第3話 イノウ
四月下旬の夜風が火照った体をほどよく冷ましてくれる。
帰り道には河川の堤防の遊歩道を選んだ。
夜は依然として静かで、遠くを走る車の走行音がさざ波のように聞こえてくる。
河川に目をやると波の立っていない水面に欠けた月が映し出されている。
穏やかな時間だ。
それらは人間を数人殴り倒した助雨平の心の火照りも、冷ましてくれているようだった。
同時に、郷愁に駆られる。
家族は楽しくやっているだろうか。
東京で一人暮らしをつづけてしばらく経った。こういうときはいつも決まって家族のことを想う。
それを慰めるかのように夜風が背中をさすった。
河川にかかる大橋に近づく。それを越えれば家まで近い。
「播磨助雨平」
ふと背後から名前を呼ばれた。
それは透き通った少女の声。
振り返ると、黒いワンピースを着たやけに夜の似合う少女がそこにいた。
少女は、もう一度たずねてくる。
「あなた。播磨助雨平で間違いないわね」
「そうだけど」
「そう」
少女は淡々と受け答えをした。
しかし助雨平は彼女を知らない。
うっすらと月明かりに照らされる少女は同い年くらいに見えるが、首元で整えられた髪は夜よりも深い黒を艶めかせ、顔は小さく、ほんのりと赤い唇は小さく、細く小さな鼻は整い、なによりも少女の瞳が、冬の夜に見た星のように冷たくも美しかった。
助雨平は彼女のことを綺麗だと思ったが、それだけだった。
「俺になにか用で?」
「ええ。私はあなたに大事な用が――」「ッ!!」
助雨平はすばやく後方へ飛びのいた。
少女から距離を取り、そして驚く。
なぜなら、
「よくわかったわね。私が不意打ちするって」
――少女の右手から太くて透明な『触手』が生えていたから。
チンピラ相手にも臆することのなかった助雨平が冷や汗を垂らす。
「おいおい、どうなってんだ……」
理解ができないことばかり。
どうして彼女の手から触手が生えているのか。なぜその触手で自分を攻撃してきたのか。そもそも彼女はいったい何者なのか。
疑問は続々と尽きないが、得体の知れないモノを前にして本能は逃げろと警告している。だが退かなかった。
「あら、逃げないのね」
「弱くてダセえことはしたくねえんだよ」
――強く、かっこよく。
ただそれだけのシンプルな信念が、助雨平の脚を留めている。
「なにをかっこつけて……。あなた、早死にするわよ」
堤防の遊歩道に凛と立つ謎の少女。
助雨平は彼女の触手にむけて顎をしゃくる。
「なんだよ。ソレ」
「これが私の『畏能』。そして私は、畏能犯罪を裁く『畏能使い』」
「……イノウって。超能力かなにか……?」
「白々しい」
――『畏能』と、『畏能使い』。
普段から耳にする言葉ではないが、目の前の触手を見れば想像はつく。
おそらく超能力だろう。様々な物語の媒体にも登場しているからそれ自体は珍しいものではない。
だが、それらはあくまでもフィクションの中である。
現実の世界でそのようなSFじみたものは存在しない、と助雨平は思っていた。
彼女の右手がそれをノンフィクションにするまでは。
とにかく状況を整理したかった助雨平は、彼女に訊ねる。
「なんで俺を襲うんだよ」
「自分の胸に聞いてみたらどうかしら」
「……さっきの銭湯の一件か?」
的外れな回答だったのか、少女に冷めた視線を送られる。
「この期に及んで……。畏能による悪事を働いたことをもう忘れたのかしら」
「はあ? そもそも俺はイノウなん――」
不意に触手が薙ぎ払われた。
今度はかわせなかった。
それでも助雨平はとっさに腕でガードするも触手はまるでビルの鉄骨のような重量を思わせ、防いだはずの助雨平をそのまま強引に堤防から横の河川敷の方へとはじき落とした。
「あが、いっだぁっ!?」
堤防のコンクリートの斜面を転がり落ち、河川敷の草の上でなんとか受け身を取る。
少女は触手を、まるでバッタの脚のように折り曲げ、そして飛び、助雨平のいる河川敷に降り立つ。
対峙する二人。
「ずいぶんとタフなのね。腕の一本くらいへし折るつもりでやったのに」
「てめえ……話し合いもできねえのか」
「話し合い? 強さが対等の者同士の手段を、この場でする必要があって?」
「ははー、なるほど。高飛車、なるほど。もうわかった。じゃあこれから話し合うためにも――」
助雨平は拳を作り、構える。
「まずは拳で話をつけてやるよ」
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