六
「来て頂けて嬉しいよ」
訪ねた先の長丹は誇らしげだった。頼られるのが好きな性格なのかもしれない。先程から下男に声をかけては手伝えることはないかと聞いて回っていた。
「まず、此度は遣唐使への任命おめでとう」
「ありがとうございます。
「大丈夫大丈夫、最初はそんなもんさ」
長丹は頷いた。
「録事ならば墨を溶くための水を筒に入れていくといいね。船の上では真水が貴重だから、最悪飲水にも出来る。墨は最悪海水でも良いが、喉を潤すために塩水を飲むと余計に喉が渇くよ」
聞いてもいないうちに色々な情報を教えてくれる。さながら師になった気分なのか、心底嬉しそうだった。その後も、質問をしようがしまいが長丹は様々なことを教えてくれた。船の上では朝服を脱いで替えの服を着ておいた方が良いこと。香があれば尚良いこと。月や太陽の他に北斗が航路の目印となること。皇帝にされる問答の内容。博徳は聞いたこと全てを自前の木簡に記録した。それだけでも十数枚に及んだ。
「さて、色々と知りたいことは知れたかな?」
「はい、私達だけでは気づかなかった助言もありました。ぜひとも参考にさせていただきます」
「うんうん、それは良かった。皆には無事に帰ってきて欲しいからね」
長丹は一口水を飲むと、初めて鼻高な顔をといた。現れたのは誠に優しく、それでいて寂しそうな笑みであった。
「最後に一つ、良いかな」
「ええ、もちろん」
長丹は少々言い淀むと、「君たちを怖がらせるつもりは無いんだが」と冗談のように肩を竦めた。しかし、瞳に灯る愁いは隠し切れていなかった。
「これだけは覚えていて欲しい。いや、覚悟しておいて欲しいの方が正しいかな」
「はい」
「遣唐使はね、死ぬも生きるも地獄だよ」
記録を取ろうとしていた手が止まる。真っ直ぐに見つめた長丹の顔が、悔しさにも似た色を灯して笑っていた。
「僕達はまだ良かった。知らなかったで済まされた。でも、第二船で生き残った人達は違った」
白雉四年の第二船。博徳の記憶にも残っている。あの代の遣唐使は、博徳らと同じく二隻の船で海へ出た。異なっていたのは、どちらの船にもそれぞれ大使と副使が決められていたことだった。博徳はその理由を知らない。しかし出港後しばらくして、第二船の一部船員が薩摩の西にある島へ漂着したとの知らせが入った。都は大いにざわめいた。第二船に父や夫を乗せていた女性達が、泣き叫ぶように無事を問うていた。朝廷は生存が確認できている者の名を言うだけで精一杯だった。遣隋使派遣以来、初めてだったのだ。これほど大規模な海難事故が発生したのは。
都に戻ってきた数人の生存者のうち、
「先に唐へ着いていた僕達は何も知らなかった。根麻呂たちもこちらへ来てくれると信じていた」
長丹は目を伏せて呆れるように口の端をあげた。
「諦めて帰国しようとした折、唐へ新たな船が来たと聞いて喜んだ。第二船に違いないってね。そうしたら、中心にいたのは
翌年に派遣された白雉五年の遣唐使のことである。第二船の失敗を受けた朝廷は、急遽新たな船を造って大海原へと送り出した。先頭を務めたのは、
「長丹殿は道中大丈夫だったのですか?」
「ああ、僕たちの船は新羅を経由したからね。これは内々のことなのだけれど、根麻呂の船は密命を受けていた。新羅との関係が危うくなってきたから、別の海路がないか南の方を探らされていたんだ。大使が二人いたのはそれが理由さ。どちらが上手く唐へ辿り着くか分からなかったからね。結果はこの通り」
長丹は自嘲するように肩をすくめる。
「君たちが、皇太子さまや内臣から何を言われたのか分からない。詮索する気もない。でも、もしあの時のように朝廷から秘め事を仰せつかったのならそれだけの覚悟をして欲しい。遣唐使は地獄を見る。しかし周りには伝わらない。だから仲間を大切にすると良い。同じ地獄から這い上がれるのは、同じ船で地獄を見た者だけだよ」
長丹はそれ以上地獄について語らなかった。何か聞いても、前の通りにうんちくを綴るだけだった。博徳は深く礼を言って屋敷を後にした。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます