文学賞と枝豆の味
雪が降っていた。
見慣れた駅前の交差点、巨大スクリーンの前に立ち尽くしていた。吐く息は白く、芯から冷える空気がコートの襟から染み込んでくる。
その寒さにも気づかないほど、俺の目はスクリーンに釘付けだった。
「第140回アンバー文学賞と川口賞の受賞者が発表されました。エンターテイメント小説に贈られるアンバー文学賞を受賞したのは──鈴村ほまれさん。2作目である『終映』が高く評価され……」
アナウンサーの声が、機械的に響いてくる。
鈴村ほまれ。
知ってる名前だった。
誰よりも、知ってる名前だった。
俺が、人生で初めて“面白い”と感じた物語を書いていた、あの子の名前だ。
*
乾杯の音は、ビールジョッキがぶつかる軽快な音とともに、居酒屋の奥にこだました。
「ほまれくん、文学賞おめでとう~!!」
店長の吉岡が笑いながら声を張る。その言葉に、テーブルの周りがいっせいに沸いた。
「どーも、ありがとうございま~す!!」
大げさなくらいに腰を折って頭を下げながら、鈴村ほまれはジョッキを高く掲げる。頬がほんのりと赤いのは、酒のせいばかりじゃない。照れくささが、どうしようもなく滲んでいた。
「いや~、僕は、てっきりドッキリか何かかと思ってたよ~」
店長が笑いながら、軽くほまれの肩を叩く。
バイト仲間の本田と小松も、信じられないといった顔でジョッキを傾けていた。
「俺も俺も。前にちょろっとそんな話してたくらいで……っていうか、まじで書いてたんだな~。」
「私も。まだ信じられない。」
「がーん!酷っ!?」
驚かれて、茶化されて、それでも嫌な気分にはならなかった。
「まあまあ、ほら!見てください、証拠です証拠!」
口をとがらせながらも、どこか誇らしげにスマホをズイと突き出す。小さな画面には、見慣れないほどちゃんとした自分の顔と、名前と、受賞作のタイトル。
画面越しの文字が、ようやく現実を帯びて、今ここで──みんなと一緒に、少しずつ心に沁みていく。
「げえっ、うわ、マジだわ。……は!?賞金300万!?」
本田の声が一段高くなる。画面を覗き込んだ小松は対照的に淡々と呟く。
「……盛れてんね、写真。」
「フフン。見直したかね、諸君!」
ほまれは胸を張って、どこか芝居がかった口ぶりで言い返す。
「はいはい見直した見直した。ほまれ、マジですげーよ」
まっすぐに投げかけられたその言葉に、一瞬、胸の奥がきゅっと締めつけられる。
「あ。そうだ。バイトは?辞めんの?」
何気ない口調で投げかけられた問いに、ほまれはビールをひと口飲んでから、肩をすくめた。
「しばらく続けますよー。印税とかも正直どのくらい入るかわかんないですし。」
「いっ!?印税ぃ~!?」
本田が声を裏返す。すかさず小松が身を乗り出して、テーブルをジョッキでダンと叩いた。
「ほまれ奢って。」
「堂々とたかってんじゃねえよ!」
本田のツッコミがすかさず飛ぶ。
笑い声が弾ける。空気が緩む。ジョッキの音と談笑が、ささやかなBGMのように店内に響く。外は凍えるような雪景色でも、この空間には、人のぬくもりが確かにあった。
肩の力が抜けて、ほまれの口元がふっと緩む。気づけば、心の奥までほどけていた。
「それにしても、あのほまれくんがねぇ~。」
「マージでありえん……。見かけによらないにも程があんだろ。」
「うん。イメージなさすぎ。」
──そうだ、昔の自分を知っている人たちだ。
毎日が綱渡りで、報告のひとつもうまくできずに怒られてばかりだった頃。手際も悪くて、声も小さくて、自信なんてどこにもなかった。それでも、彼らは見放さずにいてくれた。今こうして、肩を並べて笑い合っていられるのが、不思議なようで、少し誇らしかった。
「なんか、きっかけとかあったわけ?」
問いかけたのは小松だった。グラスを傾けながらも、その目は少し真剣で。
「おっ、聞いちゃいますか?天才作家・鈴村ほまれのルーツを!」
ほまれは芝居がかった口調で胸を張る。わざとらしく目を輝かせて。
「ったく、ちょーっと賞とったからって調子乗りやがって!」
笑いながらも、本田の声にはどこか、照れ隠しのような温かさが滲んでいた。
一瞬だけ間が空いて――ぽつりと付け加える。
「……いや。いいのか、乗っても。すげー賞、だもんな」
その言葉に、ほまれはふと動きを止める。
ふざけたままの表情を保ったまま、どこかで胸の奥が疼く。仲間に、ちゃんと“認められた”気がした。
笑いの余韻が残るテーブルの上で、ほまれは、ほんの少し真面目な面持ちになった。
「おれ、子どもの頃から作り話ばっか考えてて、周りからは気持ち悪がられてたんですけど……一人だけ、面白がってくれた子がいて」
本田と小松の動きがふと止まる。
笑いの渦の中にあったはずの空気がぴたりと変わり、酒の席には似つかわしくないほどの、妙な静けさが広がった。
「なっちゃんっていうんですけど、その子のために、チラシの裏とか、プリントの裏に物語書いて……それが始まりですね。今でも、なっちゃんに片想い中~!あははっ!」
言葉のトーンはいつもの調子。明るくて軽くて、どこかふざけたような調子で、ほまれは笑った。けれどその笑い声の奥に、誰にも気づかれたくない小さな影が揺れていた。
本田は無言でグラスに手を伸ばし、ビールを注ぎはじめた。ポンと音を立てて栓が開き、グラスの中で泡が弾ける。けれどその音さえも、何かを打ち消すように、やけに長く、間延びして響いた。誰も言葉を挟まないまま、その一瞬の沈黙だけが、妙に重く、やさしく漂っていた。
「……ほーん。なっちゃんね。受賞知ったら、喜ぶんじゃね?あー、えーっと…なんだっけ…?アンダー…ぶんがく…?」
「アンバー文学賞。」
「ええい、とにかく!肩書ついた今ならイチコロだろ。フリーなら告っちまえよ。ほれ、飲め主役!」
本田が勢いよくグラスを差し出す。その横で、小松も頷いている。
ほまれは「あざっす!」と笑いながら、そのグラスを受け取った。「ぷはー」と少し大げさに息をつく。冗談めかして、軽さで包んで。
「いや~、おれ、なっちゃんの親御さんにあんまり好かれてなくて」
ぽつりとこぼれた言葉は、笑いとは少し違う温度を帯びていた。
学生のころの出来事。でも、忘れられないまま、心の底にしこりのように残っている。
「おれと一緒にいても、大抵ろくなことにならないし。だから……なっちゃんには、キラッキラな人と素敵な結婚式でもあげてほしいんですよ。」
そう言った瞬間だった。ガラガラッと、戸が開く音が店内に響く。
「あれ、お客さん?今日休みのはずだけど……」
「僕が対応するよ。皆はそのままで。」
席を立つ店長の声を背中で聞きながら、ほまれは、枝豆をひとつつまんだ。
ぽりりと噛む音の中に、自分の言葉をふたたび沈める。
「……おれが、友人代表スピーチとかできたら、120点かな~」
本田が眉をひそめて問いかける。
「はあ。なんじゃそりゃ。オマエ、欲とか無いわけ?」
その言葉に、ただ、枝豆をもうひとつ口に運び、そっと笑った。
「ほんとはチューとか、してみたいですよ。」
隣で眠るなっちゃんの寝顔を、朝の光の中で見てみたい――そんな夢みたいな情景が、ふと頭をよぎる。だけど。
「でも……隣にいるのは、おれじゃなくていいんです」
ほまれは静かに口にする。
そう、自分はそういう人間だ。隣に並ぶ資格なんて、最初からない。愛するより、ただ願うほうがいい。触れずに、壊さずに、遠くからそっと見守る方がずっと。その方が、なっちゃんにとって幸せだから――信じて疑わなかった。
自分にとっての「正しい在り方」だった。
「ほまれくーん、友達だって!」
突然の店長の声に、反射的に顔を上げる。
“友達”? そんなはず、ない。おれに、友達なんて、――
振り返った瞬間、目に飛び込んできたのは。黒いコートに身を包み、マフラーをぐるぐる巻きにした、あまりにも見慣れた、懐かしい顔だった。
なっちゃん。高梨なつきがそこにいた。
「な……!?」
息が詰まる。胸の奥が、ぎゅっと強く掴まれる。
「すみません、おれ急用思い出しちゃいました!!」
立ち上がった勢いで椅子が音を立てる。本田の驚いた声も、もう耳に入らない。
「おい、ほまれっ!……すみません、俺も失礼します!!」
なつきの声が、ほんの一瞬だけ遅れて響いた。
気づけばふたりとも駆け出していた。ガラガラッと戸が開き、閉まる。
その場に残された仲間たちの間に、しばし沈黙が広がった。
「ええ……?今のってさぁ……、もしかして“そういうこと”?マジ?そんなことある?意味わかんねぇ………。すげぇ………。」
「は?意味はわかるでしょ。」
「はは、うまくいくといいねぇ。」
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