きみの小説が読みたい
雪がしんしんと降っていた。街灯の光が静かに滲んで、世界の輪郭をぼやけさせている。
そんな夜を、ほまれは全力で駆け抜けていた。
足元では、雪が足音をすべて飲み込んでいく。それでも確かに、背後から聞こえる足音があった。迷いも、遠慮もない、まっすぐな音。
「つ、い、て、く、ん、な、あほぉ!!」
息を切らしながら叫ぶ。振り返る余裕もない。いや、振り返ったら、もう逃げられなくなる気がした。
「ほまれっ!」
追ってくる声。なつきの声。あの、どこか眠たそうなイントネーション。優しくて、あたたかくて、何度も聞いた、あの声。だけど今は、心をざわつかせる。
焦るように踏み出した足が、突然、バランスを失った。
「あっ——」
雪がざくりと崩れる。視界がゆっくりと傾き、体が宙に浮く感覚が襲う。重力に引き戻されるように、白い地面が迫ってくる。
ドサッ。
息が詰まる。痛みよりも、恥ずかしさよりも、先に来たのは、「終わった」という諦めだった。
「大丈夫か、ほまれ!?」
駆け寄る足音と、なつきの声。どこまでも真っ直ぐで、優しくて、あたたかい声。それすらも今は、痛かった。
触れられるたびに、ずっと押し込めてきた感情が、にじみ出てしまいそうで。
(痛……最悪……)
膝がずきりと痛んだ。服も雪で濡れて、じんわりと冷えていく。
でも、それよりもずっと、心が痛かった。
(……見られた。全部……)
視界がじんわりと滲む。顔を上げることなんてできそうになかった。
そのとき、目の前に、すっと手が差し出された。雪の中でほんのり赤くなった指先。なつきの手だとすぐにわかった。
ほまれは一瞬ためらう。けれど、その手がどこまでも自然に、どこまでもまっすぐに自分へ向けられているのがわかってそっと、その手を握った。
ぐっと力を込められて、ほまれの身体が起こされる。立ち上がるというより、引き上げられるように。重たい気持ちを引きずったまま、それでも足が地面に戻る。
ようやく、ほまれは小さく口を開いた。
「……どっから、聞いとったん?」
ほまれは顔を伏せたまま問いかける。声は震えていた。
「……どこからかな」
なつきの返事は、曖昧なようでいて、どこか優しい。
「おれ酔っ払っとっただけじゃけぇ……本気にせんとって……アハハ……」
ひどく乾いた、誰かの真似みたいな笑いだった。
(なっちゃんが大学生になってからもずっと隠しとったんに。あーあ……ほんましょうもないわ。さらば、おれの初恋。さらば、おれの友達)
「ダサいわ~おれ……忘れてぇや。なにやっとんやろ」
うつむいたまま、力なく笑う。
そのとき、あたたかな指が、そっと自分の手を包んだ。
「ほまれは、かっこええよ」
その言葉に、ほまれはバッと顔を上げた。なつきの瞳が、自分をまっすぐに見つめている。
まるで、逃げ道なんてどこにもないと言われているようで、心がざわつく。
……そんなこと、言わないでほしい。そんなふうに、やさしい顔で、見ないでほしい。
「ほまれ、受賞おめでとう。」
最初の言葉に、胸がじんとあたたかくなる。なつきの声は、やっぱり変わらない。まっすぐで、飾り気がなくて。ずっと聞きたかったはずの言葉なのに、それが自分に向けられていることが、どこか信じられなかった。
「ニュース見て、賞のこと知ってん。直接おめでとうって言いとおて。同窓会んときいつか遊びに来てって言うとったやろ。居てもたっても居られんかって、押しかけてしもうた、ごめん」
あのとき、確かにそう言った。けど、それはもう、遠い記憶のはずだった。忘れてるだろうと思ってた。
忘れててほしかったのかもしれない。
こんな顔で再会するつもりなんてなかったのに。
「俺な、ほまれがまだ小説書いとるのがいちばん嬉しかった」
胸が、ぎゅっと締めつけられる。やめてほしい。そんなふうに言われると、まるで自分が、誰かの期待に応えるために書いていたみたいじゃないか。
書くことしかなかった。ひとりきりの夜にすがるようにして、ほまれは文字を打ち続けてきた。
誰かのためじゃなくて、自分を繋ぎとめるために。
「ほまれにずっとのびのび小説かいてほしいって思っとる。何年先でも。爺さんになっても」
嬉しいはずだったのに。怖くなってきた。なっちゃんは、そうやってなんでも簡単に言う。傷ついたことなんかないみたいに、真っ白なままで。置いてけぼりにされた自分の時間を、その言葉ひとつで踏みならされるみたいで。
(ずるいな、なっちゃんは)
「そんときいちばんに読めるファンでおりたい」
なっちゃんの声は、優しい。そのやさしさが、今はつらい。
「ほまれの書く話が一番好きなんじゃ俺」
どこか嬉しくて、でも、どうしようもなく悲しかった。
なっちゃんは何も変わってない。
だからこそ、自分がどれだけ歪んでしまったかを、思い知らされる。
「……隣におらんでええって、そんな悲しいこと言わんでや」
——その言葉が、引き金になった。
頭の中に、あの日の記憶がぼやけた映像のように浮かび上がる。
心の奥底に封じ込めていたはずの記憶。
*
「ほまれ、神様はいっつも見とるよ」
あの頃、母はよくそう言っていた。でも、その神様は、いつも肝心なときには見て見ぬふりだった。
「ほまれくんのお母さん、オマエの家来た?」
「やばい人で話通じんかったらしいで」
「あー、わかった!」
「だからほまれくん嘘ばっかりつくんや!」
笑い声は冷たく、鋭く、突き刺さった。唇を噛み締めても、言い返す言葉はどこにもなかった。
——なつきの家へノートを届けに行ったときのことだった。玄関先で出迎えたなつきの母親が、曖昧な笑みで告げた。
「……わかってくれんかなあ?あんまり、なつきと遊ばんでほしい」
胸の奥で何かが音を立てて崩れた。
自分という存在が、なにか汚れたもののように扱われた気がして、息が苦しくなった。
おれを捨てた父親も、本当のおれを見てない母親も、くだらん噂ばかり信じる近所の大人も、透明なまま見過ごす教師も、「神様」も——大嫌いだった。
だから笑ってごまかしてた。どれだけ辛くても、なにも感じてないふりしてた。誰にも否定されんように、自分を消してきた。
——否定する勇気すら持てない自分が、一番嫌いだった。
それでも。
「ほまれ!」
なっちゃんだけは、変わらなかった。
みんなが避ける中でも、ただまっすぐに、名前を呼んでくれた。
変わらない笑顔で、自分をまっすぐに見てくれた。
——だから、好きになってしまった。
どうしようもないくらい。取り返しがつかないくらい。
(でも、なっちゃんに釣り合うわけない)
幼い頃から染みついた自己否定が、心の奥でささやく。
あんなに優しくて、まっすぐで、ちゃんとした家族に愛されて育った人に、
おれなんかが、隣に立てるわけがない。
(ただの昔の友達でおるんが、いちばんええ。
それ以上になろうとするのは、傲慢じゃ)
*
胸の奥からこみ上げた熱が、喉を焼くようにして飛び出していた。
「つ、釣り合う、わけ、なかろ……っ!」
涙がぼろぼと、頬をつたう。
「お……おれ、おれとちごうて、よおけ、選べるくせに……おれなんか選ぶなや!!」
心からの叫びだった。呪いのような、自分を貶める言葉を自分の口から叩きつけていた。
声が震えて、心臓が痛い。一瞬で顔から血の気が引いていくのがわかった。
やってしまった。言ってはいけないことを、言ってしまった。どうして、こうなる。どうして。どうして。
もう、全部終わってしまったのかもしれんない。
背中が縮こまる。目も合わせられない。地面が崩れて沈んでいきそうな感覚。そんな中——
「……確かに」
穏やかな声が、あっさりと返ってきた。びくり、と肩が跳ねる。恐る恐る顔を上げると、なつきはぽつりと、静かに言った。
「釣り合わんて思うのも、無理ないわ。俺、ただの読者じゃけえ」
(……は???)
まったく予想外の言葉に、思考が停止する。
ちがう。そうじゃない。そういう意味で言ってない。
涙まじりの視界がにじむ中、なつきの顔がぼんやり浮かぶ。真剣な顔で、しかしどこか呑気に、彼は続けた。
「あ、俺が書けばええか。」
冗談みたいに軽く、爆弾を投げてきた。
「そしたら作家同士になれる。Win-Win。」
沈黙。風の音すら止まったような気がした。
(……なんだその理屈)
ツッコミが脳内でこだまする。小学生か。何の話しよんじゃ。ぼろぼろ涙を溢す自分の目の前で、なつきは本気の顔をしている。
「ほんまはずっと、書いてみたかったんよ。ええ機会じゃ」
真っ直ぐな声が、染み込むように届いた。
「なあ、ほまれ」
名前を呼ばれたその瞬間、胸がぎゅっとなる。
「俺に、書き方教えてくれ」
たった一言。けれど、その中にどれだけの想いが詰まっているか、わかってしまった。心の奥が、じんわりと熱くなる。冷え切っていた場所に、火がともるみたいに。
(……なっちゃんは、昔から、ずっと真っ直ぐじゃなあ)
ずるいくらい、まっすぐで、嘘がなくて。
だからこそ、ほまれはいつも、自分のほうが情けなく思えてしまう。
いつだって、こうだ。この人の前では、逃げ場がない。
「……でも、さすがに文学賞は……一生かけても無理かもしれん。練習するけど」
至って真剣な表情。このマイペースさは、昔から変わってない。ほまれは、涙をぬぐいながら、思わず口を開いた。
「……やる前から諦めんなや!」
キッと睨んだあと、少し笑みが溢れて、声が震える。その笑顔には、もう後ろめたさなんてなかった。
「……おれ、なっちゃんの小説、読みたい。」
その言葉を口にした瞬間、自分の中の何かが、すっと軽くなった気がした。
やっと、伝えられた。素直な気持ちを。
ふたりのあいだに、ふわりと静けさが降りる。
*
雪は、まだ降り続いていた。
けれど、風は少しだけやわらぎ、世界がほんの少し、あたたかくなったような気がして。ふたりのあいだに、ほっとした沈黙が流れる。
遠くで車のクラクションがひとつだけ鳴ったとき、なつきが、ぽつりと呟いた。
「……書き終わったら、ちゅうしてもええんか」
ほまれの脳内で、何かが派手にショートした。
(…………はぁ!?)
目を見開いたまま、思考がフリーズする。やっと動き出した次の瞬間、全身がかあっと熱を持った。
「っ、!お、おれがチューしたいって言っとったんも……聞こえとったんか……っ!」
顔が、爆発音付きで真っ赤になる。湯気が出そうなほどに。でもなつきは、何がそんなに可笑しいのかよくわかってない顔で、首をかしげている。そして、あいかわらずのんびりとした口調で、
「うん。嬉しかったから、よく覚えとる。」
さらりと爆弾を追加してきた。
その一言で、ほまれの心臓は追い打ちをくらった。
(天然タラシっ…!!)
けれど不思議と、腹は立たない。
むしろ、どうしようもなく、愛しいと思ってしまった。
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