それからふた月が経った。飛鳥はもう既に春の終わりに差し掛かっていた。難波に用意されていた二隻の船は既に海上での試運転に入っている。今のところ、不具合はないという連絡が博徳はかとこの耳にも入っていた。

 あれから、石布いわしきをはじめ遣唐使の顔に選ばれた四人は、留学生るがくしょう留学僧るがくそう希望者への対応や、船の割り当て、荷物の整理、航路の打ち合わせなど、てんてこ舞いな日々を送っていた。海上のことは船師ふなし水夫かこに任せるつもりなのか、意外にも葛城かつらぎ鎌足かまたりが口出ししてくることは無かった。むしろその静寂が気味悪く、博徳らは気が気でなかった。静かな春はそれから十日ほど続いた。


 三月に入ると、桜も散る頃だというのに雪が降った。その翌日、何やら鎌足が動く気配がした。博徳の家を再び訪ねてきた使者は宮へ来いという。しかも今度は一人だけで、だ。指定された部屋へ通された時には、既に葛城と鎌足がいた。向こうが先に入室しているとは思っていなかった。

「突然呼び出してすまない」

 話し始めたのはなんと葛城であった。博徳の驚きは二重にも三重にも膨れ上がっていた。一体何を言われるか分かったものではない。しかし、頷くこと以外に何が出来よう。博徳はただひたすら平伏した。

「文字を書くのが得意らしいな」

 誰から聞いたのか、葛城はそう続けた。

「仕官している者の中でも、とりわけ早筆で間違いがないという。議論の席でもお前が率先して記録をつけるとか。相違ないか?」

「······はい。稚拙ではありますが、文を書くのは好きです。皆にそのようなことを言われているとは存じ上げませんでしたが」

「そうか。噂されるのならばそうなんだろう。何もなしに煙が立つことはない」

 葛城が視線を流すと鎌足が何か取り出した。博徳に差し出されたそれは、大きな麻袋だった。

「使え」

 恐る恐る受け取ると何やらカラカラと乾いた音がする。袋越しの感触だけでも、博徳には何が入っているのか理解出来た。大量の木簡とっかんだ。数十枚という量ではない。数百枚はあるのではないか。

「貴方には、此度の旅程の記録をとっていただきたいのです」

 鎌足が言った。

「船の状態、出航時の様子、海路の善し悪し、各団員の動向、唐でのやり取り等。必要だと思われるものは全て記録し、持ち帰ってください。我々が主体となって派遣する遣唐使はこれが初めて。今後の指標となりましょう」

 そうか、と博徳は思った。初めて派遣された遣唐使は蘇我そがが政権を握っていた頃の話。その後も二度の使節が派遣されたが、先代の軽大王かるのおおきみの影響が強かった。葛城や鎌足は、我々をある意味実験台にしているのだろう。

 博徳はやはり平伏するしかなかった。荷は重いが、見たものをそのまま文字に留めおくことは好きだった。その強みを生かせるのならば悪い仕事ではない。ここは引き受けるのが妥当だろう。

 しかし、承諾しても葛城は退出を促そうとしなかった。しばらく不自然な静寂が流れたが、突然後方から人が消えた。鎌足が護衛を下がらせていた。一体なんだと身構える間もなく、鎌足が代わるように博徳の背後へ立つ。

「そこで、だ。もうひとつお前に頼みがある」

 葛城が獅子のような目を細めて笑った。その瞳は、暗闇の中で艶やかに炎を反射させていた。

「公的な記録とは他に、もう一つ文書の作成を頼みたい。これはお前だけに頼む仕事だ。今、唐が不穏な動きをしていることは知っているだろう。どうも、新羅しらぎ百済くだらとの諍いに首を突っ込みたいらしい。ある意味あの半島は抑止力だ。海の向こうの獅子がこちらへ渡って来ぬための壁だ。そこが唐に、あるいは唐と組んだ新羅に支配されたらまずい」

 葛城が足を組むと同時に、背後の鎌足が一歩こちらへ近づいた。博徳の真後ろにしゃがみこむと、「あとは分かりますね?」と息を吹き込むように囁いた。

「唐と新羅が何をしようとしているのか、探ってきていただきたい。何も命をかけろとは言いません。帰ってきてこその遣唐使。記録を持ち帰ってこその任務です」

 背をなぞるような声に息が震えた。何と恐ろしい。そんなもの、密偵も同じではないか。

「無事に記録を持ち帰ったあかつきには褒美をやろう。これは海と記録に長けたお前にしか頼めない仕事だ。周りには、公的な記録を取らせているのだと言っておく。お前も何か聞かれたらそう答えろ。さて、やってくれるな?」

 鎌足が逃さぬと言いたげに博徳へ頭を垂れた。葛城はただ口の端をあげて微笑むだけである。

 ふと、ここで断ったらどうなるのだろうという感情に支配される。それは恐怖でもあり好奇心のようでもあった。密偵など、唐にバレたらどうなるか分かったものではない。しかも一国の正式な使節としてやり遂げろというのだ。商人に紛れて潜り込むのとは訳が違う。それ故に軽々しく頷くことは躊躇われた。しかしだからといって断れるわけもなかった。この場に出向いてきてしまった以上、博徳がとれる答えは一つしかないのだ。

「承知仕りました。臣伊吉史博徳おみ いきのふひとはかとこ、誰にも口外せず、任務を果たすと誓いましょう」

 些か声が震えたのが伝わっただろうか。葛城と鎌足は満足そうに頷いた。二人からの応えはたったのそれだけであった。

 





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