「もし、本当に大王おおきみや皇太子さまが使節を出すおつもりなのだとして、船の噂は聞いておりますか? 私は全く耳に挟んでいないのですが」

 唐へ渡るとなれば、それこそ大掛かりな準備が行われる。近江おうみ安芸あきといった各国で数多の木が切り倒され、匠によって二隻の船が造られる。もちろん携わる人員も多ければ、協力を仰がねばならぬ地域も多い。これまでも、大抵はこの造船事業によって遣唐使の派遣が外部に漏れていた。ところがである。早くて半年後の派遣を予定していると言っていた割に、今回造船に関する噂は全く流れてこなかった。

「ああ、そういや聞いていないな。何故でしょう? 普通なら噂になるはずなのに」

 稲積いなつみは頭をかいた。どうも癖らしい。石布いわしきも「さあ」と首を傾げたが、吉祥きさだけは少々青い顔をしていた。

「吉祥殿? 何か」

「い、いやぁまさか、そんな。何でもありません。ただの妄想です、全て」

「妄想でも良いのです。何かあるならば話していただければ。これから共に海を渡らねばならぬやもしれない間柄です」

「それはそうなのですが、······内臣うちつおみの耳に入れたりしないと誓ってくれますか?」

 吉祥は怯えるように念を押した。自然と皆の顔が寄せられていた。

「実は造船など既に始まっていて、それを漏らさないために違う事柄が動いたのではないかと」

「違う事柄というと?」

「今、巷を騒がせている噂といえば一つしかないでしょう。例の有間皇子ありまのみこさまの一件ですよ。つ、つまりですね」

 吉祥は周りを気にしながら肩をすぼめた。

「船の話を隠すために、有間皇子さまが排されたのでは」

「まさか」

 稲積が顔を強ばらせて笑った。

「そこまでして、なぜ遣唐使を内密にする必要があるんです?」

「それは······」

「新羅ではないでしょうか?」

 博徳はかとこの中で、ひとつの可能性が導き出されていた。

「新羅とはどういうことです? 博徳殿」

「いえ、私も詳しくは知らぬのですが、どうも最近新羅の動きが怪しいらしいのですよ。まだ水面下ではありますが、対新羅政策についてどうも朝廷内で分裂が起きているようで」

「あ、ああ、確かに。我々 津守つもりの間でも噂になってますよ。一部氏族の間では既に戦でもやるのではないかとの話で」

 吉祥の家である津守氏も、古来より航海術を強みとしており海の事情には聡かった。博徳の伊吉いき氏も渡来系の血筋にあり、大陸のことにはそれなりに敏感である。ところが、この時共に居た石布は頭一つ飛び抜けていた。何を隠そう、四年前に朝鮮半島北部の高句麗こうくりへ派遣された使節の副使だったのである。それゆえ博徳の言いたいことを直ぐに察したようだった。

「······少し前に話題になったでしょう。亡くなられた左大臣の進言。博徳殿はそこにも繋がるとお考えなのでは?」

 左大臣とは巨勢徳多こせのとこたのことである。噂によると、かつてはかの蘇我入鹿そがのいるかに仕えていたらしい。忠犬と馬鹿にされるほどの彼がなぜ乙巳いっしの年の政変にて入鹿へ反旗を翻したのか、真相は分からない。しかし、改新政権側についた後も、軽大王かるのおおきみや鎌足に対して反抗的な発言をしているところを度々見かけたことがあった。

「新羅を今のうちに討つべきです。彼らは必ずや災いの種となります」

 徳多がそう進言したことは有名だった。もう七年も前の話である。それこそ、前々回の遣唐使が派遣される少し前のことであった。

「徳多はかつて蘇我に仕えた身。それゆえに進言するのです。大陸のことは早めに対処せねばなりませぬ。対外政策に長けた蘇我に仕えていたからこその忠告でございます」

 徳多の発言は結局反映されなかったと聞いている。まあ、博徳としても執拗に新羅を刺激するべきではないと思う。しかしながら、蘇我が大陸の情勢に聡かったことは確かで、その実力を新政権が欲していたのも確かで、一概に徳多の進言が外れているわけでもない。博徳は、徳多の話題からさらに話を広げた。

「亡き左大臣殿がおっしゃったように、蘇我は未だ大陸のことに敏感です。現在蘇我の中で皇太子や内臣に接近しているのは赤兄あかえ殿かと思いますが」

 そこまで言うと、吉祥と稲積もなるほどと目配せをした。

「確か、有間皇子さまの謀反を密告したのは蘇我赤兄殿」

「かねてから有間皇子さまとは親しくしていたはずなので、ここで裏切るとは惨いことをすると思ったけれど、まさか全て大陸のことを見ていたのですか? 彼は」

 正直、博徳からしても憶測に過ぎなかった。今伝えたこと、全てが想像の域を出ない。しかし葛城にとって、さらに言えば母たる大王や側近の鎌足にとって、有間などはなから皇位継承の宿敵であったはずなのだ。しかし、何故今なのか。何故、今さら謀反などと騒ぎ立てたのか。

「高句麗へ行った時、少々不思議だったのです。どうも新羅の船が頻繁に唐の港に出入りしているようで、······いや新羅船の出入りが多いのはいつものことでしょうけど、それにしても行き来が多いと」

 話を掴んだらしい石布が付け加えた。唐と新羅が怪しい動きをしている以上、遣唐使派遣に反対する人々も大勢出てくるだろう。船を造っていることが広まれば、やれ遣唐使だ、はたまた戦だと混乱するに違いない。葛城や鎌足はそれを予測し、造船がばれ始めそうな頃合いを見て赤兄をけしかけたのではないか。そんな確証のない筋書きが博徳の中を巡り、些か恐ろしくなった。

「船が出来ているとすれば、乗らざるを得ないのでしょうね」

 石布は不安そうだった。稲積は石布の背を擦りつつ、困ったように肩をすくめる。

「まあ、断れないですよ。我々坂合部は特に。まだ大使が誰だとかそんなことは分かりませんが、特に僕なんかは海に詳しいわけでもないですからねぇ。なぜここで一緒にされたのかを考えるとね、断れる立場ではないからでしょうね」

 ここへ集められた時、坂合部の二人を見た吉祥は連座じゃないかと怯えていた。石布や稲積にとって、その推測はあながち外れではなかったようだ。当の発言をした吉祥は気まずそうに頬をかいたが、どこからか聞こえた遠吠えに「あらら」と空を見上げる。

「まずい、立ち話をしすぎましたね。怪しまれたでしょうか?」

「いいや、こんなに寒くて誰も歩いてないんだ。大丈夫でしょう」

 辺りにはやはりひとけがない。四人は笑顔を取り繕うと、今日はここで別れることとした。

「正式な発表があれば、大使となった人の家にご挨拶に行きましょう」

「ええ、それまでは内密に。例え顔を合わせても知らぬふりを」

 






  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る