空っぽの家 2

 コウスケの細い首にくっきりと浮かぶ筋を見るたびに、この人はこんなにやせ細っていただろうかと考える。幼いころ、自分を背負ってくれた大きな背中も、悪戯をしては叱られ、落ち込む度に乱暴に頭を撫でてくれた太い腕も、今は見る影もない。

 仕事を辞めてからも長らく庭いじりを続けていたおかげで、コウスケは同年代の中でも若々しい方だと思っていたのだが。アイコが起き上がれなくなって、眠るように逝ってしまってから、不安になるほど急速に、劇的に、コウスケはその力を失くしていった。

 頑なに大丈夫だと言い張るから。

 コウスケをあの家に住まわせ続けることに不安はあったが、傷心の父の願いを聞いてくれないのかと懇願されればどうすることもできなかった。今更自分が実家に戻ることもできず、罪滅ぼしのように、毎週末父の元に通った。

 コウスケはゆっくりと、ゆっくりと、日常に溶け込むように夢の世界へ入っていった。

 コウスケの視界のあらゆるところに、アイコの姿が写り込んでいるようだった。それが再婚当初のまだ若々しいアイコの姿だったのか、はたまた、晩年、思うように体が動かなくなって、どんどんと衰弱していくアイコの姿だったのか。想像することもできないが、コウスケは時々で亡き妻に向けたものと同じ微笑みを浮かべて、慰めるような、あるいは諦めたような力ない声で、彼女の名前を呼ぶのである。

「アイコさん、今日も花が綺麗に咲いてますね」

 一見にこにこと柔らかい笑みを浮かべてコウスケが言った。

 夢の中に佇む父の姿が見ていられなくて、また意識のはっきりしている時分に本人が希望した通り、早いうちに介護施設へ入所できたのは幸いだった。アイコの時にあれこれ調べ回った経験が活きたのと、その時繋がりを持った施設に丁度空きがあったおかげである。入所当初は幾らか混乱の見られたコウスケだったが、今は落ち着いていて、部屋の窓から花壇を眺めるのを楽しみにしていた。日中、天気が良ければ散歩などにも行くらしい。

 その、コウスケの口から「アイコ」の名前が出るたびに、どこかぎくりと心臓が跳ねる、感じがする。担当の職員がにこやかに受け流すのを見つめながら、“寄り添えない”自分に辟易とする。

(父さんは、夢に溺れてるみたいだ)

 夢の中で、今でも彼はアイコと共に庭へ出て、花を植え、自然を慈しみ、どこか悲しい顔をする。その悲しみの理由を知っていた。アイコに向ける慰めの視線も、諦めの視線も、全てが一つに帰結するのだ。

「アイコさん……そろそろマコトちゃんと、テツが帰ってきますよ。ほら大丈夫、マコトちゃんは今日もちゃんと帰ってきますから。テツがいますからね」

 テツ、と、自分の名前をぼんやりとした声が呼ぶ。正しくは自分が呼ばれているわけではない。コウスケの記憶にある、過去の自分だ。

 いつの頃の記憶だろうか。マコトがいて、自分がいて、共に帰ってくるのだから、小学生くらいの時分と思われた。あの頃アイコは勤めていた会社を辞めたばかりだった。いつでも家にアイコがいるので、自分としては嬉しく思い懐いたものだが、会社に行かない分、在宅でできる仕事に切り替えていたので、書斎への立ち入りは厳しく禁止されていた。

 コウスケもまた、毎日事務所に詰めているわけではなかったので――多少余裕がある時などは極力アイコの傍にいて、平日の日中でも家にいることがままあった。今思えば、そのような業務形態に変えて貰っていたのかもしれない。

 学校から帰ると、玄関横の庭で夫婦そろってしゃがみ込み、スコップ片手にああだこうだと庭いじりをしている姿を度々見かけた。休日もよく見た風景だったが、自分が家の門を潜るたび、アイコもコウスケも揃って顔を上げて、一瞬安堵の表情を浮かべるのだ。次いで、どこか不安げな色を滲ませて、きょろりと僅かに視線を揺らす。続く言葉は決まってアイコからのものだった。――マコトは? と。問われる度に、自分はふん、と鼻を鳴らして、「知らない!」と玄関に駆け込んでいた。

(ああ、そうだったな)

 子供の頃、どうしてかマコトの事を好きになれなくて――というと、たぶん、きっと、大きな誤解を生む――マコトに関するあらゆることを拒絶して、拒否して、気に入らないと癇癪を起した。思えば自分だってまっすぐ育ったわけではない。マコトと比べるつもりは毛頭ないけれど。

(初めて会った時だって、そうだった)

 コウスケは皺の目立ち始めた手をひょいと上げると、窓に手をつき「アイコさん、あそこだけ黄色の花が混ざってるよ」と職員に言う。夢に溺れる父を見るのは、いつだってどうしようもないもどかしさを感じる。こんな人ではなかっただろう、と叫びたい気持ちと、最初から分かっていた諦めの気持ちと。致し方ない、と冷静に判断するのは、自分が自分で思う以上に“大人”になったからで、感情に呑みこまれそうになるのは、思うよりは“子供”だからだ。変わらない、どれだけ年を取ったって、自分はコウスケの唯一の実子なのだ。

 コウスケからそっと目を逸らして立ち上がる。伝えたいことは伝えたし――聞いて、理解したかはわからないが――コウスケが元気だった頃に書き記しておいた意思確認の書類、などがあるので、やることは変わらない。

 アイコと、コウスケの思い出の詰まった、あの家を壊して、無に帰す。

 話しをした数分前のコウスケは、存外しっかりした声で「そうか」と一つ頷いただけだった。それから、何かを思い出すように、探るように目を細めて、やがて静かに夢に落ちていったのだけれど。

(マコトと、初めて会った時……)

 職員に会釈をして部屋を出ながら、ふとそんなことを考える。あの家を処分するからだろうか。それとも、コウスケが幼い自分たちに呼びかけたからだろうか。

 わからなかったが、その記憶は自分にとって、心臓の奥深くにつきりと刺さったままの、鋭い棘のようなものだった。



 春の晴れた日の事だった。

 どこへ向かうとも知らされずに、父の運転する車に乗っていた。

 助手席に座るのは自分にとって「特別」な事で、いつも母が座っていたその席に今座っていることに、どこか興奮した気持ちでいたのを覚えている。同時に、この席に母が座っていないことを思い出しては、不意に泣きそうになるのを堪えていた。母を亡くして、二年ほどが経過していた。

 母のいない寂しさは、存外長く続かなかった。

 ふとした瞬間――例えば朝起きた時とか、外から家に帰ってきた時とか、夜寝る前とか――母がもういない事実に気が付いて、耐え切れずに涙をこぼすことは多かったけれど、ここ最近はその頻度も減っていた。

 母の不在を埋めるように、家を空けがちだった父が傍にいてくれるようになったからだ。それまで自分にとっての「父」とは、どこか他人のような――同じ領域内には存在し、無条件で自分に何かを与えてくれる存在ではあるものの、どこか自分とは無関係な――もののように思っていた。実際、父は仕事が忙しく、平日は朝早くから仕事に出て、夜遅くに帰ってくるので顔を見ることが殆どなかった。休日は時折遊んだり、一緒に出掛けたりしたものの、頻度はそれほど多くなく、二か月に一度、一緒に遊ぶことがあれば良い方だった。

 母は毎日、父の事を「お父さんはすごい人なのよ」と褒めてから、「テツくんは寂しいかもしれないけど、お父さんが一生懸命働いてくれてるから、お母さんもテツくんと安心して暮らせるんだよ」と言い聞かせた。続けて何度も何度も、「お父さんもテツくんのことを本当に大事に思っていて、愛しているのよ」と教えてくれたが、自分にとって特別響く言葉ではなく、その頃の自分にとって父の存在がいようが、いまいが、あまり変わりはないと思っていた。

 それよりも母のことが大好きだった。

 優しい母はいつも優しくて、温かくて、どこか甘い香りがした。好奇心旺盛で、何にでも興味を示す自分をよく見ていてくれて、すぐに「なんで?」「どうして?」「あれは?」「これは?」と聞いたのを、笑って一つ一つ教えてくれる母だった。

 その、母がいなくなってしまったから。

 幼心に、強制的に父と向き合わされたことで、母の不在を否が応でも認めなければならなくなって、比例するように父との距離を埋めたがった。母がしてくれたように、それ以上のものを父に求めてしまったのは、幼い故の無意識と、自己防衛からだったと思う。父はそれに応えるように――あるいはそれまでの不誠実を悔いるように――自分に割く時間を増やしていって、こうして、二人きりで出かけることも増えていた。

 その家に着くまでは、確かに自分は機嫌がよかった。

 母の面影はちらつくものの、普段出かけるときは必ず後部座席、と決まっていたので、そもそも助手席に座ること自体が本当に特別だったのだ。特別な状況で向かう先なら、きっと特別な場所に違いない、と、無意識に期待をしていて、遊園地だろうか、それとももっと面白いところだろうか。お泊りだろうか、楽しいことがあるだろうか、と、ワクワクした気持ちを抑えきれなかったのだ。

 車が到着したのはごく一般的な――と言うと少しばかり大きいのだが、当時の自分から見たらどこにでもあるような――民家だった。開けて貰った門から車を敷地内に入れ、停車した頃には、何か期待と違う場所に連れて来られた、事実に戸惑っていた。

「お父さん、ここどこ?」

 問いかけたのは不安からだ。玄関付近に見知らぬ女の人と、同じ年ごろの女の子が立っている。女の人の方は優し気な笑みを浮かべていて、女の子は表情がない。暗い顔色のままこちらをぼんやり見ていて、それがどこか不気味に思えた。

「この前、お父さんのお客さんで、お世話になってる人がいるって話したろう。テツと同じくらいの女の子がいるから、お友達になれるんじゃないかと思ってな」

 父はにこにこと笑って言うと、シートベルトをかちゃりと外してくれた。外から体を抱えられて地面に下ろされる。空調の聞いた車内とは違って、春先の空気は少し冷たく感じられた。

 普段、好奇心旺盛で、何にでも興味を示したはずなのに。

 どうしてかその日、自分からあれは? これは? と尋ね歩くような気分にはなれなくて、先を歩いて女の人に挨拶をした、父の足にぴったりとくっついていた。女の子がこちらを窺うように見ていたのも原因かもしれない。何か、観察されているような気分になったのだ。

「テツ。この人はアイコさん。それから、こちらがマコトちゃん。テツより二つ年上だけど、仲良くできるよな」

 父は決めつけるように言った。それから、とん、と背中を押される。

 弾みで前に出た体は、アイコ、と紹介された女の人と、マコト、と紹介された女の子の視線にさらされて、急に硬直したようだった。「あ、」と言葉がうまく出ずにもぞもぞとしていると、見かねたアイコさんがしゃがみ込んで視線を合わせる。

「テツくんね。私はアイコ。今日はよろしくね」

 にこにこと、優しく笑う。その笑みの雰囲気が、どこか母に似ている気がして、瞬間的に顔が熱くなったのを覚えている。

 返事をする代わりに頷くと、父とアイコさんはそれで「良し」ということにしたらしかった。父が玄関横の庭を見ながら、「そうだ、テツ、マコトちゃんと遊んでおいで」とそんなことを言う。

「えっ」

 マコトちゃん、と、名前が出たので反射的に顔を向けた。アイコさんの影に隠れて佇んでいた、マコトがぬっと一歩前に出た。

 じめじめした女だ、と、最初に思ったのはそんなことだった。

 マコトの周囲からは何か、暗くて重い、影のようなものが溢れている。アイコさんは優し気で、温かそうで、どこか甘い匂いのしそうな、母に似た色を持つのに、マコトが傍にいるせいで急にじめじめとした空気に包まれてしまう。この家をお世辞にも「明るい家」と思えなかったのは、その中心にどうしてかマコトがいるせいだった。

「おれ……おれ、こいつと?」

 こいつ、と、反射的に飛び出した言葉に父が少し眉を潜めた。「テツ」と、窘めるような声が名を呼ぶ。すぐさま「しまった」と思ったが、口から出た言葉は戻らない。

 乱暴な呼び方をした、と言う自覚はあったが、それでも受け入れ難かった。父が「テツ。仲良くできるよな?」ともう一度聞く。また、決めつけるような言葉に、嫌だ、と否定したい言葉が喉奥で突っかかる。

 感情のまま、「いやだ」と叫んでしまったら、きっと後悔するような気がした。幼心にもそのような感覚はあって、けれどもそれで制御できないくらいには、心は未成熟だった。

「やだ!!」

 反射的に叫んで、マコト、と呼ばれた女の子を見向きもせずに庭の奥へと駆け出す。敷地の外に出る勇気はなくて、兎に角目に見えた隠れられそうな所へ駆けこんだ。「テツ!」と父が名前を叫ぶ。アイコさんが苦笑を浮かべて「大丈夫です、コウスケさん」と宥める声と、自分の代わりに「すまない、ごめんね、マコトちゃん」と謝罪する父の声が、どこか別の世界の声のように聞こえた。

(いやだ、だって、なんであいつ、)

 庭の奥にある花壇の、手入れされていない雑草だらけの茂みにしゃがみ込んで隠れながら、じわじわと目頭が熱くなるのを感じた。今日は特別な日で、楽しい日だと思っていたのだ。車がこの家に着くまでは。

(あんな、じめじめしたやつ)

 マコトは目の前で拒絶されたにも関わらず、表情一つ変えなかった。自分より二つ年上、と父は言っていたが、自分だったら耐えられない。泣きもせず、怒りもせず、動揺もせず、悲しみもしない。マコトの目は何も映していないようで、それが酷く恐ろしかった。

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