第1話 (7)

(すごいなあ……)

 手を見ていた。自分の目の前でくるくるとよく動くその白い手は、たちまち少年の目の前で鶴やら何やらをつくりあげてしまう。瞬きをする間も惜しまれる。大昔、この礎国(そのくに)が隣国李の一州にすぎなかったとき、李の商人が伝えた折り紙という綺麗な模様のそれは、少女の手の中で自在に形を変える。

「はいできたっ」

 少女は微笑んで、フィオルに花のような形のものを手渡した。幼いフィオルはそれの名前を知らなかったけれど、手に取ると姉がふわりと笑うのがうれしくて、大切に抱きしめる。すると姉は得意そうに胸を反らして手を合わせる。「もっとすごいのも、つくれるよ」とまたひとつ、今度は灰桜色の薄紙を手に取った。

 さながら姉はその名に違わぬ蝶のようだと思う。そんなことを考えているうちに、姉は既に次の形を作り終わっていた。ぽい、とそれを宙に投げる。まぶしい陽光が開け放した戸から差し込んできて、流れてきた風に折り紙はふわりと包まれる。どうやらそれは蝶の形か何かで、夏風の前には拙く翻弄されるだけに思える。

 だが──目を凝らす。瞬間ひらりと蝶の羽根が震えた。フィオルは息を飲む。間違いではない。二、三回羽ばたいて、また息を飲めば、けれども途端に羽ばたきはとまりそれはひゅるりと姉の手の中へ落ちてくる。

 あーあ、と吐息する姉は少しがっかりしているようだ。しかし覗き込むフィオルに気づいたのか、またふんわりとわらった。

「きょうは、あんまり飛ばなかったのだわ……」

 アゲハ姉様、とフィオルは彼女の手をとる。その姉は一瞬、びっくりしたようにもともと丸い瞳をさらに丸くさせて、フィオルのその手に自分の左手を重ねる。

「……ひみつ」

 ちいさく呟かれたことば。分からないような表情をしているフィオルに、姉は落ちた蝶の片羽根をそっと指で撫でて見せる。すると蝶は彼女の手の中で静かにもう一度羽ばたく。まるで意思を持ったようなそれに、フィオルははっとして姉を見た。

(……あ)

 彼女はたぶん見せたことがなかったのだ。先刻の彼女の言葉は、つまりそういうことだったのだ。

「しんぎみたい!」

 はしゃぐフィオルの柘榴色の瞳には一点の曇りもない。神技、という言葉に姉はうれしそうに微笑んだ。「……じゃあもっとすごいの見せたげる」立ち上がる。途端に彼女の長い袖が邪魔して、板張りの床でつるんと転んでしまったけれど。赤い帯状布がよく映える、浅葱色の水干のようなそれ。どういうわけか、小さな彼女にはいちばん小さな大きさのものでもぶかぶかだ。フィオルは既に立ち上がり、二回程もつれて転ぶ姉をじっと見ていた。

「はい」

「ねえさま?」

「いこうか」

 ようやく立ち上がったのに、ずんずんおのれの前を行く姉。貴志兄様に許可をとらなくていいのですか、とフィオルが尋ねたときには、もう手を引かれている。

「あ、わ」「いってきますう!」

 と彼女が大きな声で告げたのは、門をあともう少しで出てしまうというところであった。

 その駆け出す力は大きく、その体躯のどこにと思うほど速い。二つ幼少のフィオルは半ば引きずられるようになってしまう。すぐに世話係の能がひめさま、と追いかけてくるけれども今更だ。彼女はあっかんべえをしながら駆けていく。とうとう能は追いかけることを諦めたのか、大声で叫んだ。

「逢魔が時までには、もどってきてくださいねえ!」

 それに、彼女も負けじと、はあい、と叫び返す。

 そんなこんなで、やたらともだもだしながら彼女はフィオルを川の畔まで連れてきた。

「みててね!」

 言いながら彼女は水面をぱしゃんと叩く。数多のしずくが空に放たれる。それらは夏の陽光を受けて虹色に煌(きらめ)き、それを包み込むように彼女は手を翳(かざ)す。

 包まれた無数のしずくたちは、彼女が手を開けたと同時に一つの形となって宙に浮いた。それを幾度か繰り返すうちに、水は形を成して、ものへと変化する。あるいは扇子ようなもの、あるいは舟のようなもの──気づけば、ただ空の色を反射していただけの水面は、フィオルが今まで見たこともない不思議な景色へと変わっていた。

 そのうち彼女はしずくたちをたくさん集めて、さらに大きなかたまりを作り出す。「……ねえさま」袖を引く。姉はにこにこ頷いて、その両手を大きく広げた。水のかたまりは既に彼らの頭上で大きく居座っている。

 続いて彼女は片手にかたまりを預けるような体勢をとり、くるりと手首を回す。真水色をしたしずくの集合体は、もう一回りくらい大きく膨らんでいる。

 しかし。

「姉様はなれて!」

 途端そんなフィオルの声がきこえて、アゲハは不思議そうに彼の柘榴色の瞳を見つめた。とフィオルは殆ど泣きそうな表情でアゲハを見つめ返す。「どうしたの」そう問いかけようとした時、アゲハはふとおのれの手にかかる暗い影を見る。空はあんなに晴れていたのに。

(きゅうに)

 曇ってしまったのだろうか。だがその問いに、アゲハは即座に否と示すことができた。彼女らに暗い影を落としているのものは。

(そらのいろ、の、)

 それは、彼女が生み出した、水のかたまり。

 それはアゲハの手に収まっていたはずだったのに、今やひとつの空を埋め尽くすほど大きく成長していた。形を持たないそいつは、ちょうど彼女の頭上で今にも耐えきれず、破裂して落ちそうな、そんな不穏な空気を纏わせてぶくぶくと動く。アゲハは、元に戻す術を知らない──そして大きな水の玉が落下するまで、きっとさほど時間もない。

 と、それが一気に膨らみ出す。ふしぎなちからを持つ、小さくて、ふわふわした少女は、恐怖に目を見開く。

(わたし)

 しんじゃうかな。

 目を瞑った。

 瞬間ぱしゃんと水滴の音が聞こえて、彼女は背中にどんという衝撃を受ける。きっと自分は水を大量にかぶって、溺れてしまっているのだろう。もう一度翁村に行きたかったなあなんて考えて、手を伸ばす。

 ところが一向に息が詰まるような感覚がない。彼女はふと目をあけた。途端に射し込んできた光は、網膜が焼けると思われるほど、眩しい。いつの間にか、あんなに大きく空を占めていたしずくの集合体はない。

(……え、)

 ぐわんと頭が回る。視界がへろっと歪む。

 嫌な予感が彼女の胸中をぐるぐる掻き乱していた。──恐る恐る、後方を振り返る。

「……ぅ、ぁ、」

 そこには、かたく目を閉じた、紛れもない弟のからだ。

 姉に似て、くるくるとよく動く瞳のかわいらしい、小さなこども。彼女のまほうのちからをこわがるどころか、もっと見たいとか、すごいとか、その小さな唇で紡いでいた少年が、おかしいくらい静かに、ただそこにいる。否、黙りこくったまま水の中に溺れていた。「なんで?」あの場所にそのままいたら、フィオルは溺れないはずなのに。「フィオ?」声にならない疑問は虚しく、水さえ受け止めてはくれない。

(おかしいよ)

 ふと背中の衝撃を思い出す。

(もしかし、て)

 あ、と声が漏れた。気づいてしまった。

 あの時どん、と背中に感じた衝撃はフィオがアゲハを突き飛ばすそれ。フィオは彼女を庇おうとしたのだ。

 動かない弟に、彼女は必死に語りかける。

「ねえフィオ、おきてよう、わたしだよアゲハねえさまだよ」

 一緒にお菓子たべよう、ねえ。

 だが当然のことながら、その声は彼に届くはずもなく、その目はアゲハを映さない。邸までおぶろうとしたけれど、おぶるような力はまだアゲハにはあるはずもない。そうしているうちに弟のからだはどんどん冷たくなっていく。

「……たすけて」

 弟の袖をぎゅうと握って、アゲハは何もできない自分を疎む。空を、仰いだ。

「……ごめん、なさ、……」

 懺悔は何の意味も持たないことは、いまの彼女がいちばんよく知っているのに。

 ふとそのとき、アゲハさまフィオルさま、とひどく聞きなれた声がして、振り返る。能がそこに立っていた。

「ひめさま」

「ごめん、なさい、わたしの、せい、なの」

 だけど、フィオを、たすけて。

 泣きそうな顔で能に縋る彼女はひどく痛々しい。反射で能は彼女を抱きしめそうになるが、それをぐっと堪える。彼女の手を引いてから、冷たいフィオルをおぶって一心に邸を目指す。ごめんなさい、と彼女はちいさく呟いた。その姿、拙い手の、項垂れてうつむいたままの彼女は、紛れもない、幼く無力な少女にすぎない。

(この子を一体誰が責められるだろうか)

 けれど、それは彼が決めることではない。言い知れぬ不安を具現化するように、あんなに青かった空は今度こそ灰色の雲に覆われかけている。

 どれくらい時間が経っただろうか。アゲハの息も切れ切れになったとき、ようやく紅氏海瀬の邸の門前に着いた。ひゅう、と吹く低くて冷たい風が、アゲハがここに立つのを拒んでいるように思われて、能は知らずのうちに彼女の片手を強く握る。いたいよ能、と細い声にハッとして、彼は彼女の手を放した。

「殿はおられまするか」

 彼の太い声が邸中に響き渡る。だが生憎、殿──惣領巳は宮中の用で出仕しているらしかった。ぱたぱたと、この嫌に渇いた空気に反して軽快な音が聞こえてきた。「どうしたのですか?」にょきり、と覗かせたのは端正のな顔立ちの女性である。諱は明水(あけみ)、仮名を樹(じゅ)、紅氏海瀬一門惣領の後添えにして正室だ。

 おかえりなさい、と彼女はいつものように能に笑いかけた。「どうせまたアゲハがフィオルとやんちゃをしたのでしょう?」そう口許を上品に袖で隠しながら。だが能は何も言わない。最初は言葉を考えているのだろうと樹は思った。けれど、彼女となるべく視線を合わせないようにしているのが分かると、樹はさすがに不審に思い、彼らのそばに寄る。

「ごめん、ごめんなさい、ごめ、……」

 途端、アゲハがその場にへたりこむ。樹は状況が読めず、驚いてアゲハのもとへ駆け寄り、しゃがむ。アゲハは何も答えない。ただ、わたしのせいでごめんなさいと、呪詛のように叫ぶだけだ。能はおずおずと背中のフィオルを見やる。そのぐったりしたフィオルの表情、触れたらそらに消滅してしまいそうな儚さ、そしてアゲハの、いつまでもごめんなさいと謝り続ける蒼白な顔、それがすべてだった。

 パン、と乾いた音がした。

「どうして! どうしてフィオルなの……そなたは!  この子に何かあったら、どうするつもりですか!」

「……奥方さま」

「能、お前という者がついていながら、だから私は嫌だったのです、あの娘は忌むべきもの、この子に何かあったら」「奥方さま!」

 取り乱して叫ぶ樹の肩を、様子を見にきたらしい黄津が掴む。ハッとして樹は我に還る。だが既にアゲハは耳を塞いで蹲っている。誰も彼もが目をそらした。黄津を除いては。

(不和が)

 黄津はそっと目を閉じる。分かっていたこととはいえ、貴志の場合とは違う。誰がどう擁護しようとも覆せない、それは事実だった。

 ふるり、と横でアゲハが震える。寒さからではないだろう。むしろ今日は、どちらかといえば暑い部類に入る日だった。にも関わらずアゲハは、いっそうぶるぶると震えだす。「……あ」ああぁ。吐き出されたその息は、まるで喉から空気を絞り出すようだ。瞳や肌が色を失って、まるで呪詛を吐くように、どす黒い願いを吐くように、つぶやく。

 ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい許してごめんなさいおねがい、ごめんなさい、ごめんなさい。

 きいているこちらが耳を塞ぎたくなるような、息が詰まるような感覚が黄津たちを襲う。触れることさえも躊躇われる。それは空気をも飲み込む異常さだった。彼女は。

(……っ)

 誰の目にも、それは。

 異変に気づいた貴志がそこにやってくるまで、彼らはずっと黙ったままだった。

 黄津と能がフィオルを別室に運んでいるとき、貴志はアゲハと共にあった。相変わらず呪詛を吐き出す少女の元に片膝をつき、ゆるく抱きしめる。もちろんそれくらいのことで、くずれてしまった幼い少女は元には戻らない。だが、と貴志は思う。

(いくらか)

 彼女への風がやさしくなる一助になるのならば。

 そうしてふわりと次の風が少女の袖を揺らすとき、ぴたりとアゲハは動きを止めた。そろそろと耳から手をどけ、許しを請うように少しずつ顔を上げる。

 貴志は無言で少女の髪を撫でた。微かなかすみ草の匂いがかれの鼻腔をくすぐる。「に、い、さ、ま」つぶやく少女の声は弱く小さい。

 目を閉じた。アゲハと貴志の仲は、到底良好とは言い難かった。それなのに、ひどくさみしげでか弱いそれに、貴志は一瞬狼狽してから、しかし、それを見せぬようにまた彼女を抱き寄せる。普段の貴志であればそんなことはしないのに、そして、彼女もそんなことは望まないのに。

(調子が狂う)

 こんな時なのに、否、こんな時だからこそ、そんなことを考えた。

 そのままそうしているうちに、彼女は疲れていたのだろう、貴志の胸板に頭を預けた。貴志はそんな彼女を両腕で抱き上げて、彼女の閨へ向かう。驚くほど華奢な体躯、まるで感じられない体重の、けれど確かにそこにある少女の存在。それが急に揺らぎ始めたように思えて、貴志は殆ど無意識にこのむすめを抱きしめる。

 もう時間はさほどないように思えた。不和が生じた以上、彼女は知らなければならない。

 ……だから嫌だったのだ、と貴志は思った。

 おのれの腕の中で眠りこけるちいさな少女。必要以上に庇護欲を駆り立てる妹。どうせいつかここにある歪さが知れてしまうならば、関わり合いなど持ちたくはなかったのに。けれど彼女はかれがどんなに冷たくしても、にいさま、とやや眉を下げて、笑いながらかれに手を伸ばす。その厄介さ、無知さ純粋さが憎くて、かついとおしかった。彼女が実の妹であればどんなによかったかなど、柄にもないことを考えてしまうくらいには。

 巳の兄、貴志の父がかの戦でそのいのちを散らしたあの日。父を喪って巳に養子として引き取られたあの日から、貴志は巳とその正室の間に生まれるだろう男の子を支えようと、確かに心に決めていた。それなのに。

 すうすうとよく寝息を立てる彼女の表情はひどく穏やかだ。まるで先刻の異常さが嘘のように、何もしらない無垢な表情がはっきりと見てとれる。

(この子は、……)

 そっと吐息する。やわらかな敷き布団に彼女を転がして、もやもやを具現化するように半ば乱暴に掛け布団をかける。彼女はやはり眠ったままで、そして時折、わずかに寝返りをうつ。貴志は静かにその場から離れた。人知れず笑ったのは、願わくば、何をなんて、それは結局のところかれしかしらないからなのだ。

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