ここから動けない 3

 物が何も置かれていない部屋というのは、何度見たって物悲しく、冷たく感じる。

 まるで見知らぬ部屋の様だ、もっとも、住んでいた頃からこの部屋は見知らぬ部屋の一つだった。

 両親の寝室は、二階の階段を上った正面の部屋である。一番大きな部屋で、夫婦がゆったり眠れるベッドと、コウスケがちょっとした作業をするための簡易デスクが置かれていた。

 子供のころ、両親の部屋というのは「入ってはいけない部屋」のひとつで、扉を開けることなんてめったになかった。それでも、休日起きてこないコウスケを起こす時は恐る恐る扉を開けたし、クリスマスのプレゼント探しはどの部屋も入って良いことになっていたので、恐々としながら探索をした。「入ってはいけない部屋」だから、いざ入った時の思い出が色濃く、その分奇妙に感じる。

 数年前、アイコはこの部屋で倒れた。

 当時、この家に住んでいたのはアイコとコウスケの二人だけで、倒れたアイコに気が付いたのもコウスケだった。

 すぐに呼んだ救急車でアイコは迅速に病院まで運ばれ、その時点で命に別状はないとの診断だった。ただ、今でも覚えている、「大丈夫だったよ」と告げたコウスケの声がこれまで聞いたことのないほど震えていて、感情的で、冷え冷えとした恐怖に包まれていたのを。

 大丈夫だったよ、と、告げたその先の言葉を。思い出そうとすると今でも胸が熱くなる。じくじくと脈を打って、冷や汗が出るようだった。コウスケの言葉はそれから静かに続く。ただ――「ただ、癌が、見つかったって」

 既にある程度進行していたこともあって、アイコの治療は過酷な状況からスタートしたが。

 これ以上の治療は体力的に限界だろう、と、医師から治療継続か中止かの二択を迫られた時、アイコは静かに自宅療養を希望した。できるなら可能な限り家で。この家で過ごしたいと伝えたアイコの希望に沿うため、コウスケはいつも泣きそうな顔を堪えて、アイコの介護をしていた。

(最後は、もう、ずっとリビングだったっけ)

 子供のころ、あれほど「入ってはいけない部屋」だと思っていた、両親の寝室は――いつの間にか誰も眠りに戻らない、ベッドが置かれてあるだけの部屋へと変わってしまって、リビングに置かれた介護ベッドと、その隣で布団を敷いて寝るコウスケの姿が日常になった。

 介護の手伝いなどで自分もマコトも頻繁にこの家を訪れたものの。マコトがいるときはアイコがやや不安定になったため、マコトの足は自然と遠のいていったし、自分も仕事の調整が思うように取れず、泊まり込んで手伝う機会はそう訪れなかった。

 そのうち二階に上がる人は誰もいなくなってしまって、自宅療養の限界を迎えたアイコが緩和病棟に入院した後も、コウスケはリビングで眠り続けた。

(ここだけ、思い出が切り離されたみたいだな)

 元気だったアイコと、コウスケの思い出と――まだ家にいた頃の、自分とマコトの記憶が二階には溢れている。誰も近寄らなかったから、褪せようともしぶとい染みみたいに。

 結局、全ての歯車が回り出したのはアイコが倒れてからだった、と、そのように思っている。

 マコトと、マコトと関わる自分たちの関係性について、だ。

 アイコとマコトの関係性は、アイコが倒れて以降、如実に変化したし、伴ってコウスケとマコトの距離感も変化した。否、実際は、最初から各々の奥底に沈んで隠されていたものが、水を抜かれて表面に出てきてしまっただけかもしれない。ただ、一人何も知らずに――“知らない”ことにされた――自分だけが、その変化についていけずに戸惑った。

 誰もいない寝室の写真を撮って、果たしてこれをコウスケに見せたところで。彼が何を、どれほど思い出すかもうわからない。進行は緩やかだと聞いているが、既に半分以上を夢の世界で過ごしている人だ。アイコが倒れて以降、現実から目を背けるように二階に近寄らなくなったのを、偶然とは思っていなかった。コウスケは恐れていたし――アイコが再び目の前で倒れてしまうことを――向き合うことを拒絶した。アイコとも、マコトとも。

(今日は、もう帰った方がいいか)

 かしゃり、と、無機質なシャッター音が響いて、ため息を一つ。後残る場所はガレージだったが、今日のこの気持ちのまま、ガレージに近寄ることは難しそうだった。第一、マコトが入りたがるとも思えない。

(……マコトは、もう、来ないかもしれないな――)

 今日を取りやめたら。

 別の日にもう一度来ようと誘ったら、マコトは曖昧に返事をするに違いない。忙しいから。予定がわからないから。また今度、都合があったら。

 今日を逃したら、きっとマコトとこの家を訪れることは二度とないだろうと思えた。それが嫌で、だからマコトを引っ張ってきたはずなのに。

(でも、もう、来ない方がいいのかもしれない……)

 先ほど立ち去ったばかりのマコトの顔を思い浮かべようとした。けれども臆病な自分は、マコトの瞳を直視することすらできずに、彼女がどんな顔をしていたのかもわからなかった。



 リビングに戻ってもマコトの姿は見えなかった。

 気持ちを落ち着けにどこかへ行ったのだろうとは思ったが、どこへ行ったのかまで把握していない。ただ、その少しあとに二階に上がった折、マコトの姿はなかったし、階段すぐの寝室にいたのにマコトが上がってくる音を聞き逃したはずもないから、一階のどこかにいるのだろうと思っていた。自分とは入れ違いで、リビングあたりに戻ったかもしれない、なんて。

 それでも、リビングにはおらず、続くダイニングにも、キッチンにも、リビングから見える庭の方にもマコトの影はない。

 マコトが座っていた場所はまるで変化がない。放置された荷物も、食べかけの弁当も、昼食のごみ袋も。置かれた箸の角度すら変わりがなくて、急な不安に駆られた。何もかもを捨て置いて、もしや、そのまま出て行ってしまったんじゃないか、なんて。

(そんなはずない……)

 マコトがそんな衝動的なことをする人間だとは思っていない。今まで一度だって、彼女が衝動的に、感情的に動く様を見たことがなかった。あの、薄暗い病院で、アイコに繰り返し謝罪されていた時だって。

 きっともうすぐ帰ってくる、と思っても、一度抱えた不安はこの場に留まることを許してはくれず、急かされるように足は廊下へ進んでいた。一階の部屋、一つ一つを見て回る。もう一度――リビング、ダイニング、台所、物置、トイレ、バスルーム、それから――

(ガレージ?)

 かたん、と、小さな音を耳が拾った。

 決して大きくはないが、どこかで響いたような音。ステンレス製の何かがぶつかったような音で、ステンレス製の何か、が置いてある場所の心当たりは一つしかなかった。

 視線が自然と家の一番奥の扉に注がれる。階段下、すぐの扉。

(そんな、まさかな……?)

 ガレージにはきっといないだろう、と思い込んでいた。

 アイコの前の夫が欲しがって、こだわって作ったと聞いているガレージは、コウスケの手によって白く塗り替えられて、棚の配置や、飾るものなどもまるきり全部変えてしまった。

 あれはいつの頃だったか、記憶を探る。確か自分が中学生くらいの頃の事だった。

(だって、ガレージはマコトにとって……)

 子供の頃、自分にとってのガレージは秘密基地のような場所で、薄暗く、ガソリンの匂いが染みついた、コンクリートの壁に異世界めいたワクワク感を抱いていた。

 この家に初めて来てガレージを見つけた時、丁度良い隙間に自分の体がぴったり収まることを発見して、ここを秘密基地としよう、なんて勝手に決めて遊んだものだ。その度、車の傍で遊ぶな、とコウスケに酷く叱られたものだったが。

 マコトは幼い頃から、ガレージに近寄ろうとしなかった。

 表情が薄く、感情が表に出にくいマコトが、唯一明確に嫌悪を示す場所。嫌悪というよりあれは恐怖だった、と、今の自分なら理解するが、当時の自分は全く理解できずに、これほど素晴らしい“秘密基地”を嫌がるマコトの事を変な奴だと思っていた。もっとも、当時の自分はマコトの事を“悪い奴”だと思い込んでいたので――自分から父も、新しい母も奪っていく存在だと――絶対に“ワルモノ”が来ない場所、として、ガレージを重宝していたのだ。

 ガレージの扉を開けると、電気の点いていないその空間は薄暗く、もう車は停まっていないのに、変わらずガソリン臭さが残っているようだった。ツン、と鼻をつく臭い。シャッターが閉め切られているせいで心なしじめじめと陰気くさい、肌を撫でる空気に思わず腕をさすって、暗闇の中じっと目を凝らした。

 電気をつけてしまえばよかったのだけれど。

 いるはずがない、と思いながら、きっとここにいるに違いない、と確信があって。そうならば、今、この場にいる彼女を灯りに晒して、彼女を隠す何もかもを剥ぎ取ってしまうのは違う気がした。暗い、暗い、ガレージの中。

 車は停まっていない。荷物もほぼ全て片付け終えていたが、ステンレス製の棚が二台程。家の中を整理する際に勝手が良く、二台分だけ最後まで残していたのだ。取り壊し前に引き取ってもらうことが決まっている、使い古された棚だった。

 その、もう何も置いていない棚に寄り掛かるようにして。

 マコトがガレージの壁の一点を見つけて、静かに泣いていた――泣いている、ように見えた。

 暗闇の中、ガソリン臭い、ガレージの中。

「……――マコト」

 名前を呼ぼうか、呼ぶまいか。

 悩むまでもなく、声はふるりと空気を震わせ、マコトに音を届けてしまった。ぴくり、と、マコトの肩が揺れる。こんなに暗い、場所なのに。

 不思議なことに、マコトの事はよく見えるような気がした。泣いているのだ、確かに。

 その涙の一滴まで見えるような気になって、ぐっと歯を食いしばる。強く握りしめた拳は、柔い肌を爪で突き刺し、ぷつりと割いたようだった。



 急にガレージの壁を塗り始めた父の姿に戸惑ったことを思い出した。

 中学一年の春休み。後一か月もしない内に始業式を迎えて、進級を控えたある日の休日である。中学を卒業したマコトが寮のある高校へ進学したことで、一人分いなくなった家の妙な静けさを満喫していた頃だった。

 マコトは決してうるさい人ではなかったが、それでも一人分の物音が消えるというのは随分違うことだった。毎朝、少し時間をずらして扉を開ける音も、互いの部屋側の本棚に本を仕舞う、ことん、かたん、という音も、隣の部屋から何の音もしない。その事にそわそわとした違和感と、本当にいなくなったのだという高揚感と――どこかぽかりと生まれた空しさと、それらは進級への不安感と混ざり合って、今ちょうど、自分の体の中で“落としどころ”を探している最中だった。

 それで、ゆっくり起きた休日の朝。遅めの朝食の際に、アイコから「お父さん、ガレージでペンキ塗りしてるのよ」と話を聞いたので、様子を見ようと思ったのだ。なんで急に? と。マコトがいなくなったから? なんて。

「お、テツ! 起きたのか、寝坊助だな!」

 そっと扉を開けたのに、耳聡くこちらに気づいた父は大きく手を振ると、ペンキ塗れの姿を恥ずかしげもなく晒して見せた。どこから引っ張り出してきたのか、古いつなぎを着ていて、頭に白いタオルを巻いていた。新しいタオルではなくて、何度も洗濯を繰り返して、繊維が固くなりごわごわとしたものだ。

 ペンキを塗っているのに、古いとはいえなぜ白いタオルを――と思ったのも一瞬、ガレージの壁を見たらすぐに理解できた。

 コンクリートそのままの風合いだったガレージが、真っ白く塗りつぶされていた。

 開け放たれたシャッターのおかげで、薄暗くも明るい。染みついたガソリン臭さと合わせて、ペンキ特有のシンナー臭さに思わず咳き込みそうになった。緩やかに入ってくる、春の風だけが心地よい。

「なんで急に白くしてんの? コンクリうちっぱかっこよかったのに」

 手にした刷毛でこちらを示しながら笑う父の姿に顔を顰めたのは、だから臭いのせいとか、気づかれてしまった居心地の悪さとか、突然の塗装に驚いたとか、そういうものを全部ひっくるめての表情だった。父は笑いながら、「確かにかっこいいよな!」と快活に頷く。

「でも、そろそろ汚れも目立ってきてたし。色付けてもいいんじゃないかと思ってな」

「色っつったって、白じゃん」

 ぶつぶつと文句を言えば、父は「確かに!」とまた笑った。

 その、何でもかんでも笑う姿が鼻について、何かあったのだろうかと眉を潜めた。父は確かに穏やかで、叱るより笑う方が多い人ではあったが、どこか無理しているようにも思えたのだ。端的に言えばわざとらしく、簡単に言えばぎこちない。普段の笑みとは何かが違った。

「まあでも、白だったら明るくていいだろ。ほら、今までのガレージ、暗くて陰気だったし」

 陰気、という父の言葉に、どうしてかぱっと思い浮かんだマコトの顔を、首を振ってかき消した。立ち尽くして父の様子を見つめる自分に、刷毛をペンキ缶に突っ込んだ父は、「テツ、お前も塗るか?」と声をかけたのだった。

 まだペンキのついていない、真新しい刷毛をこちらに差し出して。

 塗ろうかどうか悩んだのは一瞬だった。ダメ押しのように、父が「なんもないコンクリにペンキ塗る機会なんて早々ないぞ」と言った瞬間、体はくるりと反転し、声は「汚れていい服に着替えてくる!」と叫んでいた。



「こんだけでかいなら、なんか絵とか描いてもよかったよな。俺、絵なんて描けねぇけど」

 するするとコンクリートの壁に刷毛を滑らせていく。

 ペンキ缶にはでかでかと「速乾」なんて書かれているが、「速乾」だって乾くのに時間がかかるだろう。父が塗りたくった白色はてかてかとまだ濡れた風合いで、ちょっと触れたらそれだけで自分の跡がついてしまいそうだった。

 何気なく吐いた言葉は呟きの様で、返答を求めたものでもない。静かなガレージで刷毛を動かすさわさわとした音だけが響いていた。沈黙に耐えかねて、“ちょっと話してみた”が正しい。

 だというのに、やはり、父は耳聡くこちらの言葉を聞き取って、「うちにはそっち系の人はいないもんなあ」とぼんやり笑った。そっち系、とは、芸術肌の人、という意味だろう。

「お前もそうだし、マコトちゃんも子供の頃はお絵描きとかしなかったもんな」

 それから、ごくごく自然にマコトの名前が出てきたことに、思わず驚いて顔を上げた。下の方を塗っていた、刷毛を持つ手がいつの間にか床について、ペンキがぽたぽた床を侵食していく。父はこちらをちらりとも見ていなかった。

「……あいつはいいだろ。もし絵を描けたって、もう家を出たんだから」

 “いないんだから”ではなくて、“家を出た”とはっきり言葉にしたことに、その言葉が想像以上に冷酷さを含んだことに、自分自身でぎくりとする。一瞬強張った体を気づかなかったふりをして、父の様子を窺う。怒られるのかと思ったのだ。

 ただ父は、やはりこちらを見ないまま。黙々とペンキに向き合っている。正確には、ペンキが広げていく、白く塗りつぶされたその壁に。

 その顔が、先ほどから聞いていた笑い混じりの声と裏腹に酷く険しい表情なのに、どこか不安を覚えた。眉間に皺が寄っている。本人に自覚はないだろうけれど。

「……でも、マコトちゃんだって家族だろう」

 怒る代わりに、父は静かな声でそう言った。

 どこか不思議な色の声だった。あまり父から聞いたことはない。願うような、言い聞かせるような、あるいは、悔やむような声だった。

「家族……だけどさ」

 そこから先、次の言葉を探し出せなくて。

 険しい顔の父を見続けるのも苛立って、視線は再び刷毛の先。たっぷり掬い取られたペンキが重力に従っていく。床と、壁の、境に溜まる白いペンキ。

(なんで白色だったんだろ)

 父は何缶目かになるペンキ缶をガコンと開けた。とり憑かれたように、無心になって刷毛を突っ込む。ガレージだけではなく、まるでこの家のすべて塗りつぶさんとするかのように。

(……まるで、汚れをなかったことにしてるみたいだ)

 思った疑問は喉元まで出かかって、結局声にはならなかった。マコトの名前が出たからか、はたまた、本当に父がどこかおかしくなってしまったのか。

 急に息苦しくなったガレージから、逃げるように外を見つめた。

 眩しいほどの快晴は、ガレージの奥まで陽光を差し込ませず。春の風はまだ少し、冷たいばかりだった。

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