10.遥かなる潮騒


 湯船に身を沈めた瞬間、セシリアは思わず息を漏らした。

 

「はぁ……」


 湯の熱が肌を包み、こわばった筋肉がほぐれていく。

 女湯は程よく混雑していたが、角の方に陣取れば人目を気にせずにいられた。

 

 セシリアは湯に映る自分の髪を見つめる。見慣れない茶色。

 この生活が続けば、いつかはこの色も当たり前になるのだろうか。


「慣れないと……」


 小さくつぶやいた言葉が、湯気に溶けて消えた。

 

 部屋に戻ると、ルークが戻っていた。テーブルには美味しそうな料理が並んでいる。


「この街の名物らしい。魚の煮込みと、野菜のスープだ」

「いい匂いですね」


 二人で向かい合って食事を取る。

 騎士団の一件があったばかりだというのに、それを忘れるほどこの時間は穏やかだ。


「この街の魚は美味しいですね」

「あぁ。魚料理は好きなのか?」

「はい。でも――」


 セシリアは言いかけて、ふいに手が止まった。

 夕食といえば、昨日のことが脳裏に蘇る。食事をしていた時に突然騎士たちが現れて――


「大丈夫か?」


 ルークの気遣わしげな声で現実に戻る。


「あ、すみません。昨日の夕食の時のことを思い出してしまって」

「あぁ……まだ一日しか経っていないからね」


 ルークの表情が同情的になった。


「色々あり過ぎて、随分前のことのような気がするのに」

「そうだな。俺もそう思う」


 ルークは小さく微笑みを返した。何気ない会話を交わしながら、セシリアはふと思う。

 昨日出会ったばかりの人と、なぜこんなに自然に過ごせているのだろう。


 こんなにも人との食事が穏やかなのは何時ぶりだろう、とセシリアはしみじみと感じていた。

 

 王宮での仕事も、屋敷でも、程度の差はあれど常に緊張していた。

 だというのに、この逃亡という極限状況で、かえって心が軽やかになっているのが不思議だった。


「明日の昼には港町に着くだろう」


 ルークが今後の予定を話す。


「それと、今日街で少し情報を集めた。騎士団の動きだが、まだ広範囲に散らばって捜索している段階のようだ。君の足取りを完全に掴めずにいる」

「そうですか……」


 少し安堵したものの、彼にはまだ聞けずにいることがある。

 しかし今は、この穏やかな時間を壊したくなかった。


「俺も風呂に入ってくる。時間だからな」


 食事を終えて、ルークが立ち上がった。


「はい。ごゆっくり」

「先に休んでいてくれ」


 ルークが部屋を出ていく。一人になったセシリアは、改めて部屋を見回した。


 寝台は一つだけ。

 大きめではあるが、やはり一つだ。元々この部屋も二人部屋と言うには少し手狭だった。


 確かに、夫婦と言って宿泊したのだから当然なのだが。


 今朝は緊張と疲労で考える余裕もなかったが、今夜どうするのだろう。

 ルークは床で寝るつもりなのかもしれない、とセシリアは考える。


 考えているうちに、まぶたが重くなってきた。結局、テーブルに突っ伏してうとうとしてしまう。

 

 微かな物音で目が覚めた。部屋にルークが戻ってきたところだった。


「あ……」


 セシリアが身を起こそうとすると、


「寝台で寝ていてよかったのに」


 ルークは苦笑気味に言った。

 風呂上がりの彼の髪は少し湿っていて、いつもより柔らかい印象だった。


「私、また寝てしまって……」

「疲れているんだから当然だ」


 ルークが荷物を整理しながら、部屋を見回す。そして壁際の椅子を指差した。


「俺はそこで休ませてもらう。君はゆっくり休んでくれ」

「椅子でですか?」


 セシリアが驚いて声を上げると、彼は何でもないことのように頷いた。


「慣れているから大丈夫だ」


 だが、それはあまりにも申し訳ない。

 セシリアは躊躇いながらも、勇気を振り絞って口を開いた。


「あの……もし、その……」

 

 頬が熱くなるのを感じながら、セシリアは続けた。

 

「もしよろしければ、一緒に……」

 

 最後の言葉は殆ど聞こえないほど小さかった。ルークが目を見開く。

 

「それは……」

「申し訳ありません、変なことを言って。ですがルークさんも身体を休めることが大事ですし……」


 慌てて弁解しようとするセシリアを制すように、ルークが穏やかに首を振った。


「変じゃない。君の優しさだ。でも、本当に大丈夫なのか?君が休めないのは本意では無い」


 その気遣いに満ちた問いかけに、セシリアは小さく頷く。


「はい。むしろ……いえ、とにかく大丈夫です」


 思わぬ言葉が飛び出そうになったセシリアは、慌てて口を噤む。

 今、自分は何と言いかけたのか。


「……分かった。ありがとう」


 ランプの灯りを落とすと、部屋が薄暗くなった。月明かりが窓から差し込んで、寝台をぼんやりと照らしている。


 セシリアが寝台の端に横になると、ルークがもう片方の端に身を横たえた。二人の間には適度な距離があった。

 セシリアは毛布を肩まで引き上げて、静かに息をする。


「おやすみなさい」

「あぁ、おやすみ」


 静寂。


 しばらくの間、二人とも眠れずにいた。セシリアは自分の呼吸音さえ気になって、なかなか心が落ち着かなくてもぞもぞと身動ぎしてしまう。

 しかし不思議と、不安ではなかった。むしろ深い安心感に包まれているような気がしていた。


 なぜルークと一緒だと、こんなにも心が穏やかになるのだろう。出会ってまだ二日しか経っていないのに、まるで長い間知っている人のような感覚がある。


 やがて、ルークの規則正しい寝息が聞こえてきた。

 その音に安らぎを覚えながら、セシリアも深い眠りに落ちていった。


 ***


 鳥のさえずりで目が覚めた。セシリアは残る眠気を、瞬きを何度か繰り返して振り払う。

 まだ太陽は昇り始めた頃で、部屋は薄暗い。


「おはよう」

「おはようございます」

 

 ルークは既に起きていたようで、軽い身支度は済んでいるようだ。


「よく眠れたか?」

「はい。おかげさまで」


 本当だった。久しぶりに深く眠ることができた。


 セシリアもすぐに身支度を済ませ、人気の少ない早朝に宿の食堂で朝食を取る。

 焼きたてのパンと卵料理、それにスープと果物。素朴な味だが、とても美味しく感じられた。


 二人が食事を終えてほどなく宿を出ると、日が昇り活気づきはじめた街に馬の蹄の音が響いた。


 背中に伝わるルークの温かさに、セシリアは安心を覚えていた。そして同時に、昨夜のことを思い出して頬が少し熱くなる。

 だが、嫌な気持ちではない。


 グランベル街を出ると、風景が次第に変化していく。

 内陸の緑豊かな景色から、少しずつ開けた地形へと移り変わっていく。


「途中の町には寄らないつもりだが、大丈夫か?休憩は挟むから、身体に異変があったらすぐにでも言ってくれ」

「大丈夫です。長く乗っていたおかげか、少し慣れてきました」


 陽射しが温かく、頬を撫でていく風が心地よい。セシリアは目を細めた。

 今までの緊張続きだった移動を考えると、はじめて周りの景色を楽しむ余裕が出てきていた。

 

「もうすぐ海の匂いがしてくるはずだ」


 ルークの言葉通り、しばらくすると微かに潮の香りが風に混じり始めた。


「海……」

「港町は初めてか?」

「はい。領地も内陸だったもので」


 セシリアは深く息を吸い込んだ。

 王都も海には近いが、王宮と屋敷の往復ばかりで海を見たことがなかった。


 やがて、遠くに港町の建物が見えてきた。高い塔や、たくさんの屋根が重なり合っている。同時に、街道にはたくさんの人影が見えた。


「あれは……」


 ルークが眉をひそめる。

 町の正門の前で、門番とは別に何人かの人間が立っている。旅人を止めて、何かを尋ねているようだった。


「検問のようなものかもしれない。普段より警備が厳しいな」


 ルークが馬の歩みを緩めた。


「大丈夫でしょうか」


 セシリアはその不安から、ギュッと手を握りしめる。


「髪の色は変わったし、君は大丈夫だ。むしろ堂々と入ろう。それに……」


 ルークは一瞬言葉を濁したが、すぐに力強く続けた。

 

「とにかく、安心してくれ」


 その言葉にセシリアは小さく頷く。


「シェレンスタークだ」


 少し高台から港町を見下ろしながら、ルークが指差す方向に活気ある大きな港町が広がっていた。

 

 港には大小さまざまな船が停泊し、人々が忙しく行き交っている。商人たちが荷物を運び、船乗りたちが声を掛け合っている様子が遠くからでも分かった。


「着いたのですね……」


 セシリアの胸に、期待と不安が入り混じった感情が湧き上がった。


 二人を乗せた馬が、港町へ向かって最後の道のりを歩いていく。

 遥か向こうから聞こえてくる潮騒が、未来への扉を開く音のように響いていた。

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聖女殺しの冤罪をかけられた令嬢は、公爵様の愛から逃れられない 楡音えるにれ・-・ @unknown_1232

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