第一章「大和」


 博徳はかとこの記録によると、事の始まりは斉明天皇四年(六五八年)冬のことである。その年の瀬は非常に忙しなく、たった一つの噂話ばかりが人々の間を駆け巡っていた。

有間皇子ありまのみこさまが死んだ」

「謀反を企んだのだろう?」

「絞首刑だとよ。中大兄皇子なかのおおえのみこさまも飽きないねえ」

 人の噂とは水のように流れ、走り、積もり、広がるのだろう。この時の博徳も何となく、淡い理解だけはしていた。有間皇子は先の軽大王かるのおおきみ(孝徳天皇)の皇子であった。現在大王となっている宝皇女たからのひめみこ(斉明天皇)から見れば甥にあたる。努力家で穏やかな有間は広く人々を受け入れるためか、豪族からの支持も厚かった。謀反を企むような人間ではないと、博徳も思っていた。

 しかしながら、彼が皇太子の座を狙っているとの密告があり、藤白坂にて首を括らされたのだという。無罪だと主張する者もいたが、ここ数日でめっきり姿を見せなくなった。いや、見せられなくなったという方が良かろうか。つまりはそういうことである。そういうことなのだと思われる。


 しかし、彼らの話に首を突っ込むほど皇子たちの動向に興味は無い。仕官している以上、己と切り離すことなど出来ないのだろうが、この国に仕えている者など数多いる。中小氏族の男一人など、案外蚊帳の外だ。蚊帳の外であるはずだったのだ。妻の三奈子みなこに彼の訪問を告げられるまでは。

内臣うちつおみからの使い?」

「ええ、今すぐ宮に来て欲しいと」

 内臣。それは今最も中枢に近い男で、名を中臣鎌足なかとみのかまたりという。散々人々の間で話に上がっていた皇太子・中大兄皇子の右腕だ。博徳は折り入って話をしたことなど一度もない。認識されていたつもりさえなかった。もしや何か粗相をしたか、はたまた連座か。有間の噂ばかり耳にするゆえに心中穏やかではなかった。

「私は信じておりますよ。きっとお褒めに違いないってね」

 三奈子は強い妻だった。博徳が生まれた伊吉いきと同じく、外交に長ける河辺かわべ氏の娘だった。海を知る者は強い。かつて父にそう言われた。三奈子の言葉はいつも父との思い出を彷彿とさせる。

 褒められるようなことをした覚えもないが、三奈子を不安にさせたくは無いので礼だけ述べて宮へ向かった。日暮れの頃ゆえに人は少なく、衛士えじの篝火だけがポツポツと薄闇に光っている。そのうち、指定された灯火の傍には三人の先客がいた。二人は顔を突き合わせて言葉を交わしており、もう一人は十一、二歩離れて突っ立っている。博徳が近づくと、独りでいた男が「やあ」と気さくに話しかけてきた。

「貴方も呼ばれましたか?」

「ええ、まあ」

「お名前は? 僕は津守つもりのもので、吉祥きさと申します」

 津守吉祥というらしい男はまろい目をくしゃりと細めた。博徳が名を返すと、「ああ、伊吉、伊吉! 少し安心した」などと返される。

「いやねぇ、あまり大きい声では言えないけどさ。向こうのお二人、坂合部さかいべだと言うから」 

 同じく集められたらしい残りの二人は遠目にこちらを窺っている。が、耳を傾けるような仕草はなかった。

「坂合部だと何か問題が?」

「あれ、聞いていない? 有間皇子さまの一件」

「噂になっていることくらいしか」

「なるほどなるほど。実はね、左遷されたのですよ、坂合部薬さかいべのくすりという方が。謀反に加担していたそうで」

 ああ、やはり連座で呼び出された可能性があったのか。坂合部の二人を眺めて納得する。確かに、つい最近左遷されたばかりの氏族が二人もいては、呼び出された理由を考えるのも恐ろしくなる。ここに来て、博徳はやっと皆に経緯を聞いて回った。

 吉祥はもちろん、例の二人も鎌足の呼び出しだと答えた。坂合部石布さかいべのいわしき坂合部稲積さかいべのいなつみというらしい。

「何か怒られるようなことをした覚えは無いんだけどなぁ」

「しかし、お咎めというのは周りの環境に左右されますから」

 先に声を出した稲積は分からぬと言いたげに頭をかいた。快活な声をした男だった。一方の石布は雪のような声でもって、一つ大人らしいことを言ってみせた。

「しかし内臣の呼び出しということは、つまりは皇太子さまの呼び出しでしょうね」

「きっとそうでしょう。一心同体も同然だと聞きます」

 吉祥がうんうんと頷く。考えることは皆同じか。しかし、この時の博徳にとって、中大兄皇子と鎌足の考えなどやはりどこか遠い世界の話だった。


 そうこうしていると、鎌足の使者だという者が四人を呼びに来た。通されたのはひとけのない宮の一室で、全員入室した途端護衛さえどこかへ消えてしまった。不安にならないわけはない。皆が一様に下を向いていた。斜陽さえ消えかけた薄闇の中に二人分の足音が響く。艶やかな布を翻すように現れたのは、やはり中大兄皇子であった。諱を葛城皇子かつらぎのみこと申し上げる。

「此度は突然のお呼び出しと相成り、申し訳ございませぬ」

 口を開いたのは当然のように付き従っている鎌足だった。

「これはまだ公にはしていないこと。決して、決して外に漏らしませぬよう」

 なるほど、近くで見ると恐ろしいほど無表情な男だ。声にさえ色がひとつもない。しかし口外するなとは一体何の話をするつもりなのか。皆が顔を強ばらせた時、鎌足は思いもよらぬことを言ってみせた。

「来年、唐へ船を出します」

 隣にいた吉祥がひゅっと喉を詰まらせた。

「ご安心ください。軍船ではありませぬ。いや、軍船を出さぬために派遣する船というべきか。これは内々に進めていたことではありますが、遣唐使を送ることにしたのです。現在、半島の情勢が危ういことは皆さんも小耳に挟んでいるでしょう。外交に長けた家の方々ですからね。しかしながら、唐がどう動くのか正確な情報が掴めません。ここは一つ、優秀な外交官に大陸の情勢を探って欲しいのです」

 鎌足はあくまで淡々としていた。この男に喜怒哀楽はあるのだろうか。そう思ってしまうほどに無愛想な声だった。

 ここまでくれば、呼び出された理由も察しがついた。察したくなどなかったが、察する他なかった。鎌足に全て任せているようで、確実にこちらを見つめている葛城の瞳が理解を拒むことを許さなかった。

「皆様方には、此度の使節として唐に渡っていただきたいのです」

 ああやはりそうだ。しかしそう言われたとて、この空気の中では何も出来るはずあるまいに。チラと隣を窺えば、皆が同じ顔をしていた。抗議など出来るものか。皇太子と内臣を前にして。

「突然のことで驚かれているのは分かります。今すぐにというわけではありません。船を出すのも早くて半年後です。何か行けない事情がおありならば、正式な発表までに相談していただければ結構。何度も言いますが、これはまだ不確定な話。誰にも口外致しませぬよう」

「い、家の者には······」

 震える声を出したのは稲積だった。鎌足は葛城と視線を合わせると、「誰にも」と再度念押しした。

「他に何も無ければ下がっていただいて構いません。取り急ぎ、ご報告をと思ったまで」

 つまりは心の準備をしておけということか。同時に足止めにもなる。鎌足は、何事も無かったかのようなすまし顔で口を閉ざした。ここで初めて、椅子に腰掛けていた葛城が笑みを浮かべた。

「詳しくは、決まり次第追って連絡させる。以上だ」

 帰れと言わんばかりの瞳に押されて四人は退出した。今度は四人の距離が離れることは無かった。しばらくせこせこと足ばかり動かしていたが、宮の外に出たところで吉祥が足を止めた。

「我々も今日これきり、顔を合わせない方が良いですかね。坂合部のお二人は良いでしょうが、私や博徳殿も一緒になっていると不自然かと」

「そうですね。正式に発表されるまでは。いえ、行くと決めたわけでもないのですが、左遷ではなかっただけ我々坂合部としては幸いでございました。ねえ稲積くん」

「石布殿の言う通りですよ。いつ首が飛ぶかと待ち構えておりましたので。しかし、会えないとなると今のうちに話せることは話しておいた方が良いかな。幸い周りに人影もない」

 皆に顔を向けられた。博徳もそれが良いと答えておいた。一つ、気になることがあったのだ。







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