文学賞と枝豆の味

 雪が降っていた。

 見慣れた駅前の交差点、巨大スクリーンの前に立ち尽くしていた。吐く息は白く、芯から冷える空気がコートの襟から染み込んでくる。

 その寒さにも気づかないほど、俺の目はスクリーンに釘付けだった。


「第140回アンバー文学賞と川口賞の受賞者が発表されました。エンターテイメント小説に贈られるアンバー文学賞を受賞したのは──鈴村ほまれさん。2作目である『終映』が高く評価され……」


 アナウンサーの声が、機械的に響いてくる。


 鈴村ほまれ。


 知ってる名前だった。

 誰よりも、知ってる名前だった。

 俺が、人生で初めて“面白い”と感じた物語を書いていた、あの子の名前だ。



 乾杯の音は、ビールジョッキがぶつかる軽快な音とともに、居酒屋の奥にこだました。


「ほまれくん、文学賞おめでとう~!!」

 店長の吉岡が笑いながら声を張る。その言葉に、テーブルの周りがいっせいに沸いた。


「どーも、ありがとうございま~す!!」

 大げさなくらいに腰を折って頭を下げながら、鈴村ほまれはジョッキを高く掲げる。頬がほんのりと赤いのは、酒のせいばかりじゃない。照れくささが、どうしようもなく滲んでいた。


「いや~、僕は、てっきりドッキリか何かかと思ってたよ~」

 店長が笑いながら、軽くほまれの肩を叩く。

 バイト仲間の本田と小松も、信じられないといった顔でジョッキを傾けていた。


「俺も俺も。前にちょろっとそんな話してたくらいで……っていうか、まじで書いてたんだな~。」

「私も。まだ信じられない。」

「がーん!酷っ!?」

 驚かれて、茶化されて、それでも嫌な気分にはならなかった。


「まあまあ、ほら!見てください、証拠です証拠!」

 口をとがらせながらも、どこか誇らしげにスマホをズイと突き出す。小さな画面には、見慣れないほどちゃんとした自分の顔と、名前と、受賞作のタイトル。

 画面越しの文字が、ようやく現実を帯びて、今ここで──みんなと一緒に、少しずつ心に沁みていく。


「げえっ、うわ、マジだわ。……は!?賞金300万!?」

 本田の声が一段高くなる。画面を覗き込んだ小松は対照的に淡々と呟く。

「……盛れてんね、写真。」

「フフン。見直したかね、諸君!」

 ほまれは胸を張って、どこか芝居がかった口ぶりで言い返す。


「はいはい見直した見直した。ほまれ、マジですげーよ」

 まっすぐに投げかけられたその言葉に、一瞬、胸の奥がきゅっと締めつけられる。


「あ。そうだ。バイトは?辞めんの?」

 何気ない口調で投げかけられた問いに、ほまれはビールをひと口飲んでから、肩をすくめた。


「しばらく続けますよー。印税とかも正直どのくらい入るかわかんないですし。」

「いっ!?印税ぃ~!?」

 本田が声を裏返す。すかさず小松が身を乗り出して、テーブルをジョッキでダンと叩いた。

「ほまれ奢って。」

「堂々とたかってんじゃねえよ!」

 本田のツッコミがすかさず飛ぶ。


 笑い声が弾ける。空気が緩む。ジョッキの音と談笑が、ささやかなBGMのように店内に響く。外は凍えるような雪景色でも、この空間には、人のぬくもりが確かにあった。

 肩の力が抜けて、ほまれの口元がふっと緩む。気づけば、心の奥までほどけていた。


「それにしても、あのほまれくんがねぇ~。」

「マージでありえん……。見かけによらないにも程があんだろ。」

「うん。イメージなさすぎ。」

 ──そうだ、昔の自分を知っている人たちだ。

 毎日が綱渡りで、報告のひとつもうまくできずに怒られてばかりだった頃。手際も悪くて、声も小さくて、自信なんてどこにもなかった。それでも、彼らは見放さずにいてくれた。今こうして、肩を並べて笑い合っていられるのが、不思議なようで、少し誇らしかった。


「なんか、きっかけとかあったわけ?」

 問いかけたのは小松だった。グラスを傾けながらも、その目は少し真剣で。

「おっ、聞いちゃいますか?天才作家・鈴村ほまれのルーツを!」

 ほまれは芝居がかった口調で胸を張る。わざとらしく目を輝かせて。

「ったく、ちょーっと賞とったからって調子乗りやがって!」

 笑いながらも、本田の声にはどこか、照れ隠しのような温かさが滲んでいた。

 一瞬だけ間が空いて――ぽつりと付け加える。


「……いや。いいのか、乗っても。すげー賞、だもんな」


 その言葉に、ほまれはふと動きを止める。

 ふざけたままの表情を保ったまま、どこかで胸の奥が疼く。仲間に、ちゃんと“認められた”気がした。


 笑いの余韻が残るテーブルの上で、ほまれは、ほんの少し真面目な面持ちになった。


「おれ、子どもの頃から作り話ばっか考えてて、周りからは気持ち悪がられてたんですけど……一人だけ、面白がってくれた子がいて」


 本田と小松の動きがふと止まる。

 笑いの渦の中にあったはずの空気がぴたりと変わり、酒の席には似つかわしくないほどの、妙な静けさが広がった。


「なっちゃんっていうんですけど、その子のために、チラシの裏とか、プリントの裏に物語書いて……それが始まりですね。今でも、なっちゃんに片想い中~!あははっ!」


 言葉のトーンはいつもの調子。明るくて軽くて、どこかふざけたような調子で、ほまれは笑った。けれどその笑い声の奥に、誰にも気づかれたくない小さな影が揺れていた。

 本田は無言でグラスに手を伸ばし、ビールを注ぎはじめた。ポンと音を立てて栓が開き、グラスの中で泡が弾ける。けれどその音さえも、何かを打ち消すように、やけに長く、間延びして響いた。誰も言葉を挟まないまま、その一瞬の沈黙だけが、妙に重く、やさしく漂っていた。


「……ほーん。なっちゃんね。受賞知ったら、喜ぶんじゃね?あー、えーっと…なんだっけ…?アンダー…ぶんがく…?」

「アンバー文学賞。」

「ええい、とにかく!肩書ついた今ならイチコロだろ。フリーなら告っちまえよ。ほれ、飲め主役!」

 本田が勢いよくグラスを差し出す。その横で、小松も頷いている。

 ほまれは「あざっす!」と笑いながら、そのグラスを受け取った。「ぷはー」と少し大げさに息をつく。冗談めかして、軽さで包んで。


「いや~、おれ、なっちゃんの親御さんにあんまり好かれてなくて」


 ぽつりとこぼれた言葉は、笑いとは少し違う温度を帯びていた。

 学生のころの出来事。でも、忘れられないまま、心の底にしこりのように残っている。


「おれと一緒にいても、大抵ろくなことにならないし。だから……なっちゃんには、キラッキラな人と素敵な結婚式でもあげてほしいんですよ。」


 そう言った瞬間だった。ガラガラッと、戸が開く音が店内に響く。


「あれ、お客さん?今日休みのはずだけど……」

「僕が対応するよ。皆はそのままで。」


 席を立つ店長の声を背中で聞きながら、ほまれは、枝豆をひとつつまんだ。

 ぽりりと噛む音の中に、自分の言葉をふたたび沈める。


「……おれが、友人代表スピーチとかできたら、120点かな~」

 本田が眉をひそめて問いかける。

「はあ。なんじゃそりゃ。オマエ、欲とか無いわけ?」


 その言葉に、ただ、枝豆をもうひとつ口に運び、そっと笑った。

「ほんとはチューとか、してみたいですよ。」

 隣で眠るなっちゃんの寝顔を、朝の光の中で見てみたい――そんな夢みたいな情景が、ふと頭をよぎる。だけど。


「でも……隣にいるのは、おれじゃなくていいんです」


 ほまれは静かに口にする。

 そう、自分はそういう人間だ。隣に並ぶ資格なんて、最初からない。愛するより、ただ願うほうがいい。触れずに、壊さずに、遠くからそっと見守る方がずっと。その方が、なっちゃんにとって幸せだから――信じて疑わなかった。

 自分にとっての「正しい在り方」だった。


「ほまれくーん、友達だって!」


 突然の店長の声に、反射的に顔を上げる。

 “友達”? そんなはず、ない。おれに、友達なんて、――

 振り返った瞬間、目に飛び込んできたのは。黒いコートに身を包み、マフラーをぐるぐる巻きにした、あまりにも見慣れた、懐かしい顔だった。


 なっちゃん。高梨なつきがそこにいた。


「な……!?」

 息が詰まる。胸の奥が、ぎゅっと強く掴まれる。


「すみません、おれ急用思い出しちゃいました!!」

 立ち上がった勢いで椅子が音を立てる。本田の驚いた声も、もう耳に入らない。

「おい、ほまれっ!……すみません、俺も失礼します!!」

 なつきの声が、ほんの一瞬だけ遅れて響いた。

 気づけばふたりとも駆け出していた。ガラガラッと戸が開き、閉まる。

 その場に残された仲間たちの間に、しばし沈黙が広がった。


「ええ……?今のってさぁ……、もしかして“そういうこと”?マジ?そんなことある?意味わかんねぇ………。すげぇ………。」

「は?意味はわかるでしょ。」

「はは、うまくいくといいねぇ。」

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