第1話 (5)

 背伸びをして上を見上げる。光る陽にアゲハさまの影が重なった。おもう。あの日の背中はあまりにも大きい。櫂の重さが追いかけてくる。息を吸いこむ。

 戦い勝つ者の世界を知って、まばゆさやあこがれを知って、それよりもつよいくすぶりやうらやみを知った日は、まだ僕の中では終わっていないのだろう。骨だつアゲハさまの指の先に僕が見たもののために、僕は櫂を強く握った。僕にはこれしかないのだし、僕にはこれでじゅうぶんに、一人前になりたい、と思う。

(きみのためじゃなくて)

 いやきみのためでもあるけれど、でもやっぱり僕のためだよ、と櫂を押す。

 途端波からの圧力は当たり前に強くなり、ふん、と踏ん張らないと倒れてしまうようなめまいを起こす。どうしたのとのぞきこまれる。その瞳は花のような色は、あの日と少しも変わらないそれだ。ううんなんでもない、なんて額の汗をぬぐったら、父のにやにやした顔が視界をかすめる。

「あのね」

 アゲハさまが言う。

「わたし、父様のような立派な武になる……のだわ」

 それはきっと決意だったのだろう。

 こちらを向かない顔を横目に見る。まぶしい陽光をそのまま受けて、白くかがやく小さな手を見る。やはりほんとうに小さいと思う。けれどもそれは、僕自身にも返る言葉だ。

(どんなふうに戦うようになるんだろう)

 どんな羅針盤を持つようになるのだろう。

 思うと同時に、アゲハさまの存在を確認する。僕の羅針盤にもいつのまにか近づいていて、くっついて、そうして。嵐のような女の子だ。嵐みたいなのが「武」なのかもしれない。

「今日はひゃくじゅういちかい振った!」

「ひゃくじゅういち、かい」

「そう!」

 誇らしげに言うアゲハさまはかわいらしい。えらいですねえと言いつつ、浜辺に舟を着ける。あっ、ねーえ、カイルったら、ちゃんと、きいてなかったでしょう! 背後にはぴょんぴょん跳ねるアゲハさまがいるらしい。「はいはい」網を畳みながら生返事する。そのうれしそうな顔の中に見える、ほんの少しの後ろめたいような色から、さてはまたお邸に言わずに来たのだなあと思った。「アゲハさま……」「あっ! しっ! しいっ!」口もとに人差し指を突きつけられる。図星らしい。それを笑顔を返してくる、この子は。

(手柄話とかなんかも、するようになるのかな)

 惣領さまみたいに。

(きっと強くなる。)

 考える。想像する。夢を見る。海賊なんか、ばさーっ! とやっつけてしまう。脳裡にうみを駆けるきれいな蝶々が浮かんだ。今みたいな潮を大きく吸い上げ、つよく、強く、高く。自由に空を飛んでいく、きれいでしたたかな蝶。

 西に傾き始めた陽を見る。けれども空はまだあおいままだ。へへと右の口端を上げて、くるりとアゲハさまの方を向く。

「アゲハさま、」

「ん?」

 また舟に乗る、ときけば、当たり前でしょと即答される。父様のようにかいぞくを追い払うには、舟で立てなきゃ。うみに向かって、何かを誓うように大切にそう言うと、ふと向きなおられた。あまりにも突然だったものだから、僕はまた明日ねというのを忘れてしまって、アゲハさまのことを見つめてしまう。うつくしい珊瑚色の瞳、金色の糸のような髪。薄水色とやや空色の水干に包まれる細い肩と、いつも背中に背負っている紅い布に包まれた、あの日の大陸のつるぎ。

「かーいる」

「っ、あ、はい」

「どうしたの?」

 その問いに、すぐに応えることはむつかしかった。あなたのことを見ていただけですだなんて言えるはずがないのだ。へんなカイル、とのぞきこんでくる目の前のお姫様から、ゆるゆると視線をそらす前に見えた光に声を上げそうになって、留まる。

(炎の色、うみの色、ちがう──たま、むし、いろ)

 むかしどこかで、僕がまだ僕でないころ、誰もしらないかみさまの御代、千古よりも太古であって、そういうむかし。目にしたような、していないような、憶えているような、おぼえていないような、わすれてしまったような、忘れていないような、そんな色を。

「ね、カイル」

 また乗せてくれるよね? そんな声にふっと意識を引き戻される。一拍置いて、今度こそ、アゲハさまを見る。はい、と返すとアゲハさまは照れたように笑う。夕陽に照らされてきらきらとかがやくそれは、僕にはなんだかとてもまぶしい。まぶしくて、そんなことに安心した。

 じゃあ明日、約束ねと指切りした小指のぬくもりは、きっとずうっと残っていく。失くさないように抱きしめる。僕の家へ並んで向かう。

(なんだろう、うれしい)

 見ていたいと思った。

(僕にも、手伝えるのかな)

 うみと、舟しか知らないけれど。海賊を討伐するときになったら、アゲハさまを舟に乗せているのは僕がいいと思った。いずれはきっと別の道を行くのだろうから、それでもときには、アゲハさまの役に立てるように。せめて足手まといにはならないように。

 僕も強くなろう。父のように、そしたら、この子にうみを教えてやることは僕にもできるかな。そんなことを考えていたら、今日の獲物をまとめた父の声が僕らの名前を呼んだ。

「カイル! キアゲハ様!」

「はあい!」

「暗くならないうちに帰るぞ!」

「はあい!」

 一緒に声をそろえて返事をして、一緒に駆け出す。一緒に砂に足をかけて、一緒に転んで一緒に笑った。僕とアゲハさまは確かに違う。それでもきっと、ぎりぎりの時までいっしょにいる事は、僕にもできる。まだ明るい空に一番星を見つけて、ひとつだけお願いごとをした。

(願わくは)

 何を、なんてぜったいに教えてあげないけれど。

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