春の竜

@motchi_potchi

第1話

 南極大陸は、中世代のころには温暖であったという。地球が黒黒した宇宙の海にぽかりと浮かび上がって以来、ずっと、あらゆる熱を拒んできたかのように思われるこの大陸にも、春があった。南極の冬について考えることはむずかしいが、南極の春について考えることは不可能である。しかしそれは現実に在った。そのかみの地球の二酸化炭素の濃度は、環境保護運動家が卒倒するに足るものであり、この極限の地においてさえ、植物は闊達に枝葉を繁らせ、実り、花咲いていた(但し、被子植物の登場は白亜紀前期を待たねばならないから、その前のジュラ紀まで、花は存在しない)。南極は、歓喜の大地であったのだ。




 四月の部室は、春のあたらしい色でひかっている。

 録音機のスイッチを押すと、ぎこちない機械音が数度繰り返した。まったく古い型なので、仕方がない。録音できるようになるまで数十秒のラグがあり、この空隙を縫うべきうまい話題を共有しない新入部員たちは、気まずい沈黙に覆われていた。苦笑いするものもいた。


「さっき説明した通りに、これが準備できたら、おのおの、目標を吹き込んでくれたらいいから」


 副部長である私は、いかにも副部長らしいはきはきとした口調で、新入部員の緊張をほぐそうとした。

 本来ここで音頭をとるべきは部長の堀田であるが、彼はあいにく風邪をひいて学校を休んでいる。昔から大事なときに限って不調に陥るものだから、本人は悔しいし私はなぜか少しばかり割を食うしで、困ったものである。

 ここに入部するに至った新入生は、かように録音の儀礼を通過することになる。私も二年前に同様に自らの目標の言質を取らされた。何を言ったかもう覚えていないが、引退するときに聞き直すのもまた儀礼であるので、今から恥ずかしい(であろう)過去の言葉に怯えている。

 他のあらゆる副部長がそうであるように、私はすすんで副部長になりたかったわけではない。何か肩書きを身につけるのは人生のずっと後の局面で構わないと思っていたし、どうせやるなら「副」ではない役職に就きたいのが人情だ。きっとたいそうな言葉をこのぼろい録音機に吹き込んだはずの私が、どうして副部長などという中途半端な役を引き受けてしまったのかと言うと、矢張り部長の堀田が関わっていたはずだが、これもよく覚えていない。堀田が中学のときに二階から飛び降りて無傷(正確には、美大生の落書きみたいな小さな擦過傷を二つ拵えていた)で戻ってきたときの馬鹿な言い分は鮮明に覚えているのに。人間は記憶についてどうも不器用である。

 

 チン、と間の抜けた音がした。録音機は正常に起動したらしい。


「よし。じゃあ、そこの子から。マイクに向かってひとこと、どうぞ」


 新入部員たちは順番に目標を吹き込んでいった。あるものは小声で、またあるものは廊下中に響くほどの声で。

 やがて痩せた一人の男子の番がやって来た。高校一年生というよりは、中学一年生といった感じだ。


「クリオロフォサウルスになりたい」


 よく通る声で、彼はそう言った。唱えた、のほうが適切かもしれない。あるいは、祈った。全員の頭に大きな疑問や小さな疑問が浮かんでは消えてまた浮かんだ。


「クリオ、その、それは、なにかな」


 三浦が尋ねた。三浦は酵素とか蝶番とかに似て、とにかく支えたり補ったり裏付けたりするのが得意な人間で、もっとも副部長に向いていそうな人材である。この瞬間も、私が須臾言葉を探しあぐねているのを察してか、この場にいる誰もが抱いた疑問を代弁してくれた。


「ジュラ紀前期の南極大陸に生息していた肉食恐竜です。かつて南極は温暖だったので、いたんだそうです、そういう生き物が」


「なるほど、ジュラシック・パークだ」


 三浦は相槌のような形のものを打った。




 南極大陸の春を謳歌していたのは植物だけではない。テタヌラ類(わかりやすく言えば、ティラノサウルスの仲間)に属するクリオロフォサウルスは、肉食恐竜らしい生活を送っていたのだ(草食恐竜だって南極に生息していた)。狩り狩られる食物連鎖の上のほうから緑豊かな大地を見下ろす大蜥蜴には、ここが氷に覆われてしまう未来など見えていなかった。多少は寒い日もあったろうが、子々孫々とこしえの春を浴びて暮らすのだと思っていたにちがいない。

 立派なとさかを持っていたことも、この恐竜の特徴である。けたたましく鳴いては朝を告げる鶏もとさかを持つが、ちょうどそんなふうに、一見奇妙な風貌をしていた。ひょっとすると、かれらも朝に鳴いたのかもしれない。毎朝、毎朝、春の日を始められる歓びを歌ったのだ。

 南極大陸に聳えるある山のある地点から、氷に覆われた化石が発掘され、これがクリオロフォサウルスと命名された。南極大陸において初めて名付けられた恐竜化石である。

 とこしえの春が冬へと塗り替えられる前に絶滅したかれらの骨は、絶望を蒸留して取出したような真白い氷の中で、再び日の光を浴びるのを待った。そして、発掘といういささか強引なやり方によってではあるけれども、その日を迎えたのである。




 太陽が西に傾いてゆく。四月の部室は、少し寒い。

 新入部員はとうに部室を出て、私と何人かで諸々の整理を済ませている。新しい一年が始まる。


 私も、四月が好きだ。

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