その日の夜、遣唐使の重鎮──吉祥きさ博徳はかとこ稲積いなつみは、石布に呼び出された。輪になって座った四人の中心では、油を吸い上げる灯火だけがゆらゆらと揺れている。幾分か隈を濃くした石布は、憔悴したような面持ちで一つ微笑んだ。

「二日後、ここを立とうと思うのです」

「二日後? 急だね」

 吉祥がぱちくりと目を瞬かせる。

「さすがにこれ以上は港への負担が多すぎます。宗像むなかたの巫女も日和が良いというので」

「しかし米などはどうします? 干しいいも随分と減ってしまいましたが」

「百済でどうにか貰えないでしょうかね。高句麗へ行った時は、布などと引き換えに港の人々から施しを貰えましたが」

「唐への朝貢品以外であれば渡してしまってもいいかもしれないねえ。何だかんだ、海の上では助け合いだから」

 流れていく会話を聞きながら、博徳は筆を走らせていた。どうも癖になっていた。葛城と鎌足に書記官を頼まれてからというもの、毎日何かと書き記している。そうしていると、自分が置かれた状況について俯瞰することも出来る。今の状況があまり好ましくないのは誰もが分かっていた。この事業にかかわる全ての人々に負担が行っているのに、明確な怒りの矛先が定まらないので宙ぶらりんになっている。どこかで火種が爆発するのも時間の問題で、解消のためには些か強引だとしても誰かが動き出さねばならない。その決意をいち早く固めたのはやはり大使の石布のようであった。

 吉祥や稲積も焦りは感じているのか、石布の案に頷いた。とりあえずは意思を見せなくてはならない。地元の者に約束以上の負担をかけるつもりは無かったこと。海へ出る覚悟を持っていること。責任はこちらが取るべきであること。その気持ちを呑み込んでもらうには、ひとまず動いて見せねばならない。


 八月十一日。博徳は石布と共に第一船へと乗り込んだ。足止めをくらって熱意を持て余していた留学生るがくしょうたちの喜びようといったらなかった。水夫かこ訳語おさの中には、百済の港に泊まれるのかどうか不安そうにしている者も多かったが、ダメなら引き返せば良い。百済までの海路であればそれほど険しくは無い。その日のうちに引き返すことだって可能なのである。

 そう納得させて人員を詰め込んだ二隻の船は、安堵の表情を浮かべた筑紫の者たちに見送られて倭を発った。難波にいた時よりも留学生の数が減っている気がしたが、それには気付かないふりをした。内海での船酔いにやられた者もいれば、父母への恋しさに足を引き返した者もいる。全く事が進まない状況に痺れを切らした者もいた。何も出来ない空白の日々がひと月もあったのだ。彼らには考える時間があった。むしろ考える時間しか無かった。それが彼らの決意を生んだ全てである。博徳らが口を挟むことなど出来ようか。石布が取った行動は、ただ話を聞いて頷くことだけだった。

 

 





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