第一章 高梨なつき

鈴村ほまれを忘れたことはない

ほまれを、1日だって忘れたことはない。


どうしてかって、理由なんていくつも思い浮かぶけれど、それでも一番近いのは――ただ、心に残ってしまったんだと思う。

景色の奥に、音の隙間に、なにげない瞬間の端っこに。

ずっと、あの人がいる。


初めて出会ったのは中学生のころ。クラスで、どこか浮いている子がいた。周囲は彼を「変わったやつ」と遠巻きにしていて、「鈴村に話しかけると神の力がどうとか言われるぞ」なんて、よくわからない噂まで流れていた。


直接本人に聞いてみると、彼はちょっとバツの悪そうな顔をして、ぽつりぽつりと話し始めた。


「神様」の話。

正直、最初は何を言ってるのか全然わからなかった。でも、きっとそれが伝わったのだろう。途中から、急に話のトーンが変わった。


物語のようだった。


静かに、でも確かに彼の中からあふれ出すような語り。目の前で別の世界が開かれていく感覚に、息をするのも忘れてしまった。


面白い――


その言葉が、思わずこぼれた。口にした瞬間、彼ははっとしたように瞬きをして、少しだけ泣きそうな顔をした。


その顔を、今でもよく覚えている。


席が近くて、ある日プリントを渡すとき、ふとノートが目に入った。びっしりと書き込まれたページ。

授業の板書ではないと一目でわかった。


「これ、何書いてるん?」

「……ちょっと、読んでもらいとおて」


その一言に、心が跳ねた。

嬉しくて、胸が熱くなった。もらったノートを、家に帰ってすぐに読んだ。


あの日の「神様」の話の続きだった。でも、それだけじゃなかった。想像していたより、はるかに――はるかにすごかった。


言葉の流れ、世界の温度、登場人物のまなざし。何もかもが、息を呑むほど鮮やかで、綺麗で、怖くて。

ページをめくる指が止まらなくて、読み終わったあと、しばらく何も言えなかった。


こんなにすごいものを書く人が、本当に同じクラスにいるんだ。信じられない気持ちと、見つけてしまった気持ちとで、胸がいっぱいだった。


続きが、読みたかった。どうしても、読みたくて、ずっと楽しみにしていた。

「ほまれ、続き書けたん?」

「もうちょっと待って!」


そのやりとりが、ただの日常みたいになっていった。なのに、いつの間にか、彼は少しずつ遠ざかっていって――気づけば、避けられているような気さえしていた。


同窓会で再会したときは、本当に、本当に嬉しかった。変わらない声で、「バイト先、遊びに来てよ」と言ってくれて。


嬉しかったのに、不安もあって。

ほんとに行っていいのかな、なんて。


今も書いているのかな。書いていてほしい。もし、今もあの続きを紡いでいるなら。

どんな形でもいい、もう一度――読めたらいいのに。


彼から渡された、あのボロボロのノート。何度も読み返した、大切な宝物。東京に引っ越すとき、何より先にスーツケースに入れた。


鈴村ほまれを、1日だって忘れたことはない。


たった一冊のノートが、人生を変えてしまうことがある。

あのとき、出会ってしまったんだ。物語に、そして――鈴村ほまれという人に。

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