波に揺られて船は進む。嵐過ぎ去った対馬つしまの海は呆れるほどに穏やかだった。昼間にもなると書き留める事柄がなくなったので、博徳はかとこは格子窓の奥に見える船べりを眺めてみる。

 「文字を書くのに灯りもいるだろう」と石布いわしきが気を使ってくれたので、博徳は大使に与えられた小部屋に居候していた。他の船員や留学生たちは皆船底で足を抱えて眠っている。乗員が百を超えるのだから、仕方がないと言えば仕方がない。加えて唐への貢物や必要な荷物も詰め込んでいるので、足を伸ばせる場所など限られていた。それを思えば随分と楽をさせてもらっている。

「明日には百済かな」

 博徳が筆を置いたのを見計らったのか、石布が声をかけてきた。

「対馬も出ましたし、恐らくは」

「ずっとこのまま晴れているといいですね。どこの港に入るにも、波が高くてはどうしようもない」

 石布は少し様子をうかがうように外を見る。

「ああ、あの島は見たことがあるような」

 彼の視線を辿ると、遠く水平線に小さな島影が見えていた。百済のものだろうか。

「高句麗へ行った時に?」

「ええ、このあたりまでは同じ航路で。あとはもう少し北の方へ」

「心強いですね、実際に大陸へ渡った方がいるのは。稲積いなつみ殿もそんなことを仰ってましたが」

「いえいえ、海のことならば津守や伊吉の方が詳しいでしょう。それに、大使なら私より稲積くんの方が向いていると思いますし」

 チラと石布の顔をうかがう。彼は何か寂しそうな笑みで煌めく海面を見つめていた。

「私は人をまとめるのが苦手なんです。自分から話しかけるのもそうですし、指示を出すなど尚更」

 思い返せば、彼は大使と言えどもあまり命令口調を使わない。誰かを叱っているところも見たことがなかった。

「その点稲積くんは上手いんです。相手を威圧するでもなく窘めることが出来ますし、少し冗談でも言うかのように頼み事をすることが出来る。愛嬌とでも言うのでしょうか。私にはそれがないから」

「そんなそんな。稲積殿は稲積殿で、大使や氏上うじのかみを任せるなら貴方が相応しいなどと仰ってましたよ」

「稲積くんが?」

「ええ、石布殿の方がしっかりしていると」

 石布は少し驚いたように静止し、一拍おいて頬をかいた。

「そう思ってくれているのなら良かったです。少し不安だったんですよ。彼が私を疎んでいるんじゃないかって」

 石布は詳しいことを語らなかったが、博徳にはその理由が何となく分かっていた。例の氏上の件だろう。二人の表情を見ている限り、腹に何か抱えているのはあくまで周りの人間だけのようだ。これまで疲労の色ばかりみせていた石布の頬に、自然と咲く桃のような、柔らかな赤みが宿っている。

「今回の遣唐使に二人で選ばれて良かったと思ってます。家の人は気が気では無いかもしれませんが、私にとってはとても心強い。纏まらねばならぬのです、坂合部は。大王の真意はどうであれ、外交を任されるようになったということはそれなりに力も認められているのでしょうから」

 石布はそうとだけ言うと、後は博徳や吉祥のことを褒めるだけになった。他氏のことなど気にするなと言われればそれまでだが、博徳にとって、石布と稲積が互いに認めあっていると分かっただけでもほっとした。







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