第1話 (8)
うふふ、とフィオルがわらう。まだ幼い少年の高い声だ。それを追いかけるような、少女と少年のそれも聴こえる。フィオにいさま、と邸内を駆けていく二つの影は、フィオルよりも大きい。惣領巳の庶子の彼らは、たとえ年下でも嫡子を上の扱うのが常である。
楽しそうな風景だ、と黄津は目を細めた。フィオル、ノネタ、ラタ。明るい女郎花色が三つ、庭で戯れている。
だが、アゲハは。
「……全然、だめだった。」
そばに通りかかった貴志が項垂れる。貴志に従えられた能の片手に抱えた盆には手付かずのままの李菓子がある。その昔この国が大陸の州であったとき、とある商人が伝えたらしい甘いそれ。からりと揚げたころもの中には、舌の上で蕩けるような菓子が包まれている。はじめて口にしたとき、このためにかの国との貿易をしようと、惣領巳みずからにひどく個人的な決定を下させたそれ。黄津は、無類の甘党のアゲハだけに、こっそりそれを与えた。アゲハはおもしろいほど喜んで、そしてすぐにその虜になった。
機嫌を取ろうだとか、そんなことを思っていたわけではない。少しでも元気を出してほしかったのだ。そうして、いつものようにわらってほしかった──けれど今、あの笑顔のかわいらしい鳥の子色の髪の少女は、これをただのひとくちも触れなかった。閨は開けることも躊躇われて、なかなか踏み出せないから、少女がどうなっているのかも分からない。邪気に敏感なノネタは尚のこと、ラタにもそれが恐ろしいらしく、部屋に近づこうとするフィオルは彼らによって止(とど)められていた。
そんなある日、黄津は襖を開け放した部屋の隅で、震えているアゲハを目撃した。長い髪で両耳をかくし、さらにその上から両手を被せる彼女。薄暗い部屋の中で、こわれたようにがたがた震えるちいさないきもの。
きっと声をかけるべきなのだ、と黄津は思った。しかし触れようとする手は大きく震えて、黄津にはそれができない。むこうにいるのはあまりにも小さく、幼く、ひとりでは何もできない少女であるはずなのに、守るべきものであるはずなのに──こうも近くでこんな様を見せつけられるだけで、おのれはこんなにも何もできない。
ぎりり、と握る拳は自らへの戒めのようだ。
踵を返して、黄津はすぐに巳へ連絡を取るべく早馬を飛ばす。かくして、紅氏海瀬一門の本領である海瀬国に赴いていた巳は、数日後に帰還したのであった。
邸には重苦しい空気が流れていた。おかえりなさいませ、と告げる樹は、さっと目を逸らす。廊ですれ違ったちいさなフィオルは、おかえりなさいのおか、を言いかけてラタに引っ張って行かれた。そんな少年たちを追いかけていくのはノネタに袖を引かれた能である。黄津からの文は簡潔なものであったことを、そしてその筆が妙に乱雑であったことが、今更思い出された。然るに状況は芳しからず。たとえ皆が多くのものを抱えていても、それがどこかを歪ませていたとしても、必ずどこかに笑いをたたえていた一門の姿は、そこになかった。
最終的に巳は、部屋の前で俯く貴志と、隅で小刻みに震えているその部屋の主を見つけた。
「アゲハ」
しんとした部屋に声が響く。大して大きなそれではないのに、アゲハは肩を震わせる。
(こちらを、見ようとしない)
拒絶をおそれているような感があるのに、少女の反応は、むしろおのずとこちらを拒んでいるようだ。拒まれるのがおそろしくて、おのれから世界を見ないふりをするのか、それとも。浮かんだ可能性は、考え始めるとひどくかなしみを含んだものだった。見覚えがあった。よく似ている。巳はほんの少しだけ、昔のことを思い出す。
ふと貴志に目を向けた。瞬時に逸らされる視線に、巳は吐息する。きっと彼女は知ってしまったのだ。そしてそれを教えたのは、紛うことなく貴志なのだ。この兄妹に、──最早血のつながりはないのだから、そう呼べるのかも分からないが──この兄妹に、大きな重荷を背負わせてしまったことを悟る。遅すぎるともう一人の彼が言う。
アゲハに、近づいた。以前のようにそっと頭にぽんと手を置く。けれどそれは彼女によってぱしんと叩かれ、巳の腕は行き場をなくした。
「どうして」
どうしてわたしをひきとったの、どうしてわたしをたいせつにしたの、どうして。
それは正しく彼女のこころの叫びであった。か細く聞き取りづらいその声がすべてを物語っていた。この部屋は暗かったので分からなかったのだが、金糸のような綺麗な髪はどうやら漆黒に染まっている。目に見えてはっきりと解る違いだった。それは、異常さだった。
つと、巳はまた息を吐く。すべてはあの日。
この国の最高峰に位置するのは神帝(かむみかど)だ。それはこれからも変わらないし、そう簡単に揺らいでしまってもこの国が立ち行かなくなるのは目に見えている。
その神帝の宮で、神帝の座を直系子孫に譲り渡してもなお、政権を握り続けるのは大帝(おおみかど)、名を絮苑というそのひとであった。
その末の姫が、少しのいたずらごころでまた宮中から抜け出したあの日。大陸からやって来た鬼に攫われたとき。彼女を溺愛していた絮苑は、普段の仁君たる振る舞いからはおよそかけ離れたように、気が狂ったように巳を呼び出した。そうして、巳と、当時の海瀬を束ねていたその兄と、東国の武家、北国の武家の夫々(それぞれ)の権門たる惣領を呼び出して、確かに死ねと命じたのだ。この国の全軍は果たしてそれを受け入れ、うみを渡り、四年に渡る大戦の末にその姫を取り戻した。だが姫はその身に忌むべき鬼との命を宿してしまっていた。
そのときの、治天の君たるかのひとの顔は、今もこの目の裏に焼きついている。
「……とうひ」
たった一言それだけつぶやいて、けれどかのひとは姫を、その腕に抱えられていたはだかのいのちを、ちらとも見ようとはしなかった。
尊き宮中の血と、忌むべき鬼のそれをその身に背負う赤子の誕生。決して表沙汰にすることは許されない、それは禁則事項だった。連れ去られた姫が、かの地で何を思いどうしていたのか、そしてこのいのちの出来上がる過程のはなしを、巳は知らない。知るつもりもない。けれど、姫があんまりにもかなしそうな顔をして、去っていくじぶんの父にわずかに手を伸ばして、しかしどこか諦めたようにそれをすぐに引いたのを、巳は、見ていた。だから。
(……これでは、あまりにも)
さみしすぎるではないか、と。
つい先日、母になったひとの背とは思えぬほどちいさく、簡単に折れてしまいそうなそれに、彼は戸惑ってしまった。思えばそれが始まりであった。
「……お待ちくださいませ、大帝。大帝の姫様を、それがしに預けてはくださりませぬか」
巳は、一世一代の賭けを、した。
絮苑はじろりと巳を見た。両者の視線はぶつかり合い、しかしお互いに一歩とも引かない。燈火(とうひ)というその姫の話し相手を務めていたのはほんの三年足らずであったが、それでも確かに巳の中に、燈火を慕い、敬い、いとおし思う気持ちが根付いている。そのことを、絮苑は知らない訳ではなかった。かなり長い時間そうしていた。そして遂に、かのひとはつと息を吐き、可、と一言、その場を去る。巳の提案は、通った。
こんなも意外に、しかもあっさりと受け入れられたそれに戸惑いを覚える巳に、燈火が近寄る。
「変わらないんだね、きみは」
それが、ひとりとひとりの新しい生活の始まりであった。
あの日、確かに幸福だった日、渋い顔をする面々を黙らせ、まだ幼い貴志に無理を強いて、かれにははやく大人になることを強いてしまった日。それでも巳は、燈火の腕の中のこどもに、どこまでも可憐に羽ばたいていくうつくしい名を授けた。こどもはゆっくりと、しかし確実にいのちの足跡を残していく。燈火とそれを見て、きいて、感じて、ときに他愛ないことで笑い、そんな風に、いつまでも共にときを刻んでいけると、信じていた。
だがそれは本当に過信でしかなかった。ある日、燈火は音もなく消えてしまった。巳は、三年間彼女を待ち続けた。けれど彼女は現れなかった。黄津は、後添えをもらうことを進言した。──そして、巳は了承した。
海瀬の一門にやって来たその女は、うつくしい濃鼠色の髪を後方でひとつに括り、巳の手を取る。その女樹が、当然ここにくるためにさまざまな反発を買っているのは、巳も、黄津も承知の上だ。いわくつきの赤子を抱えた武門の惣領のもとに嫁ぐ、中流貴族のむすめを、その父は一体どんなこころもちで見送ったのであろうか。だから、巳は最初に言った。俺はそなたをしあわせにはできない、これからたくさんの苦労をかける、それでも良いのか。
そのことばに、樹は頷いた。それだけの行為にすくわれてきた月日は、遂に八年を周ったのであった。二人の契約から二年後に生まれたフィオルも、庶子にもかかわらず等しく樹が育てたノネタとラタも、そして甥であり養子の、最年長の貴志も。アゲハに至っては言うまでもない。皆、直接的な血のつながりがあったわけではないけれど、少し拗れた部分もあったけれど、それでもほんもののきょうだいのように暮らしていた。いつかそこに優劣がつけられることも、変化がおとずれることも皆きっと知っていた。それでも、ほんもののきょうだいのように、暮らしていたのだ。
目の前のこどもは相変わらず、鬼の変化だろうか、漆黒に染まってしまった髪に耳や顔を埋めさせて震えていた。巳は、何も言わない。言っても無意味だろうし、どちらにせよ今の彼女には届かない。
けれど、それでも。
「お前は、儂の娘だ」
分かるだろうか。いや、分からないだろう。
そうと知っていながら、巳はまた彼女の黒髪を撫でた。かなしいくらい、いとおしそうに。彼女はびくりと肩を震わせて、そして駆けていく。貴志の彼女を呼ぶ声がそらに虚しく響いた。巳は、追いかけない。どうして、と彼に縋った貴志は、しかし何かに気づいて拳を握る。
「ないていた、」
滅多に涙を見せないあの子が、ないていた。
それが悲しさや虚しさからくるものなのか、それともまた別のものなのか、貴志には分からないし憶測もできない。しようとすれば、彼女をしらなさすぎることに嫌でも気づかされる。それにまた、その答えは彼女がゆっくりと見つけていけばいいものだとも、思う。
けれど、もしもおもっても良いならば、それが許されるのならば。
(どうかここに、もう一度帰ってきてほしい)
話をしたかったのだ。やさしくできるかは分からないけれど。少しずつ彼女を知っていかないと、彼女の背負うものを影からでも支えていかないと、壊れてしまう気がした。笑顔のかわいらしい少女。どこか憎めないこども。一度家族を失くした自分が最初に授かった、何にも代え難い大切なもの。
それは今までかれがごまかし続けてきた、確かな情だった。妹をおもう、ふつうの兄のそれだった。ふと貴志は自嘲する。これだけは悟られてはならない。彼女が帰ってくる前に、隠してしまわなければ。
そのとき、邸の中ではそれぞれが彼女を思考していた。新たな決意とこれからの指針と、ともすればぐらついて崩れてしまいそうな矜持を握りしめて、皆が彼女を待っていた。少なくとも貴志はそう思った。
そして彼女を待っているのは彼らだけではなかった──椎ノ瀬戸翁村、うみにちかいちいさな漁村で、ひとり何も知らずに彼女を待つ少年がいた。
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