空っぽの家 3
少し建付けの悪い、カタカタと言う音を鳴らして扉は開いた。
二階の真ん中が自分の部屋だった。一番奥の部屋がマコトの部屋。階段すぐの大きな部屋は両親の寝室で、手前側の部屋が主にアイコが使用していた書斎だった。
マコトの部屋と自室と書斎は庭側に面しているため、三部屋からアクセスできる大きなバルコニーが付いていて、時折バルコニーまで出て行って庭いじりをする両親を眺めた。思えば、マコトも時折バルコニーを使っていたように思う。二人きりの空間になるのがどうしても気まずくて――居たたまれなくて――避けるように、マコトがいるときはカーテンをきつく締め、見えないようにしていた。
バルコニーに続く引き戸を開けると、開けっ放しの入り口めがけてすうっと一陣風が抜けた。冬の近い、少し冷たい風である。大きく息を吸い込むと、秋風に混ざった冷気がツンと鼻を刺激したようで、痛いようなむず痒さに見舞われる。くしゅん、と、子供じみたくしゃみをしたのは随分と久しぶりな気がした。
(――子供の頃、くしゃみするとアイコさんが心配そうに寄って来て、すぐに防寒させたがったな)
分厚いコートを片手に、テツくん、寒い? 大丈夫? と眉尻を下げるアイコの顔が脳裏に浮かんだ。そうして厚着をさせようとするアイコの頬の方が、自分より余程真っ赤に染まっていたし、コートを持つ指先が凍えるように冷たいことを知っていた。
優しく肩にコートをかけられ、腕を通して、と促される度、胸の奥の柔らかいところをつんと突かれるような心地がして、いつも仏頂面をしていた。寒くなんてないのに、とは、強がりで、優しさに絆されてしまいそうな自分自身の葛藤だった。
子供の頃の自分はやや頑固で、わからずやで、意地っ張りで、自分を取り巻くあらゆることが、自分を否定しているように思えてならなかった。
そういう時があった、という話だ。実母を失くした寂しさとか、父との触れ合いのぎこちなさとか、突然現れた新しい母と、姉、と称する人々とか、今思えばそうした外因ストレスもあったのだろう。環境の変化にうまく順応できたふりをして、その実何も適応できなかったのは自分だけだ。大人たちは各々の在りどころをすぐに見つけてしまって、マコトは、いつも何を考えているのかわからなかった。
(あいつは、“自分がいないこと”に在り処を求めてしまったから)
昔は季節に応じて雑多に物が置かれていたバルコニーも、今は少し汚れたコンクリートの床が見えるばかりだ。子供の頃、あれほど高く見えた柵も今は胸程までしかなくて、下を覗いて見える庭も雑草だらけで味気ない。
(俺、ここから、父さんとアイコさんが庭いじりしてるの見るの、好きだったな)
それは穏やかな風景の一場面だった。
写真に収めても、絵画にしてもきっと幸せに見える風景。しゃがみ込んで互いに寄り添う、父と母が談笑しながらスコップを持つ。あちらに何を植えようか、こちらにこの色を持ってきたらどうか。二人とも大きな声で笑うようなタイプではなかったので、何を話してどんな風に笑っていたのか、バルコニーからでは聞くこともできなかったけれど。
(――そういえば)
秋の風は冷たく、いつか見た春の思い出すら冷たく凍らせてしまうようだった。冷たさに比例して、じんじんと熱を帯びていく両頬を柵に乗せた両腕で包みながら、在りし日の事を思い出す。
(一度だけ、父さんたちの手伝い、したことあったな)
いつだったか。まだマコトがいた時期なので、少なくとも中学以前のことだろう。
普段、土日になると部活に出かけたり遊びに行ったりして家にいないことが殆どなのだが、その日はたまたま何の予定も入っておらず、朝からスコップ片手に庭いじりを楽しむ両親を眺めていた。
昼食を終えた時間帯。その日の昼食が焼うどんだったことは覚えている。休日の食事は父と母と交互で作る“決まり”があって、その焼うどんは父の作だった。凝った料理は出来ないからな、と前置いて、ソースで簡単に味付けをしただけのうどんだったが、それなりに美味しかった、気がする。
リビングのソファに座って、庭に続くガラス戸を開け放って、柔らかい風を受けながら両親の楽しそうな様子を見つめていた。何がそんなに楽しいのか、呆れ半分、興味半分。
やがて視線に気が付いたらしい、アイコが不意にこちらを向いて、テツくん! と大きな声で呼んだのだ。
「テツくん! こっち来て、一緒にやらない?」
それから、腕まくりをした手を大きく振る。軍手をしてスコップを掴んでいたせいで、あちこちに着いた土がぽとぽとと落ちてアイコの服を汚した。父がそれを笑いながら、「テツ」と同じように呼んだ。
入っていいのかな、と、逡巡したのは一瞬の事で、入ってしまえ、と、何かに背中を押されるように、庭に降りたのはすぐの事だった。
春の日差しはその風と同じように柔らかく、それでもどこか眩しく感じて、目を細めた。
手渡された軍手と、スコップと。こっちにこれくらいの穴を掘って、と、植え替えの指示を受けながら土に触れる。軍手越し、春とはいえ、まだ冷たい土だった。
(それで、マコトは、)
黙々と――仲睦まじい両親の近くで作業をするのは、やはり少しだけ、引っかかるものがあって。
顔を上げたのは何気ない動作だった。普段見下ろすバルコニー。そういえば、意識して下から見上げたことはなかったな、と、そんな風に。
「あ」
思わず声を上げて、慌てて口を押さえる。軍手に着いた土が僅かに口中に入って、慌ててぺっと吐き出した。隣を見ても、両親はこちらに気づかず和やかに会話をしている。もう一度そろりと顔を上げた。
バルコニーの、椅子に座って。
緩やかにほほ笑みながら、マコトがじっとこちらを見下ろしていた。この位置からではよく見えないが、いつも通りなら、きっとその手に文庫本でも収まっているのだろう。マコトがバルコニーに出るとき、大抵本を持って読書をしていることを知っていた。カーテン越しに、陽の光が影を作って否が応でも知らせてくれるのだ。
(あいつ、なんで、あんな)
けれども見えるのは影ばかりだったから。
実際マコトがどのような表情で、どのような雰囲気で、一体何を見ているのかは知らなかった。知ろうともしなかった。マコトの視線はじっと、こちらを見下ろしている。手元の本ではなくて、バルコニーの柵を越えて。
その視線がまっすぐ、自分を含めた庭の、“家族”を映しているのに気が付いて、胸の奥がざわついた。普段無表情か困り顔ばかりで、表情の変化に乏しい少女の癖に。
(あんな幸せそうな顔、初めて見た)
その微笑みが遠目に見ても幸せに満ち溢れていたから。
自分はそっと、その顔を盗み見ることしかできなかった。どうして笑っているのかと問いかけることも、あんたも来ればと誘うこともできないまま。
(あの時、声かけてたら、何か変わってたのかな)
ひゅうと風が吹く。冷気が肌を突き刺して、春の思い出がぱっと消えた。雑草だらけの庭にアイコの面影を見た気がして、頭を振る。
急に、この場所から逃げたくなった。
人の気配がしない、物のない家の中というのは酷く寂しく感じるものだ。自分の立てる物音ばかりが響いて聞こえて、知らず顔を顰める。リビングの戸を開けた音が存外大きかったのも理由だろう。
後で中を回る、と言っていたが、マコトはまだリビングにいたらしい。中に入り込むと先ほど見た時と同じ姿勢のマコトが庭の方を向いていた。まだここにいる、と言っていたが、それほど何か考えることがあるのか。はたまた過去を思い出しているのか。決して良い思い出ばかりではないだろうに、マコトは微動だにしない。
(……ん?)
それで、訝しんで回り込んだ。
扉の音にも気づかぬほど、マコトが集中していることは珍しい。この家で、起きている間、マコトはいつだって敏感だった。それがどうしてか、当時の自分は知ることも考えることもしなかったけれど――その印象だけはあった。
マコトは庭を向いたまま、器用にすうすうと眠っていた。姿勢を固定したまま、そんな寝方でよく熟睡できるな、と感心するくらい。ただ、庭から入り込む日差しはカーテンの遮りもなく直接部屋を暖めて、この場所は存外暖かい。先ほど自室のバルコニーにいたからか、まるで違う家の中のように感じて苦笑した。
もう少し寝かせてやりたかったが、時間を見るとそろそろ昼時である。この家まで来るのに一苦労で、それからあれこれ見て回ったものだから体は疲れている。思い出したように腹の虫が鳴って、マコトはその音でも起きなかった。
(――仕方ない、よな?)
言い聞かせるようにマコトの顔を覗き見る。寝ている顔は安らかで、どこにでもいる、普通の女性のよう。近しい存在だったから、マコトの容姿を客観的に評価したことなどなかったが。アイコの事は美人だと思うし、マコトはアイコに似ていたので、きっとマコトも美人、なのだろう、と、思う。どうしてか素直に認めたくない気持ちがあった。
「……マコト」
声をかける。
マコトは起きない。ぴくりと睫毛が震えた気がしたが、気がしただけだった。柔らかな吐息は静かで、よく聞けば聞こえるが、意識しなければ聞こえない。一瞬、死んでいるみたいだと考えそうになって慌てて首を振った。――この家は、あまりにも死の匂いが濃いから。
「マコト」
もう一度、呼びかけて、今度は「ん、」と小さく唸りだけが返された。
もう少しで起きそうで、起きない。何かを、誰かを窺うように周囲を見回した。この家には今、自分たちきりしかいないと知ってはいたけれど。
(……触れてもいいかな)
やましい意味はない。マコトを起こすのに、一度肩を叩くだけ。
肩の付近に手を伸ばして、触れようか、触れまいか、手は惑う。子供の頃だって、自分からマコトに触れようとしたことなんて一度もなかった。父やアイコに言われて手を繋ぐとか、そういうことはあったけれど。触れようと思って、意思を持って触ることはなかった。
「……マコト」
ややあって、とん、と、軽く触れた。薄い肩の上。冬が近い寒さに備えてしっかり厚着をしているのに、これほど目いっぱい差し込む太陽を浴びているのに、その肩はどこか冷たく感じた。
「っ!?」
瞬間、びくりとマコトの体が跳ねて、ぱしんと手を弾かれる。勢いよく持ち上がった顔が、目を見開いてこちらを見ていた。驚愕、動揺、それから、――恐怖。
「ぁ……」
何が起こったのか理解していないようだった。一瞬、本当に一瞬だけ、怯えを滲ませて周囲を見回し、すぐにマコトの顔から恐怖の色が消える。この部屋にいるのが自分たちだけで、他に誰もいないと理解したからだ。
互いに無言で見つめ合った。なんと言ったらいいのかわからない。動揺したのはマコトだけではなくて……その、様子に、驚愕し、動揺し、恐怖したのは同じだった。
「……なに?」
水分を取らずに寝ていたからか。
ひっそりと問いかけたマコトの声は枯れていた。何か話さなければ、気持ちばかりが急いて、口が開く。言葉は出ない。すぐに閉じる。マコトがこちらを見つめたまま。
「……もうすぐ、昼の時間だから。コンビニ行くけど、どうする?」
とん、と、腕時計を叩いて見せた。マコトの顔が漸く強張りを失くして、手元の携帯を確認した。昼の、十二時四十五分。時間を見たからか、思い出したようにくう、と腹の虫が鳴る。自分の音か、マコトの音かはわからなかった。
「……一緒に行く」
マコトはぐっと携帯を握りしめると、凝り固まった体を解すように伸びをした。ぱきぱきと骨の音がする。思わず「すごい音」と呟くと、マコトは何でもない調子で「デスクワークだからね」と言った。
「もともと凝ってんの」
そのまま慣れたように体を解し終えると、立ち上がったマコトはこちらを見下ろして「どうしたの」と問う。当然と言わんばかりに、「早く行こうよ」と。
言葉に詰まって、立ち上がる。近くのコンビニに行くだけなのに、妙に気持ちがざわざわとした。マコトと一緒だからなのか、この家から、二人で出かけるからか。
(きっとどっちもだ)
マコトの足取りは軽く、先ほどまで寝ていたとは思えない。さっさと玄関で靴を履いて、追いつく前に扉を開けてしまった。それで、いつだって自分は、マコトをきちんと見送ったことがなかったな、と思い出す。
(子供の頃も――学生時代も――マコトが家を出た時も)
両親はマコトを自分の「姉」という役割にしたかったようだけど。一向に懐かない自分をマコトは特に嫌うこともなく、疎むこともなく。けれど時折、酷く優しい顔で見つめていた。
「……待ってよ、マコト」
先を行くマコトの背を追う。追いかけるのも初めてだな、と気が付いて、そのことに顔を顰めた。
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