レンブラント裁断

望乃奏汰

‪✂︎‬

「今時マッチなんて持ち歩いてる人いるんですね。」

「あぁ。物質的なのが好きなんだ。」

そう言い夏縋さんはマッチを擦る。

僕は夏縋さんの言う『物質的』の意味がよく分からなかったが、そうなると恐らく夏縋さんにとってライターは『物質的』では無いのだろう。夏縋さんは火のついたマッチを窓から落とす。

「やめたほうがいいですよ、そういうの。」

「なんで?」

「火事とかになったら、危ないですし。」

「雨降ってるし大丈夫でしょ。それに、何かの間違いでこのアパートが全焼したら面白くない?」

自分の住むアパートが全焼して面白いと思う人間がいるわけがない。いや、隣人がよっぽどいけすかないとか、そういう場合は自宅諸共焼き払いたくなるかもしれないが、僕は隣人の顔すら知らないのだった。というより、窓からものを投げること自体が推奨される行動とは言い難かった。しかし夏縋さんはしばしばそういったことをする。人からダメだと言われれば言われるほど夏縋さんは嬉々として行うのだ。

「何? どうしたの? 変な顔して。」

「いや、別に。」


夏縋さんは僕の住む部屋に2、3日前から勝手に転がり込んできている。

よく事情は知らないのだがなんでも本家から勘当されて家から追い出されたとか何とか言っていた気がするのでこう見えていいとこのお坊ちゃんなのかもしれない。

居酒屋で相席になった夏縋さんは図々しくもその日初対面の僕に泊めてくれなどと言ってきて、人のいい僕はそれを許可してしまった。夏縋さんはどうも、人を油断させるというか、人好きのする雰囲気というか、要は人たらしなのだ。

夏縋さんを部屋に入れてからというもの、ベッドは横取りされるわ、冷蔵庫のハーゲンダッツを勝手に食われるわ、風呂のトリートメントが半分以上無くなるわ相当好き勝手な真似をされている。


「夏縋さん、ベッドやハーゲンダッツはまぁ100歩譲って許しますが、トリートメントは本当に高いのでやめてください。僕はあまり手取りは多くないので。」

「羽澄は髪の毛トゥルットゥルの僕は嫌いかい?」

「・・・・・・いや、髪の毛トゥルットゥルじゃなくても夏縋さんのことは好きですよ。」

「はは。ありがとう。」

夏縋さんはそう言うと伸ばした大きな左手で僕の頭を鷲掴みにすると髪の毛をぐしゃぐしゃとかき回した。頭を撫でているつもりなのだろうか。夏縋さんの長い指によって僕はされるがままに髪の毛を蹂躙された。


端的に言って夏縋さんは人として最悪なのだが、どうにも抗いがたい魅力があるのだった。それはなにも決してその整った顔だけのせいだけではなく、どんなに厚かましく横暴極まろうとも、纏った柔和でかわいらしい雰囲気や目を離すと消えてしまいそうなどこか儚げな印象や、その一方で時折見せる妙な色気のせいで「あぁ、夏縋さんならしょうがないか。だって夏縋さんだし。」と、なってしまう。

夏縋さんの前では法も常識もルールも理屈も倫理もあらゆる全てがなんの意味も成さない。


夏縋さんは相変わらずマッチを投げ捨てた窓の外を眺めている。外は激しい雨が降っていた。雨が開けた窓から室内に入ってくる。夏縋さんはまるでシャワーでも浴びているかのように雨粒を顔に受けその顔はびしゃびしゃになっており、長い前髪は顔に張り付いている。着ているシャツもびたびたになっている。ちなみにこれも僕のクローゼットから夏縋さんが勝手に着ている服だ。

「夏縋さん、窓を閉めないと部屋がびしゃびしゃになってしまいます。」

「あぁ、あれを見ていたんだ。」

会話になっていない。


僕の住むアパートは、3階にも関わらず裏手が崖地に面しているため眺めは良かった。

但し、崖のふもとは墓地だった。さすがに夏縋さんの投げたマッチが届かない程度に墓地からは離れているとはいえ、すぐ裏手が墓地ということで家賃は安い。

「一体何を見てるんですか。墓地ですか。」

「あのあたり。」

夏縋さんの指さす先は遠くの空のあたりだった。

何層も折重なる雨の壁のせいで、晴れの日であれば遠くに見渡せる街並みは霞んで見えない。手前にある墓ばかりが目に入るため、窓の下には地平線まで墓場が広がっているのではないかと錯覚させられる。

「しっかし、あの世みたいな光景ですね。」

「羽澄はあの世を見たことがあるのかい? あの世にも墓場はあるのかな。」

「・・・・・・いや、あの世には、墓場はなさそうですね。」

確かに、墓場というのは死者が埋葬されてはいるけれど、死者の魂が向かう場所が『あの世』であれば、墓場というのはあまりにも『この世』のものなのかもしれない。

「それより、何かあるんですか。全然僕には見えないんですけど。」

「そろそろかな。見ててごらん。」

雨足が先程よりも少し弱まってきた。

徐々に遠くの街並みも見えるようになってきた。灰色のビル街、灰色の墓石群。やはり墓場と街は地続きなのだ。この世。あまりにもこの世。


ほどなくしてまるで嘘のように雨はあがり、雲間から何本も光が差すのが見えた。

「羽澄、あれをなんていうか知ってる?」

「いや、知らないです。名前があるんですか?」

夏縋さんはまるで鍵盤でも弾くみたいにそれを指差した。

「あれは薄明光線、天使の梯子って言われているんだ。」

「へぇ、なんだかロマンチックですね。」

すると、夏縋さんは一体どこから取り出したのか大きな裁ち鋏を手に持っていた。

「じゃーん。」

「なんですかそのバカでかい鋏は。危ないですよ。」

「この鋏は特別な鋏でね、大抵のものは切ることができる。鋏はいい。実に物質的だ。」

そう言いながら夏縋さんはその綺麗な指で鋏の側面を撫でた。その仕草はゾッとするほど美しくて僕は思わず目眩をおぼえた。

「何その顔。」

「・・・・・・いや、なんでもないです。」

「まぁいいや。見ててよ。」

夏縋さんはゆっくりと鋏の刃を開くと、


「ちょっきん。」


と、言いながら刃を振り下ろし、いや、鋏自体はその位置は殆ど動いてはいない。その大きな大きな刃がただ閉じられただけだというのに、その一連の動作はギロチンが落ちてきたのかのような、或いは巨大なサメが人を丸呑みにしたかのような恐ろしい『現象』として僕の目に映った。


その夏縋さんの動きに連動して、鋏越しに見えていた天使の梯子は音もなくひらりと切り落とされた。

光の帯が、リボンのように街に落ちていく。

その光の帯からは何か小さなキラキラとしたものが零れ落ちる。

それらの非現実的な光景が収められた窓枠はそれ自体が一枚の絵画のように見えた。


「え、あれは。」

「天使だよ。」

「天使、、、?」

「天使ってさ、背中から羽根が生えてるだろ。飛べばいいじゃん。なんで梯子登ってんだよって思わない? だから切ったんだけど、飛べてないじゃん、あいつら。ウケるな。」

夏縋さんはケラケラと笑っている。

「あの、大丈夫なんですか、そんなことして罰とか当たりませんか、、、」

僕はそう言ってから落ちていく天使よりも夏縋さんの心配をしてしまったことに気付き、罪悪感に苛まれた。地獄に落ちるかもしれない。

「大丈夫だよ。天使は人間じゃないから落ちても死なないでしょ。せいぜい堕天使にでもなるぐらいだよ。」

自ら堕ちるのと他人から物理的(?)に落とされるのとでは自殺と他殺ぐらい雲泥の差では無いかと思うのだが、僕は天使の生態やシステムについての知識は明るくないため落ちた天使がどうなるのかについてこれ以上考えるのはやめた。


「ちょっきん。」

「あ、」


僕の前髪がぱさり。と床に落ちた。

「やっぱり切るなら物質的なものの方がいいね。」

夏縋さんはその後、僕の着ていた服を鋏でズタズタに切り刻み、それで満足したのか先程の雨で湿ってしまった服を脱ぎ散らかして浴室へと消えていった。

切られるのが腕とか脚とか指とかじゃなくてよかった。

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