それからしばらくして、大きな島影が見えてきた。あれが百済のある半島らしい。複雑な海底に船がひっかからぬよう、船頭や水夫かこらが声を揃え始める。博徳はかとこは、着岸後のやり取りに備えて石布いわしきの後ろでその様子を眺めていたが、ふと違和感をおぼえて周りを見渡す。船着き場の奥。隠れるように置かれた船に、次々と乗り込む老人や女子供が見えた。

「はぁ······滞在許可が出せない、というと?」

「先日文をお出ししたでしょう。嵐でやられて船が泊められないのです」

 降りた先で対応した港の役人はそう言った。周りに船が泊めてあるのに、だ。百済の言葉が分かるものは皆そう思ったが、大使を差し置いて発言するわけにもいかない。石布は複雑そうに眉を下げると、今後の行動を一旦考えさせてくれと言って船へ引き返した。

「どういう事ですか。嵐でやられたとは確かに聞いていましたよ? でもどこをどう見ても健全な港じゃないか」

 副使の吉祥きさがボスッと床に座りながら頬をふくらませた。第一船の大使の居室へ集まった石布・吉祥・稲積いなつみ・博徳は円を組んで似たような顔をしていた。

「大体、こんなに船が泊めてあるのに我々だけ追い返されるなどおかしいですって」

「そうそう。絶対何か裏がありますよ。ああ、百済の言葉ももっと勉強しておくんだった」

 吉祥と稲積は船の中で親密になったのか、互いに「ねえ」などと顔を見合せている。博徳は疲れた顔をした石布を横目に、どうしたものかと息をつくことしか出来なかった。

「石布殿、どうします?」

 稲積がそう問いかけたが、石布は何やら納得のいかない様子で黙り込んでいる。普段から共に過ごしている稲積でも物珍しく思うのか、「石布殿?」と心配そうな顔をした。

「······吉祥殿、博徳殿」

「はい」

「このあたりの港からきた商人と、話したことなどありますか?」

「いえ、私はここ最近京にいたので全然」

「うーん、僕もそうだね」

「······そうですか」

「何ですか石布殿。何かありました?」

「いえね。あの役人、この辺りの訛りではないような気がして」

 石布の言葉に、吉祥と稲積は「ええ?」と素っ頓狂な声を上げた。

「間違えて違う港についたってこと?」

「いえ、そういうわけでもないと思います。ないとは思いますが······」

 石布はそこで唸った。

「以前お伝えしたことはありましたっけ? 最近、新羅の港に唐の船が増えていると」

「ええ、聞きました」

「もう既に、動いていたとしたら」

 石布は縋るような目で皆を見た。

「新羅と百済の戦が、もう既に動いているとしたら······」

 皆が「あっ」という顔をした。

「百済と我々が手を組まないよう、新羅が小細工をしているってこと?」

「でもここは百済の港だよ。それならむしろ、我々へ救助要請が来てもいいんじゃないかな」

「そこに落とし穴があるのではないでしょうか。百済が倭と手を組んだと分かったら、新羅もまた他の国と手を組もうとするはず」

「他の国とは?」

 稲積が問うと、石布は白い顔で言った。「唐」だろうと。

「まずいなぁ。僕ですらまずいって思うね」

 稲積が頭を搔く。

「介入されたら負けたも同然ってことか。だから、百済は僕らとの接触を控えてるってこと? まだいまいち唐の大きさが分からないけどさ、僕は」

「でも百済は一人で新羅に勝てるのかな。強いよ、新羅も」

 吉祥の呟きには誰も答えを出せなかった。幾度となく戦ってきた二国だからこそ、今更どちらが優勢かなど判別がつかない。この時の使節団にとって、国が滅ぶというのはなんとも想像しがたい遠い話であった。

「どうしようもなくなれば、協力要請が来るかもしれませんね。あの役人、百済は百済でも都の方の言葉に思えたので、どうなっても良いよう中央から派遣されてきたのかもしれません。事が動く前に帰国出来ればいいですが」

 皆が困ったように天井を見上げる中、博徳だけは震える瞳で床を見つめていた。今更になって、葛城かつらぎの言葉が蘇る。

 ──今、唐が不穏な動きをしていることは知っているだろう。どうも、新羅と百済との諍いに首を突っ込みたいらしい。

 ──あの半島は抑止力だ。そこが唐に、あるいは唐と組んだ新羅に支配されたらまずい。

 今、新羅と百済はいがみ合いを続けている。倭は百済との交流を続けようとしている。しかし、唐が新羅と手を組んだらどうだろう。これは新羅と倭だけの話では無く、唐と倭の仲も危ぶまれるのではないか。

 とすると、これから唐へ渡る我々はどうなる。謁見させてもらえるかはもちろん、そもそも命さえ危険なのではないか。そんな中、私は木簡に記録を取らねばならぬのだろうか。見つかったら本当に殺される。石布くらいにならと思っていたが、もはや誰にも言う訳にはいかないのかもしれない。しかし、唐に見つかったら見つかったで、何も知らなかった石布たちのことを巻き込んでしまうのではないだろうか。それなら相談だけはしておいた方が······。

 ぐるぐると渦巻く思考を抑え込むかの如く、船に当たった波がザザンと砕けた。それを合図にしたかのように、石布が「ともかく」と話をまとめる。

「百済がこちらに深入りされるのを嫌がっているのは確かなようです。我々と手を組んだと思われるのが嫌なのか、新羅から圧力をかけられているのか、はたまた唐に知られたくないやましいことがあるのか。ここまで新羅の兵などが来ていない分まだマシなのかもしれませんが、どちらにせよあまり時間は無いかもしれません」

 石布はそこで言葉を区切ると、皆の反応を仰ぐかのように言った。

「一度、ここを離れて建て直しましょう」

「筑紫まで戻るのですか?」

「いえ、筑紫の人々にまた負担をかければ、朝廷への不満の一因となるでしょうからね。対馬のあたりまで引き返すのはどうでしょうか」

 遣唐使は大王おおきみの代理。大王への反感を作るのは御法度だ。しかし、船員もまた国の民であり、外交相手の心象もまた国の顔となる。誰の心も曇らせないよう全ての責任を負い、犠牲となるのはやはり大使らしい。石布の提案に反論する者はいなかった。








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