翌日、来客があった。例の木簡もっかんを眺めてため息をついていた博徳はかとこは、慌てて文机の下に麻袋を隠す。三奈子みなこに連れられてきたのは稲積いなつみだった。

「すみません、先日きちんとご挨拶出来なかったもので」

「ああ、気にしなくて良かったのに。私の方こそ改めてご挨拶に伺えば良かったですね」

「いやいや、石布いわしき殿も喜んでましたよ。お二人に来て頂けて。そうそう、石布殿から伝言なのですが、出航は秋の七月だそうです。宮にて我々四人で節刀せっとうを授かりまして、そのまま難波津なにわづへ移動せよとのことです」

 七月か。嵐が多くなる時期だ。しかし、唐に朝貢している以上、あちらの朝賀の時期に合わせなくてはならない。こちらの都合で決められるものではなかった。

 それからいくつか問答を交わすと、稲積は一息ついたように胡桃を口にした。

「いやぁ、俺でさえこれだけ忙しく感じるのに、石布殿は凄いですよ。家のことも遣唐使のことも取り仕切っておられる」

「そういえば、石布殿はじきに氏上になられる御方なのですか? 先日御屋敷へ伺った際、そのような噂話を聞きまして。いえ、盗み聞きするつもりはなかったのですが」

「······そうですか。女性でした?」

 ふと稲積の声が低くなった。いつも朝日のような声音だったゆえに、博徳は水を飲もうとした手を止めた。

「ええ、女性でしたが」

「あー、家の者がまた余計なことを言っている。別に誰が氏上うじのかみだろうが変わらないのに」

 稲積が呆れたように天井を仰ぎみた。

「いやぁ、無関係な博徳殿に聞かせる話でもないんですが、そうかぁ。実は先日、うちの氏上が亡くなりましてね。次の氏上が決まっていないのですよ。血筋で言うならば石布殿が嫡流なのでそれでいいと言ったんですがね。周りに俺を推す者が出てきてややこしくなってしまって」

 稲積は心底疲れたように項垂れた。

「俺は石布殿が良いと思うんですよ。博徳殿も少しずつ分かってきたでしょう。石布殿はしっかりしているから俺なんかよりずっと大使に向いている。俺はダメですね、ふらふら遊んでばかりで何にも身になってない」

 先日、坂合部の屋敷で見た稲積の姿が蘇る。遊んでばかりだというが、あれほど子供達に好かれるのも才能だと思う。

 ──稲積殿が大使になられると思ったのだけれど。

 屋敷で聞いた言葉を思いだす。同時に、疲れた笑みをたたえる石布の顔が頭に浮かんだ。

「ああ、すみませんね。あまり気にしないでください。では、また何かあれば」

 黙り込んだ博徳に気を使ったのか、稲積はそんな風に締めくくって帰って行った。背中を見送っていると、妻の三奈子が寄り添ってくる。

「やっぱり大変ですのね、坂合部の御屋敷」

 以前聞いた話のことかと問いかけると、「何だかもっと複雑らしいですよ」と返される。

有間皇子ありまのみこさまの一件以来、どうもピリピリしてるみたいなんです。氏上の候補だったくすり殿が流されてしまったから、後釜の石布殿派と稲積殿派で二分されているようですよ」

「······どこで聞いてきたの、そんな話」

「あら、気づいてませんの? うちの弥央みおは石布殿の娘さんとお友達ですのよ」

 初耳だった。我ながら、最近仕事にかまけすぎていたと反省する。

「父同士が遣唐使だからと仲良くなったらしいの。それで、坂合部の御屋敷までお迎えにあがることがあったのですけれど、その時色々耳に入りまして」

 三奈子は家の中へ入るよう促しながら、少々声をひそめて言う。

「ほら、稲積殿はあの通り人脈があって機転の利く御方ですから、坂合部の人たちの間でも人気だそうで。それで傍流ながら氏上の候補にまで上がっているらしいのですけど、それで面白くないのは石布殿の身内です。石布殿は稲積殿よりも聡明でいらっしゃって、血筋も良い。けれど少々優柔不断なところがおありで人付き合いも苦手なようだから、どうしても稲積殿を慕う人達からすると氏上としては不十分だと言われるようで」

 よくもまあそこまで聞いてきたものだ。しかし、二人の様子を思い出して心がぐるぐると渦巻いた。稲積は純粋に石布を慕っているようだった。石布も、邪念などなく稲積のことを認めているようだった。二人の間にまだ見えない心底があるのか、はたまた本人たちの意志とは裏腹に周りが二分されているだけなのか。

「まあ貴方は貴方として役目を果たしてください。共に遣唐使として海を渡るのならば、双方と友好にしていただければ」

 最もなことを言うと、三奈子は「そうそう」と話題を変えてしまった。

「遣唐使の仕事に関して、詳しい御方を見つけたの。会ってみては如何です?」

 三奈子の提案に、博徳は首を傾げた。

「詳しい? 名前は?」

吉士長丹きしのながに殿です。先日奥様と市場で一緒になりましてね。聞きたいことがあれば相談に乗るとおっしゃってくださったの」

 吉士長丹というと、白雉はくち四年(六五三年)に派遣された遣唐使第一船の大使だ。吉士氏は遣隋使の時代から大陸や半島の外交に携わっている一族で、長丹に関しても一族の実績が買われたのだと思われる。確か、当時の第一船の副使も吉士の男だったはずだ。遣唐使派遣はまだ二回目であったので、朝廷も力を入れていたのだろう。第一船を任された彼らは見事役目を果たして帰国した。帰国はしたわけだが······。




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