちらを向いていたその背中がゆっくりと背もたれへ戻り、最後に私の持つそれよりもずいぶんと薄く透き通った光彩が顔を捉えて来た。

 電車に乗る前に抱いていた緊張がありありと蘇り、尿意に反して口の中が一気に乾いていく。向けられたのはそれまで美しい風景に心を奪われていた子のものとは思えない程、険しく猜疑さいぎに満ちた瞳と表情だった。鼻から上だけを見れば、眼鏡を探して部屋中を睨む末きょうだいの顔と同じようなものなのだが……都合よく可愛げと見るには、いかんせん今置かれている状況が許してくれない。


「……トイレ、いい?」


 一拍唾を呑んでからついに請うてみた許しにも、向けられている首が浅くその角度を変えるばかり。付随する言葉はなくとも、その変化の無さに快諾されていないという事だけは伝わってくる。

 初めから半ば無駄とは分かっていたとしても、押し寄せる尿意はだんだんと抱く恐怖にも勝る苛立ちを運んできていた。


「トイレ、えーっと……ウォータークローゼット、だっけ」


 頭の片隅から埃の被った高校英語の知識を引っ張り出してみたものの、フードの内側にあるその眉間の余計深い皺が刻まれて終わる。

 ああ、だめだこれ、伝わってない。

 英語圏の人間ではない事は、出会ってすぐわかっていたじゃないか。なぜか抱く気恥ずかしさが苛立ちを加速させ、急く心がつい腰を浮かせてしまう。


「!!」


 瞬間、火が点いたようにその顔へと赤みが走った。

 それが間違った選択だったと悔やむ間すら与えらず、それまでひざ掛け代わりにしていたカモフラのジャケットをばさりと乱暴に投げられる。

 視界の下半分が覆われ、それと同時に鞄に手を伸ばして屈んだその子の顔が消えた。

 心臓が、ぎゅんと収縮する。

 舞ったジャケットが私の胸元から下腹へ被さると同時に、その下で左の脇腹へ鋭く研ぎ澄まされた金属の先端が押し当てられていた。

 僅かに裂かれた繊維越しに伝わる冷たさで、一瞬にして思考がハングアップしてしまう。伴ってすっかり硬直してしまった身体が、意識とは無関係にずるずるとシートへ沈んでいった。そんな醜態を見て一拍深い息を吐いたその子が、精一杯に低くして潜めた声で口早に何かを告げて来る。


 ──今、何て言った?……ぬ、『ヌブ、ジュプ』?


 怒らせた肩を戻すのと一緒に鋭く向けられたそのことばには、やはり理解が及ばない。あらゆる意味で差し迫った局面とは裏腹に、頭の中ではクトゥルフ神話に出てくる神様みたいな何かが描かれていた。当然そんなものが救いになることは無く、このまま動かずにいて社会的な、あるいは無理やり立ち上がって肉体的な大怪我を負うかの2択である状況に変化はない。

 ……どうする、どうする。

 睨みつけてくる薄青の視線から外れられないまま、頭の中だけを必死に掻きまわす。思わず連動して泳いだ目の端に、口を開いたままのバックから覗くリングメモが映り込んだ。

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