それっきり、博徳はかとこは皆に会うことがないまま年明けを迎えた。その頃になれば有間ありまの噂もすっかり勢いを失っていた。人の記憶などこの程度のものだった。

 代わるように、難波なにわで大型の船が二隻用意されているらしいとの巷談が入ってくる。遂に新羅しらぎ征討かと豪族たちが騒ぎ出したが、それを見越したかのように遣唐使派遣が発表された。実に鮮やかな話題の転換であった。

 博徳らも正式に呼び出され、第四次遣唐使に任命された。大使は高句麗こうくりへの渡航経験もある坂合部石布さかいべのいわしきとされた。副使は津守吉祥つもりのきさである。大王からそう任じられた以上、任命の理由を深く詮索する気にもなれなかった。

 遣唐使への任命は、妻の三奈子みなこにも伝えた。ひどく驚いた様子だった。しかし、切り替えの早い彼女ゆえ、直ぐに「出航は?」と問いかけてきた。

「今年の秋頃かと思う」

 葛城かつらぎ鎌足かまたりから詳しい日程は伝えられていない。今はそう答えることしか出来なかった。

「明日、大使殿のところへご挨拶に行ってくるよ。坂合部の御屋敷かな」

「どうかお気をつけて。有間皇子さまの一件以来、坂合部の方々に対する噂も絶えませんし。石布殿は気の良い方だと聞いておりますが」

 はて、いつの間に石布の性格など調べていたのだろう。女性の情報はあっという間に回ると聞くが、この三奈子はとりわけ耳が早かった。博徳は少々尊敬の念を抱きつつ、心地良さげに眠っている我が子を見た。大きい方が姉の弥央みお、小さい方が弟の古麻呂こまろである。実の娘は弥央だけだ。古麻呂の本当の父は博徳の兄なのだが、先日亡くなってしまった。それゆえ博徳の子として引き取っている。掛布から足をはみ出している二人に苦笑しつつ、博徳は布の端を整えてやった。まだ十にも満たぬ子らの伸びやかさだけが、博徳と三奈子の今一番の幸せであった。

 


   *



 翌日、博徳は副使の吉祥と共に坂合部の屋敷を訪ねた。大使に任命された石布に挨拶をするためである。石布が指定した時刻に到着したはずだったが、坂合部の家の前には長蛇の列が出来ていた。そのほとんどが若々しい男であったが、皆一様に剃髪していた。それも今しがた剃ったばかりのように青々しかった。寺でもない一氏族の屋敷に少年僧の丸い頭が並んでいる光景は異様にも思えた。

 博徳らが要件を伝えると、使用人は慌てて前へ前へと案内する。

「皆々様、道をお開けください。使節の方々が優先です」

 がやがやと押し合い圧し合いを続けていた少年たちがピタリと動きを止めた。次の瞬間、「遣唐使の方々じゃ」などと言いながらこちらへまとわりついてきた。

「どうか私を唐へ」

「唐語なら練習しておりまする」

「私は星が読めるのです」

「私は経をいくつも覚えました」

「あ、こら押すな、僕が先に······」

「遣唐使さま、私は僧などではなく学者の卵として······」

 一斉に喋りだした少年たちに目を丸くしていると、使用人は構うなと言いたげに「ささ」と背中を押す。人波に揉まれながら屋敷の中へ通されると、石布が客間で待っていた。

「すみません、お待たせしてしまいまして」

 石布は、以前にも増して顔色が悪いように見えた。

「皆、留学僧るがくそうの希望者ですか」

「ええ、そのようです。私の一存で決められることでは無いのですが」

 遣唐使の船には、彼の地で知識や技術を学ぶ留学生るがくしょう・留学僧も付き従う。とりわけ留学僧は唐で受け入れられる人数も多く、留学生より選び抜かれる確率が高かった。そのため、本来留学生でも良いはずの氏族の子弟が一様に頭を丸め、こうやって大使となった者の家へ機嫌を伺いにくるのである。

 戦の噂もあるというのに勇ましいものだ。そこまでして学問をしたいのか。はたまた、氏族側が大陸とのコネを繋げたいのか。いずれにせよ、博徳は呆れ半分に感心する他なかった。

「船の件ですが、我々坂合部二人が分かれる形で乗ろうと思うのですが」

「我々は一向に構いませんよ。恐らく大使である石布殿と副使である私は分かれるだろうから、第一船に石布殿と博徳殿、そして第二船に私と稲積いなつみ殿ですかね」

 船は二隻という話であったので、それが妥当だろう。正直博徳はどちらでも良かった。

 ひとまずは当たり障りのないやり取りをしていたのだが、ここで屋敷の外から弾けるような笑い声が響いてきた。

「ああ、丁度良いところに稲積くんが帰ってきましたね」

 石布に釣られてちらりと外を覗き見ると、坂合部の一族なのであろう子供たちの中心で稲積が軽やかに笑っていた。さながら皆の兄といった具合で、慕われているのが一目瞭然であった。

 せっかくならばと促され、博徳と吉祥きさは稲積にも挨拶をしていくことにした。まだ四つほどの女児を持ち上げながらあやしていた稲積は、二人に気づいて「これはこれは!」と歯を見せる。

「決まりましたね! 船の割り当てなど聞きましたか」

「ええ、今丁度石布殿にご挨拶をしたところで」

「それは良かった。遣唐使というのは海に出る前から忙しいのですね。まさかここまで留学志望の小坊主たちが押し寄せてくるとは思いませんでしたよ」

 青白い顔をしていた石布とは対照的に、稲積はどこまでも明るい男だった。

「兄上! もう一回抱っこ!」

「ずるい! 稲にぃ僕も!」

 挨拶を交わす間もなく子供たちが稲積へと群がる。稲積は「おっとっと」などと押し合いへしあいにのまれていたが、気まずそうに頭をかいて笑った。

「すみません、今度僕の方から副使殿のお宅にもご挨拶に伺いますよ。多分石布殿の方へ内臣から詳しい連絡があるはずなので、それが分かってからでも」

「あはは、随分と慕われているんだね。いいよいいよ。こちらこそきちんとご挨拶出来なくて申し訳ないですしね」

 吉祥と博徳は微笑ましそうに手を振りつつ坂合部の屋敷を後にしようとした。しかし、門の辺りで子供の声に紛れるように呟かれた言葉が耳に入る。

「この間の高句麗の件だって、稲積殿が大使になられると思ったのだけれど」

「無事に帰国したら氏上も石布殿になるのかしら」

 妻か下女かも分からぬ様相の女二人が、採れたばかりの葉物を抱えながら稲積を見ていた。気になるところはあったが、博徳も他家のことに首を突っ込むつもりはない。吉祥に続くようにしながら、何食わぬ顔で門を出た。








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