第1話 (6)

 父と僕とアゲハさま。すっかり樺色に染まった空を背負いながら、瀬戸から二つ向こうの村へ歩いて行く。それからそこで、いちばん大きなお邸で、黄津さまが僕らににっこりほほえむ。

 アゲハさまは疲れてしまったのか、あどけない寝顔で黄津さまの人差し指を握っていた。たぶん無意識なのだろう。そんなアゲハさまの髪を黄津さまがなでる。目じりを下げたやさしい瞳だ。迷惑をかけたなと言いながらアゲハさまの眠った顔を見る、そのおだやかな表情が、僕はとても好きだ。

 だが仮にもアゲハさまは惣領さまの姫君様だ。だから、あの日のように何かあってからでは遅いと、父は一度、惣領さまにこう言ったことがある。

『分け隔てなくうちの倅に接してくださるのは有難いのですが、わしらではひいさまを守りぬくことはできませぬ。海には危険が伴います』

 すると惣領さまはちょっと伏し目がちになって、アゲハさまの手を握ってこうおっしゃった。

『それで良いのだ。……いま、キアゲハが安らかでいられる場所は、そなたたちしかいないのだろうから』

 特別なことをする必要はない、どうか生業の妨げにならない範囲で、共にいてはくれないか。

(……っ)

 それが正確にはどのような意味を持っていたのか、僕には分からない。それでも祈るようにつぶやかれた言葉について、僕は考えていたかった。そういえばアゲハさまが初めてここへ来たとき、アゲハさまはなんだか気まずそうだった。当たり前のように僕の知らないアゲハさまがいて、そんなことに、ちょっと視線をそらしたのだった。

 カイル、と呼ぶ声はあたたかい。黄津さまが僕を見ているのだ。はいと顔を上げる。途端頭をなでられる。

 だいすきだな、と思った。だから、たぶん、それだけで。

 ──そうしていつのまにか寝ていたらしい僕がふっとまぶたを開けたとき、聞こえてきた声を僕は知らない。

「……あのまま、……あのままで、いいのか」

 低く唸るような声だった。

(なんだろう)

 肩と肩をぴったりつけて、背中の方へ耳を傾ける。知らない気配がする。黄津さまもいるけれど、あと二人。惣領さまではなくて、もっと大きい人と、それから黄津さまよりも小さい人。「……」沈黙が重たい。仕方がないでしょう、と知らない声が言う。

 ダン、と床が鋭く弾かれた。必死に肩を抱きしめる。「それでも、いずれ、知れることだ。……あいつは傷つくさ。貴様がやさしくすればするほど。あなたがやさしくすればするほど」

 だから俺は。

 ふと息を止めてしまった。そのひとが立ち去る音が聞こえる。僕の肩に再び陽光が射しはじめていた。

 あなたの呼ばれたのは黄津さまなのだろうと思う。貴様と呼ばれたのは、たぶん僕の知らない人。けれどもそれを分かったところで、僕が何も知らないことは変わらない。寝返りをうつようにアゲハさまを見る。すうすうとしずかな寝息をたてている。黄津さまは僕に気づかない。ただうなだれているように感じた。

 そのときふと肩の方が暗くなって、誰かが僕の頭をなでた。「……」そのひとは何も言わない。僕は身をこわばらせる。

 だから、そのひとがつぶやいた言葉の意味も、僕はまだ分からないのだ。

「……どうか」

 こんな世界のなかでは、たぶんねむってしまうことがいちばんやさしい。


 もちろんそんな日はそのときだけで、そのあと僕はアゲハさまとたくさん遊んだし、たくさん笑ったし、たくさん黄津さまや父に怒られて、そして全然こりなかった。けれどもいちばん困ったのは、アゲハさまが途方もないかくれんぼをしようと言い出して、ついに海瀬のはなれのお邸にもその話が伝わってしまって、アゲハさまの守役であるらしい能さままで出てきてしまって、僕たちは父、黄津さま、能さまの三人に怒られてしまったことだ。僕はそれでアゲハさまがこりたと思っていて、もうここから少し離れた島までかくれんぼなんて言いださないでくださいね、と釘を刺したのだけれど、アゲハさまはこりてくれなかったらしい。ある夜僕がすやすや寝ていると、「ねえ、かいる」と声が聞こえて、小舟までずるずる引きずられてしまったからだ。

 だから、だから。そうして遊んだ僕たちが、再びであったとき。

 うつむいて、袖をぎゅうっと握りしめたきみが、とうさまはわたしのとうさまじゃなかったんだよ、といったとき。

 僕は。

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