白く塗りつぶされたもの

白く塗りつぶされたもの 1

 音もなく静かに涙を流すマコトを、何も言えずただ見守っていた。

 マコトが睨みつける壁の一面は、かつて棚が立ち並び、雑多に物が収納されていた。幼い自分は、棚で覆いつくされたガレージの壁の内、角の隙間にひっそり身を隠して、『秘密基地』にして遊ぶのが好きだった。丁度、車が停まる真後ろに当たるため、コウスケはガレージで遊ぶ自分を見つける度、「危ないって言っただろ」と叱りつけた。

 いつだったか、ガレージで遊んでいた自分を叱るコウスケを見て、マコトが火を吹いたように泣き出したのを覚えている。幼いながら感情を表に出すことの少なかったマコトが、その時ばかりはぎゃんぎゃんとけたたましく泣いたのだ。あまりのことにコウスケは叱る声を止めて、アイコは素早くマコトの元に駆けつけた。怒られていたのは自分なのに、急に泣き出したマコトのことが理解できなくて、泣くに泣けなくなったのを覚えている。コウスケははっとしたような顔で「とにかく、もう二度とここで遊んではいけない」と叱りつけると、すぐさまアイコとマコトの元に駆けよろうとした。マコトは泣き続けていたが、アイコが抱きしめられずにいるのを見とめてコウスケが背中を摩る。普段、コウスケもアイコも、自分とマコトで態度を変えることはなかったが、その時ばかりは両親をマコトにとられた気がして、心臓のあたりがずくずくと重く痛みを訴えたのを覚えている。

 けれども結局、自分がマコトの泣く姿を見たのはそれが最初で最後で、以降どんなことがあってもマコトは決して泣かなかった。幼い自分のくだらない悪戯も、淡々とやり過ごして「こういうことをしちゃだめ」と注意をしてくるだけ。マコトは誰から見ても“良い子”だったから、アイコからもコウスケからも叱られることが少なくて、そもそも“泣く”ような場面が少なかったかもしれない。

 その、マコトが静かに泣いている。

 自分に気が付いているはずなのに、視線はじっと壁を睨みつけている。

(――やっぱり、)

 子供の頃、コウスケに付き合ってガレージを塗りつぶした時のこと。執拗に何度も何度も、重ねて塗り直した壁があった。車が停まる丁度真後ろのあたり。よく、自分が『秘密基地』にして遊んでいた壁の一面。

 当時から使っていた棚をどかして、そこだけ何度も何度も厳重に、まるで呪いにでもかかったように。

(呪い、に違いなかった。確かに)

 声が出ないまま、マコトを見つめ続けている。マコトが何を思ってその壁を見ているのかわからなかった。ただ、厚く厚く塗り重ねられた分、他の壁よりも少し歪で不格好なその壁に、マコトは一歩近寄った。

 一歩、また一歩。手を伸ばせば届くほどの距離まで来て、そうっとその手を伸ばす。ふるふると震える手は、恐れるようでも、躊躇うようでもあった。

 マコトの指がそろりと壁に触れる。青白くなって、生気を感じない。まるで幽霊みたいだ、と、思って顔を歪めた。

「……冷たい」

 ぽたぽたとマコトの目から涙が落ちる。滴は汚れたガレージの床に染みを作って、呟いたマコトの声はかすれていた。

 その壁の厚さを確かめるように。

 指が動く。何度も、何度も壁をなぞる。

 何かを確かに感じ取ろうとするような、その動きを自分は黙って見守っていた。



「……ガレージが怖かった」

 暫くしてマコトが声を出した時、ありったけの涙を出したからか、先ほどの呟きよりもさらに声は掠れてしまって、随分聞き取りづらい声だった。

 けれども不意に吐き出されたマコトの感情に、全神経を耳に集中させる。一番近くにいたはずなのに、一番遠くにいた自分は、マコトが何を考えて、どう感じて、どうしたかったのか何も知らないままだ。いつだって気づけなくて、気づいた時には手遅れで、どうしようもない感情を持て余している。

「子供の頃、の、話。ガレージが怖くて、ガソリンの匂いも、煙草の匂いも、何もかもが嫌だった」

 嫌だった、と。

 はっきりと拒絶の言葉を吐くのは珍しかった。マコトの顔をまじまじと見つめる。いつの間にか枯れた涙は、もう頬を伝っていない。代わりに涙の痕がマコトの顔の青白さを際立たせているようだった。ここはやはり、どこか寒い。

 マコトの声は静かで小さく、きっと自分に聞かせるために話しているわけではないのだろう、と理解する。マコトの感情の、記憶の整理にこれはきっと必要なことで、たまたまその場に自分が居合わせただけに過ぎない。マコトはやはり、こちらをちらりとも見ないまま、「嫌だったんだ」ともう一度呟いた。

「寒くて、冷たくて、いつだって暗かった、ここは」

 なんでこんな……続いた声は掠れて消える。言葉の続きを考えようとしてやめた。

「……悪いことをしたら、“あいつ”はここに連れてくる。ここは“お仕置き”の場所だったから。エンジンをかけた車の後ろで、排気ガスを当てられながらいつも小さく蹲ってた。車がゆっくり動く度、この壁と、車に、押しつぶされてしまうんじゃないかって気が気じゃなくて」

 ゆっくりとした声は当時を思い出すように、マコトの指は壁をなぞりながら下がっていった。腕を落としたマコトの視線は恐ろしいほどに冷え冷えとしていて、感情がそぎ落とされたような、そういう恐ろしさを感じる。

 その話に出てくる“あいつ”が、アイコの前の夫だとはすぐに理解できた。アイコの前の夫ということは、マコトの実父である。

 やがて無心に壁を睨んでいたマコトの視線はふいと逸らされて、こちらを向く。ようやく視線の絡んだマコトの瞳は、見たことのないほど揺らめいていた。

 そこにどんな感情が含まれているのか知れない。悲しいのか、恐ろしいのか、悔しいのか、怒りたいのか、絶望しているのか。

「何も……何も悪いことをしていなくても、“あいつ”は私をここに連れてくる。気まぐれに物を投げて、灰皿代わりにして、服で隠れるところを殴られる。怪我をしても、子供の私を入浴させるのは“あいつ”の役目だったから。――母さんは私が、“あいつ”に懐いてるとずっと、ずっと思い込んでた」

 声は静かで小さなままなのに、言葉はまるで叫んでいるような、悲鳴を上げているようにも聞こえた。自分と出会う前の幼いマコトが、どれほどの恐怖を抱えて日々を過ごしていたのか考える。唯一助けを求められるはずの母は、悪意なく脅威とマコトを近づけようとする。幼いマコトが希望を失って、絶望するのにも疲れ果てて、ああ、だから出会った時には、感情の見えない子供になっていたのだと思い知った。出会ったばかりの頃、自分にとってのマコトは不気味で、理解が出来ない存在だった。同じ年頃のはずなのに、自分とは決定的に違う“何か”。当然だろう、マコトは、自分に当たり前に与えられていた“安心感”が与えられずにいて、“安心”なく素直に感情を曝け出すことなど出来やしない。

(――マコトは、ずっと、“安心”できなかったんだ)

 この家にいる限り、マコトは常に心をすり減らしていた。気が付いていた、気が付いていたのだ。自分を含めた、家族全員が。

 それで、ある時コウスケがガレージに気が付いて、ようやく罪滅ぼしみたいに。

「母さんに助けを求めようとしても。“あいつ”はそれを許さなかった。私から母さんに声をかけたら、今度は母さんを殴るぞって脅してきた。何もわからない子供でも、何もわからないわけじゃない。言葉で――暴力で――刷り込まれたら理解する」

 馬鹿みたいだよね、と、マコトは乾いた声で笑った。だから助けなんて求められなかった。

「あの日、母さんが私の体を見て、目を見開いた時」

 マコトの声は続く。懺悔するみたいに、マコトは何も悪くないのに。

「私の事を嫌ったんだと思った。

 初めてコウスケさんと、テツがうちに来た時。もう私は、家族ではいられないんだと思った」

 だってそうでしょう。マコトは緩く笑みを浮かべたまま。

 感情の見えない、愛想笑いでもない。目を見開いて、自分の体が衝動的に動きそうになるのをどうにか堪えた。震える声は確かに言ったのだ。

「私の体は、汚いから」

 まるで呪いのようだった。もうマコトの目から涙は流れていない。

 代わりにひゅっと息を呑んだマコトの肩が、堪えるように震えているので。

(溺れてるみたいだ)

 その肩を抱きしめたいのに、自分にその資格はきっとないのだろうことが憎かった。



 家側の扉を開け放ったまま、廊下に腰を掛けてガレージに足を放り出す。

 “これまで”の中で一番近い距離で隣に座ったマコトは、少し過呼吸のような症状を起こしたものの、数分すれば随分落ち着き、涙の名残を誤魔化すように鼻を啜った。

 マコトの隣にいる状態で、沈黙がこれほど居心地悪くないと感じたのは初めての事だった。マコトはいつも感情を押し隠して、見えなくしてしまったから。自分はいつだって彼女の中にあるものを探ろうとして、拒絶を感じて目を逸らす。踏み込んでしまえばよかったのだろうか、踏み込んでしまえる無謀さを自分は持っていなかったし、結局はたら・ればの話だ。今、こうして、居心地の悪くない沈黙があることが、どうにか救いに思えた。

「――父さんがさ、」

 ただ、ちらりとマコトがこちらに視線を向けたので。

 何か言うことがあるだろう、と、その視線からマコトの主張を読み取って、口を開く。マコトの目がこれほど思考を表すのは初めてだった。不思議な感覚がして、今はもう、ガレージの空気を冷たく思わない。

「マコトが家を出て行った後にさ」

 ふとガレージの全体を見回した。

 すっかり物のなくなったガレージは、中学生の頃、コウスケとガレージを白く塗りつぶした状況と少しだけ似ていた。あの日もガレージの中身はすっからかんになっていて、床には白のペンキ缶が転がっていた。コウスケは顔も服もペンキ塗れにしながら、空回った笑いを浮かべて一心不乱に壁を塗りつぶしていた。――時々、「もっと早く塗ればよかったな」と言いながら。

(あれは後悔だったんだな)

 振り返って考える。当時はなんてことのない、ちょっとした雑談の一つとしか思っていなかったが。

 マコトへの虐待は主にガレージで行われていた。何がきっかけだったかわからない。元々ガレージに備え付けられていた照明は少なく、駐車する際の背面の壁などよく見ることもほとんどない。実際、幼い自分が『秘密基地』と称してガレージで遊んでいた時、壁に虐待の跡があるなど思いもしなかった。

 それが、恐らくは、何重にも塗りつぶしてしまわなければならないほどの、明らかな痕跡があったのだとしたら。

「……父さんが急に壁を白く塗り出したんだ。父さん、車に興味なかったし、ガレージはただの“ガレージ”で、暗いこの場所をまじまじ確認することもなかったし。

 だから、マコトが居なくなって初めて気づいたんだと思う」

 自分が朝起きてガレージに向かった時には、既にある程度壁を塗り終えた後だった。手伝いを誘われて、当時の自分は何も考えずに刷毛を取った。

「父さんがどうして急にそんなことしだしたのか。今更塗りつぶしたって何の意味があるんだろうとか、そん時の俺はマコトの事何も知らなかったし、わからなかったけど。

 ただ父さんは、マコトが安心して帰って来れる家を作りたかっただけだと思う」

 傷はなかったことにできないし、起きた過去は覆せない。それでも、少しでも優しい記憶で和らげることはできるだろうし、穏やかに過ごせるよう、努力することはできるだろう。

 ただ、コウスケは後悔をしていた。

 何も気づけずに、知らぬところでマコトを傷つけ続けていたことに。それで、今からでもいいから少しでもマコトに寄り添えるようになりたいと、多分そう思ってペンキを塗った。

 マコトはじっと考えるようにこちらを見ていて、うんともすんとも言わない。返事が欲しかったわけではないので、自分も気にせず言葉を続けた。

「俺は子供の頃マコトの事が嫌いで、憎くて、早くどっか行っちまえって思ってた。一番身近な“他人”で、“幼馴染”で、“義姉”で――一番遠い、“家族”だった」

 厄介な女の子だったよ、マコトは。

 言いながら思わず苦く笑う。無知だったのはきっと罪で、ただし、救いでもあった。だからこそ、無知でなくなった時自分は違う罪を犯した。

 マコトにまつわる事について、両親の会話を盗み聞いておおよその推測を付けた時。自分ばかりが“除け者”だったのだと勝手に傷ついて、絶望して、マコトに申し訳ない気持ちと、言い訳をしたい気持ちがぐちゃぐちゃになってやるせなかった。

 ただ両親が一言も自分にマコトの事情を説明しなかったのは、単に幼かったからではなくて。

 マコトが受けた傷――それから考えられるトラウマ――を思えば、異性である自分は物心ついた折に注意を受ける必要があっただろうし、多少の事情をぼかしたとしても、そうされたっておかしくはなかった。けれども両親が自分に一言も説明しなかったのは、単に“自分”が“マコト”を違う目で見ることを防ぎたかったからだろう。

 後ろめたさ。

 同情。

 憐み。

 出会ってからずっと、自分はマコトにまっすぐの感情を向けていた。こいつは嫌い。憎い。父も母も奪っていく、嫌なやつ。

 アイコもコウスケも自分のそんな後ろ向きの感情を知っていて、宥めはするが矯正することはなかった。義姉弟仲良く、とは言われたものの、善悪の分別が付くようになってからは仮にも家族だ、悪意ある“嫌がらせ”をしなかったのも理由だろう。自分は、別に、マコトの事が嫌いでも、不幸になってほしいとは思っていなかった。

 自分の持つまっすぐな感情は、恐らく両親が二度と持てない感情なのだろう。アイコは虐待に気づけなかった“後ろめたさ”が。コウスケは、マコトのトラウマたる「父親」になってしまった“後ろめたさ”と“同情”が。何をしても、どうしたって感情に乗る。マコトがそれに気づかないわけもなかった。

「――ただ、それ以上でも、それ以下でもなかったよ」

 ただ、厄介だと思ってた。それだけ。

「今更俺が、マコトに家族になろうなんて言えない。俺はいつだって、マコトを“ちゃんと”家族だと思っていなかったから。……でも、」

 まっすぐとマコトを見つめ返すのは勇気のいることだった。落ち着いたマコトの瞳は、またあの、何を考えているのかわからない、感情の薄い瞳になってしまっているかもしれない。

 マコトはじっとこちらを見たまま。顔を向ければすぐにかちりと視線は合った。

「でも、いつだって、マコトのことはただの“マコト”だと思ってたよ。俺は」

 マコトがすぐに逃げてしまったので、結局向き合うのがこんなにも遅くなってしまった。

 大学受験のあの頃、あの雨の日、両親の会話を聞いた時に。

 マコトが家にいたら、自分はどうしていただろうかと考える。感情のままにマコトに話に言っただろうか。心にもないことを言って、傷つけて、自分も傷ついて。けれども互いに傷つけあったなら、受け入れ合って許し合うことだってできたはずだった。そうしなかったのは、そうできなかったからだ。

 追いかけることだってできたのに。

(同じ大学にもいかなかった。真実をマコトの口から聞いてはいけないと思っていた)

 “知っている”ことを、“知られて”はいけない。

 思えばあの家族の中で、自分は唯一、マコトに何の含みもなく接する存在だったのだろう。子供の頃から自分はマコトに沢山意地悪をしてきたが、マコトは自分の世話をすることを少しも嫌がらなかったし、何かあるといつだって近くにいてくれた。

 多少なりとも。

(あの頃の俺が――俺の態度は、褒められたもんじゃないけど。ひとかけらだけでも、マコトの救いになってたらいい)

 まるで祈るような気持ちだった。それで、知った後も、だからこそ自分の役目を違わなかった。

 自分は、“知らない”。“知らない”ことに、なっている。

「――……そんなの、今更だ」

 マコトの顔がくしゃりと歪んだ。今更、と、もう一度繰り返す。

「うん、今更でしかない。でも、父さんだって、いつもマコトのことは“マコト”としてみようと、努力していた」

 歪んだ顔のまま、マコトの顔はそろりと下がった。視線が足元を向く。ガレージの床も、汚れてはいるがうっすら白さが残っている。

 知ってる、と、マコトは掠れた声で同意した。

「俺たちから逃げたのはマコトで、逃げたマコトを追い続けられなかったのは、俺たちだ」

「……うん」

 ぐ、と膝に置いた手を握りしめた。マコトが家を出た当時。寮のある高校だから、と、早々に寮に入って出て来なくなったマコトの事を、アイコもコウスケも気がかりに思いながら自分たちから行くことは稀だった。

 保護者面談などの学校行事の時にだけ。

 マコトの両親として学校に赴く。校内で三人がどんなやり取りをしていたかまでは、自分にはわからない。休日に帰ってくるかと度々二人はマコトに連絡を入れたようだが、「学校が忙しいから」とそんな当たり障りのない断り文句でマコトは拒否をし続けた。

 それでも。

(本当に向き合いたかったなら、俺たちはもっとマコトの元に行けばよかったんだ)

 そうできなかったのも、また、自分たちだった。逃げたマコトが悪いのでも、追いかけられなかった自分たちが悪いのでもない。

 この歪な関係に、きっと“ワルモノ”は存在しない。

「もういいんじゃないか」

 ぽつりと吐き出せば、マコトは顔を向けぬまま「何が?」と問い返した。

「鬼ごっこ。諦めて、捕まってくれよ」

 それから、そろりと手を伸ばす。マコトの薄い肩に。触れるか、触れないか。触れてよいのか、マコトの事をよく観察した。

 マコトはふわりと顔を上げて、恐る恐る手を伸ばした自分を見上げた。頼りない顔だ、まるで迷子みたいな。

「……考えとく」

 そのまま、視線は自分の手にも向けられたけれど。

 払われることも、拒絶感も嫌悪感もみられなかった。そろりと触れた。

 薄い肩は想像以上に力なく。漸く触れられたことに安堵した。同時に、いつも“得体のしれない”存在に感じていた義姉が、確かにそこに存在しているのだと理解する。

 温かい、人の体温だった。肩からじんわり浸食してくる。

 消えそうな声で呟かれた、答えが拒絶ではない事に。

 知らず目頭が熱くなった。

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