ここから動けない 2

 病院の廊下は冷たく、死の香りがしていた。

 そろそろ夕方になる時間だというのに薄暗い空間を、足早に歩いている。面会時間は終了間際で、今日が終わる前に一目顔を見ておきたかった。

 吐いた息が白くなる、冬の日の事だった。

 アイコが入院している病院は勤務先である植物園からほど近く、仕事終わりにアイコの顔を見に来るのは殆ど日課になっていた。

 日中、コウスケが見舞いに来て、あれやこれやと世話を焼くので、思ったよりアイコの気持ちは落ち込んでいない。調子が良いときはベッドの上で身を起こし、車椅子で散歩に出ることもあると聞いた。「できるだけ苦しくないように」と希望を出したコウスケの苦し気な声は今だって鮮明に思い出せるが、その希望の通り、アイコは穏やかな日々を過ごしていた。

 顔を見せると、いつだってぱっと嬉しそうな顔をして、それから少し照れくさそうな調子で、「もう、テツくんが来てくれるんなら、もう少しおめかししたのに」と笑ってみせる。アイコが言ったのではなければ気になる発言ではあったが、アイコは元気な頃からよくそう冗談めかしていたので、いつも通りの反応はかえって安心した。まだ普通に――冗談を言えるほど――元気である、なんて。

 とはいえ、倒れて手術をしたり治療を開始してから化粧をする元気もなくなり、以前のようなおしゃれはしていない。去年の誕生日にアイコに似合う色のリップクリームをプレゼントしたら、酷く喜んでくれたので、冗談めかしていつつもやはりおしゃれしたい気持ちはあるのだろう、と思ったものだ。少しずつ、大事につけてくれているので、すっかり唇の色の違いに気が付くようになってしまった。

(今日はどうかな)

 日中付き添っていたコウスケから、アイコについての連絡は特に何も届いていない。調子が悪かったり、機嫌が悪かったり、そういう変化があればコウスケはマメに連絡を寄越すので、何もないのであれば“普段通り”のアイコだろうと思えた。機嫌が良ければプレゼントしたリップもつけているかもしれないが、今日は訪問時間が少し遅くなったので、もう落ちてしまったかもしれない。

「――さい、ごめ……」

 廊下を歩く足は心なし早くなって、目当ての扉を見つけて少しばかり安堵した。不気味なほど人気がない。日中なら看護師や患者、あるいはヘルパーの職員など、一人くらいは通っているはずなのに、まるでここだけ世界から切り離されてしまったようだった。

 それで、刺すような静寂の中、かすかな音を拾い上げたのは仕方がなかったのだろう。この廊下は誰もいなくて、薄暗くて、息をするのさえ、躊躇うほどの静寂に包まれていたから。

(誰かいる?)

 アイコの部屋は個室である。中から声がするのなら、中にアイコ以外の誰かがいるのだろう。独り言をぶつぶつ呟くような、そういう状態にはないと聞いている。入院している他の患者なんかは、やや精神的に不安定な人もいるようだったが、アイコはまだ、正常である。

 コウスケだろうか。

 すぐに思いついた実父の顔は、けれども浮かんですぐに消えていく。コウスケからは、終業前に「今日は帰る」旨のメールが来ていた。メールを確認してから病院に来るまで一時間は経過しているので、何らかの事情で引き留められていたとしても、もうきっと帰っている頃だろう。一時間もあって「まだ残っている」旨の連絡を出せない状況など考えられないし、緊急事態の場合はむしろ先んじて呼び出されるはずである。

 では、他の友人だろうか。

 アイコは在宅勤務で随分長い間仕事を続けていたし、その分友人知人の数も多い。仕事関係の人から前に勤めていた会社の同僚まで、丁寧に人付き合いをしていたので、病気が発覚した当初は見舞客で溢れたものだった。当時はまだ体調も安定しておらず、至って普通の、普段通りの笑みで応対しては、皆が帰った病室で苦し気に胸を抑える姿を何度も何度も目撃した。心配してもらえるのはありがたいし、一目顔を見たいと思うのも理解できるが、当時は随分、腹が立ったものだ。アイコが悲しむので態度に出したことは一度もないが、きっとコウスケも同じ気持ちだっただろう。

「――うん、大丈夫、大丈夫だから」

 もう一人分の声は、扉の向こうから聞こえた。存外はっきりとした声で、聞き覚えのある声だった。

(マコト?)

 それが、時折連絡を取る義姉の声だと、一拍置いて理解する。アイコが倒れて以降は少しずつ連絡を取る頻度が増えたものの、それでもメールでの連絡が主体で、声を聞く機会は多くなかった。時折見舞いに来ているらしい、とも聞いてはいたが、こうして実際に遭遇するのは初めてだった。

 マコトなら問題ないだろう、と、妙に強張っていた手の力を抜こうとして――扉を開けようとして――次に聞こえた言葉で再び指先は動きを止めた。

「ごめんね、マコト。ごめんなさい」

 アイコが謝罪している。

 力のない声で、悲しみと、絶望と、苦しさと、あらゆる感情をごちゃごちゃに混ぜたような声色で、アイコが謝罪している。

 マコトの声が「うん、うん」と相槌のように肯定するのが、酷く奇妙なことに聞こえた。マコトの声に感情はない。

 力の抜けたはずの全身が、再びぎくりと硬直して、動かない。もう少し、あと少し力が入ればこの扉を開けるのに、どうしてかそれをしてはいけないような気がした。アイコが「何」を謝罪しているのか、理解してしまって。

(アイコさん……)

 どくり、どくりと心臓が早鐘を打っている。急な息苦しさに自身の胸を抑えた。謝罪を制しながら、かたり、部屋の中から物音がする。

 ぷつん、という古めかしいスイッチ音に続けて、館内放送が面会時間終了のアナウンスを吐き出した。静寂を切り裂くような音に、緊張が弾けて足が動く。扉の向こう、アナウンスの音に紛れて、マコトの声が「それじゃあ、もう、時間だから――」とアイコを宥めたのを聞き留める。

 遭遇したくはなかった。してはいけなかった。今日、自分はこの場に来なかったことにしなければならない。

 動き出した足は耐え切れずに駆け出すように、目についた男子トイレに駆け込んだ。マコトがここを通り過ぎて、病院を出てしまうまで。彼女の視界に、ちらりとでも入ってはいけなくて。

「それじゃあ、母さん。またね」

 からりと扉が開いて、入り口の前で。マコトの声が少し大きめにアイコに呼びかける。アイコがなんと返したのか――再び謝罪を吐き出したのか、それとも、別れの言葉を吐いたのか――聞き取れぬまま、こつり、こつりと固い足音だけが近づいてくる。こちらに来るはずはないと息を殺しながら。

 やがて足音は静かにトイレの前を通り過ぎ、奥の階段へと消えていった。こつり、こつり、耳の奥に残るその音が完全に消え去るまで、自分は一人、トイレの中で立ち尽くしていた。

(あの、謝罪は)

 愛ゆえの謝罪ではないと知っている。

 マコトへの愛ではなくて、そこにいたる前までの。

(あの、謝罪は……)



 しとしとと雨の降る夜だった。

 窓を冷たい雨が打ち付けている。ふと集中力の切れた隙間に、ぱたぱたと入り込んできた音は冷気も一緒に運んだようで、ぶるりと無意識に体が震える。卓上時計は零時を少し過ぎたところで、ちらりとカーテンを捲って見ても、外は暗闇ばかりが広がっていた。

 受験勉強というものは退屈で、つまらない。つまらないが今自分にすべきことでもあって、やらなければ、と思えば思うほど、どんどん追いかけてくる焦燥感に辟易とする。

 開きっぱなしのテキストは夕食後にやり始めたところから随分進んでいたが、どうにも「こなした」感覚が少なかった。焦っているからか、はたまた、不安だからか。気持ちが沈んだのは雨が降っているからだと思い込んだ。

(喉、乾いたな)

 ぐっと腕を伸ばす。机に向かい続けた体はすっかり固まりきっていて、それだけでぱきぱきと骨を鳴らした。ゆっくり肩を回せば、肩甲骨のあたりがぎしぎしと伸びる感覚がする。体も動かした方がいいだろう、もう一度時計を見つめた。

 この時間、両親がリビングで談笑しているのを知っていた。談笑、というほど和やかなものかは知らない。ただ自分の前では話しにくいことを、ぽつり、ぽつりと話し合っているらしいことを、なんとなく知っていた。

 何がきっかけだったか。トイレは二階にもあるし、普段はペットボトルで飲み物を部屋に持ち込んでしまうので、一階に降りる機会が少ない。受験期に入ってから家族と距離を置いていたのもあって、知る機会は少なかったと思うのだが。

 起きていれば、ちょっとした物音とか、廊下での会話とか、何とはなしに聞こえてしまうものだ。ああ、二人で何か話しているんだろう、とは、だからきっと自然に察した。

(行きづれぇなあ)

 思いはしたが、喉の渇きは耐えられそうになく。すっかり集中力が途切れた頭に、糖分を入れたい気持ちも強かった。キッチンに行けばココアがあるし、冷蔵庫の中には牛乳もあった。両親がいなければ、ホットミルクココアが作れるのに。想像したら酷く魅力的に思えて、無性にそれが飲みたくなる。

 時計の秒針がぐるりと一周したあたりで、「仕方ない」と呟いた。自分にとって、深夜にキッチンへ向かうのは、「仕方ない」ことだった。

 冬の廊下は冷たく暗い。家の中だというのにどこか知らない場所のように思えて、子供の頃から少し苦手だった。足元を温めすぎると眠くなるから、と、裸足で出てきたのを少し後悔する。床板は冷たく、冷気がつま先から上がってくるようだ。

 ひたり、ひたりと自分の足音に少しだけ恐々としながら、ゆっくりと階段を降りた。階段を降りた目の前の扉が、ダイニングキッチンに続く扉である。リビングとダイニングは続き間であったが、キッチン側の扉から入れば意外と気づかれなかったりもする。様子を窺えば、リビングの方の扉から案の定明かりが漏れていた。

(やっぱいるや)

 今晩もまた、両親は何かを話し合っていたらしい。話し合っているというか、談笑しているというか、会話をしているというか。

 父は仕事で忙しく、朝は早く夜は遅い。母は反面在宅勤務で、買い物以外で外に出かけることはあまりない。それでも仕事が忙しくなると書斎に籠り切りになるので、子供の立場から見て、両親が日中すれ違う場面はそれなりに多かった。この時間の会話は、たぶん、夫婦間の仲を深めたり、確認し合ったりするための時間なのだろう。

 それが、互いに血の繋がった実の両親なら思うことも違っただろうが。

 父と血のつながりがあっても、母とは何の繋がりもない赤の他人だ。幼い頃の再婚だったが、感覚的に言えば父の彼女、という感覚の方がまだ強く、自分の母という認識は少し薄い。身内の恋人との時間を邪魔するほど無粋なつもりはなかったし、何より居心地の悪さを感じていた。

 それで、できればばれないように――見つからないように――そっと飲み物だけ取ってくるか、と。

 キッチン側の扉に手をかけた。音をたてぬようにそっと開く。暖められた空気が瞬間体を包み込んで、ほっとする。同時に義母の、震える声が耳に届いた。

「……あんなことがあったから」

「アイコさん……」

 深刻そうな声色に、体がぎくりと硬直した。忍び足の一歩が踏み出せない。扉の隙間を開けたまま、そろりとリビングの方を窺う。両親はソファに並んで座っていた。頭を抱える義母の背を、父がゆっくり撫でている。二人の間の空気は甘くなく、どこか緊迫した色をしていた。

(なんだ?)

 それが、異様だが、どこか“知っている”ことに戸惑いを覚える。そう、確かに知っていた。時折二人は、このような空気で視線を交わし合うことがある。

「あの子は誰にも……懐かなくて……私が……私が一番傍にいてあげなきゃいけなかったのに……私が……気づいてあげられなかったから……」

 アイコの声は細く弱く、聞き取れないほど小さいものだったが。

 聞き留めてしまった自分の耳を恨めしく思った。あの子、と、それだけで連想できてしまった人のせいでもある。

(――マコトのこと?)

 義母の連れ子である義姉は、数年前の高校進学を機に家を出て今は都会で一人暮らしをしていた。高校の寮に入っていた時だって、めったに家に帰ってこない人ではあったけれど。大学進学してから顕著になって、今は年に一度、年末年始の時くらいしか顔を合わせていない。

 義姉と折り合いの悪かった自分は、義姉と会う機会が少ないというのは精神衛生上良い環境だった。とりわけ今年は受験もあったので、義姉との関係で悩まずに済んだのは幸いに思ったほどだ。義姉もそれをわかっているのか――いないのか――何を考えているのかよくわからない人だが、少なくとも幼い頃からこの家に馴染んでいなくて、まるで逃げるようにさっさと出て行ってしまったから、そういう人なのだろうと思っていた。

 その、義姉の話題である。

「あれはアイコさんのせいじゃないよ。君は家族を守るために、必死に働いてたじゃないか」

 父が義母の背中をゆっくり摩りながら、慰めるようなことを言う。慰めながらも、どこか固い声色は父も緊張しているらしいと感じ取れた。摩るその掌が、果たして熱を持っているのかどうか。キッチンの中にさえ入れない自分ではわからない。

 奇妙な会話だ、と、思ったのはそんなことだった。義母は確かに在宅勤務で働き続けているが、“必死に”というほどではないし、義母に守ってもらった記憶もない。義母がこれほど憔悴するような出来事も起こっていないし、父が義母を慰めるような事態も当然起こっていない。何より義姉はもうこの家にいないのに、何故義姉の話をしているのか。

「でも……でもあの子の……あの子の体を見て、気づけたのは、私だけだったのに……私がもっと早く……もっと……」

 それで、ああ違う、これは再婚前の話か、と思い至った。

 義姉の、違和感について。

 子供の頃から「変な奴」だと思っていた。義姉と義母は血のつながりのある母娘だったが、出会った時から義母はどこかぎこちなく義姉に接した。義姉はいつも感情の見えない顔で、父に対してもよそよそしさを拭わぬまま。義姉が父の事を「コウスケさん」と呼び続けるので、自分もすっかり、義母の事を「アイコさん」と呼び慣れてしまったのだ。あいつが「父さん」と呼ばないのに、あいつの母親を自分の「母さん」にするのは違う気がして。

 今だって、義姉のあらゆることが気に入らない。

 そもそも存在が気に入らなかった。母を失くして悲しみに暮れていた折、父が紹介してきた新しい「母」役の人の連れ子。

 笑わないし、いつも無表情で、自分の事をじっと見つめてきた。何を考えてるのかわからないし、同じくらいの年代だと聞いたのに、どこか大人ぶっていて大人しい。「大人」みたいに自分のすることに文句をつけてくるのがいつだってイライラした。「テツくん、やっちゃだめだよ」「これも食べなきゃ」「そっちはダメ」なんて、普段は何も言わないくせに、そういうことだけしっかり言うのだ。肝心な時だけ「家族」面してくるのが嫌だった。

 それなのに、義姉は楽しい事・幸せな事・嬉しい事には絶対に自分から入ってこないのだ。一歩引いた位置でこちらを見ている。父と、義母と、自分が談笑しているのをひっそりとにこにこ見ているような人だった。それが、嫌いだった。

「もっと早く気づいてあげていれば……もっと私があの子を顧みていれば……あんなに心に傷を負うことはなかったのに……」

(心に、傷)

 ずく、と心臓が痛んだ気がして、キッチンの扉から手を離す。隙間は開いたまま、閉めることも憚られて、一歩、二歩と足は後退する。

 理解できないわけではなかった。幼少期の背景、ずっと抱いていた義姉への違和感。義姉と義母の関係性、父が、義姉に向ける複雑な感情を帯びた眼差し。義姉が、父相手に向ける、少しだけ怯えの混ざった視線。

 わからないわけではなかったし、理解できないわけではなかった。“したくなかった”が正しくて、“そんなことあるはずがない”と思い込みたかっただけだ。決定的なことを誰一人教えてくれなかったから。まるで自分には無関係だと、そのように隔離されてきていたから。

(そうあるべきだったから)

 少なくとも義姉に対して、自分だけは“対等”で、“同情しない”立場であるべきなのだろう、なんて。崇高な思想を持っていたわけではなかったけれど。少し考えれば気づくことを、少しも考えなかったのは本能的に忌避していたからに過ぎない。知ってはいけない、気づいてはいけない。

(……今日はもう寝よう)

 後退した足はもう前に進みそうになく、ひたりと裸足の足音がした。そっと、静かに、気づかれないように。

 リビングではなおも、義母の涙声が響いている。父がその度、「悪いのは全部あいつなんだ、アイコさん……」と慰めるのを、どこか違う世界のように感じた。

 階段を登る。降りた時よりも速足で、音をたてぬように。

 廊下の冷たさも暗さも、今ばかりは有難かった。二階は平穏で、変わらなくて、自分は何も「聞かなかった」のではないかと錯覚をする。そんなことはないのだけれど。

(……知ってた)

 テキストは開きっぱなしにして。喉はからからに乾いていたが、唾を飲んで布団に潜った。電気を消す。しとしとと、雨の音が響き渡る。

(知ってた、ほんとは)

 幼少期を思い出していた。

 初めて義母姉に会ったのは春の事だった。父に連れられてこの家にやって来て、「仲良くして」と言われたのを盛大に拒絶した。庭の垣根に飛び込んで警戒した自分を、義姉は何を言うでもなく――悲しむでもなく――無感情に見つめ返していた。

 それから幾度となく出会う度、義姉の様子はひとつも変わらず、自分は頑なに心を閉ざした。そんな時、夏の暑い日に、義姉が長袖を着たままでいるのを揶揄ったことがあるのだ。

――こんなあついのにふゆみたいで、ばっかみたい

 我ながら幼稚な言葉だったが、その時初めて義姉は傷ついた顔をして、それから恥ずかしそうに腕を抱えた。捲ってやろう、とは親切心ではなく意地悪な気持ちからの行動だったが、袖に伸ばした手を思い切りはねのけられたのも、それが初めての事だった。

 強く叩かれて、「いや!」と叫ばれて、泣きそうな義姉の顔を見た瞬間、どうしてか弾けたように自分が泣いたのを覚えている。

 飛んできた父と義母に義姉はけれども事情を説明することもなく、するりとどこかへ行ってしまったのだ。泣き叫んだ自分は義母の腕に抱かれて、あやすように背中を優しく叩かれていた。

(――虐待、されてたんだよな、たぶん。実の、父親に)

 あの優しい義母が、それを見過ごすとは思えない。きっと気づかれぬように、わからぬように、巧妙に行われていたのだろうと思う。それで――それで、義姉は誰にも心を開かなくなってしまったのだ。

 頭から布団を被って唇を噛んだ。思い出したくはなかったし、聞きたくはなかったし、聞いてはきっと、いけなかった。自分だけはきっと、“知らないまま”でいるべきだったのだ。

(俺――、俺は、)

 罪悪感で死にそうだった。布団の中に沈んでいるのに、体が恐ろしいほどに冷えていく。

 しとしとと鳴る雨の音が、聞いたこともない義姉の涙のようにも聞こえて――固く目を閉じた。今日はもう、夢も見ずに寝てしまいたかった。

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